(26) 高杉彌太郎がいた!

ついに!

新聞記事に「高杉彌太郎」の名前を見つけました!(昭和15年2月29日付・横浜貿易新報)


しかも!

近江二郎一座の舞台に立っていたというのです!


昭和15年3月の横浜・敷島座(伊勢佐木町四丁目)!


後年、大高が頻繁に助演する伏見澄子一座の横浜初登場が昭和13年の2月で、その時には高杉彌太郎の名前はありませんでした。だからこの時点では伏見澄子一座と高杉(大高)の接点はなかったと考えるのが妥当だろうと思います。

それから2年後。

昭和15年の春に高杉(大高)は、戦後、弘明寺・銀星座で開場記念の舞台を勤める、あの近江二郎とともに横浜の舞台に立っていたのです。

なんという出会いでしょう!


記事によれば近江二郎は大正時代から横浜で頻繁に興行をしていて、絶大な人気を誇っていたとのこと(これも調べねば)。

それが、その後はなかなか機会に恵まれず(アメリカ公演などもしていたので)、横浜とは疎遠になっていたのが、この年の春に籠寅演藝部に所属したことで、敷島座(籠寅の劇場)の舞台で横浜へ久々に戻ってきたのだそうです。

記事の見出しの大きさからもわかるように、横浜の演劇ファンにとっては、懐かしの、待望の近江二郎一座、というわけです。

そんなドラマチックな興行に、大高が参加していたというのは、なんという偶然、いや必然でしょうか。大高を調べている身としては、大高と近江の接点がこんなところにあったのかと思わず仰天してしまう記事でした。


なお、この舞台には「大山二郎」という役者も出ています。大江三郎と字がよく似ていますが、大山はやがて近江一座を離れるので、大江とは別人だと思っています。

しかしまだ確証はありません。もし仮に同一人物だとしたら

近江二郎=大江三郎=大高ヨシヲ

が同じラインでつながることなります。

もちろんこの三者のつながりがなくとも、大高と近江、近江と大江がつながっているワケですから、相互の関係はかなり密接です。

もはや杉田劇場と銀星座は「ライバル」なんていうものではなく、戦前・戦中の横浜演劇界における「人脈のるつぼ」みたいなところに生まれた華、兄弟劇場といってもいいくらいだと感じ始めています。


昭和15年の春から横浜での興行をスタートさせた近江二郎一座は、その後、横浜の敷島座あるいは川崎の大勝座でしばしば興行します。

うかつにも伏見澄子一座にばかり目がいって、近江一座を詳細に調べることを怠っていましたが、こっちに大高が参加している可能性も十分にあるわけです。調査の「鉱脈」みたいなものがまた見つかったように思います。

これで、旧杉田劇場で大高と組んだ相手が、近江二郎一座の文芸部にいた大江三郎というのも、すっかり腑に落ちる話となりました。


昭和15年の近江一座の興行も、これまで調べた限りで、3月から5月までずっと続いていますし、その2年後、昭和17年の伏見一座の興行も川崎・横浜で2ヶ月。おまけに海江田譲二や中野かほるとも川崎で1ヶ月。

大高ヨシヲ(よし男)、前名高杉彌太郎は、京浜地区でそれなりの長期間、演劇の興行に参加していたわけです。

つまり、彼にとって横浜は「馴染みの土地」だったのだと言っても、あながち間違いではない気がします。

それをふまえれば、戦後の活動再開にあたって、小屋として、横浜で最初に開場した杉田劇場を選んだ理由もよくわかります。もしかしたら、銀星座のオープニングを近江二郎一座にしたのも、大高の助言があったからじゃないかと思うくらいです。

(スゴイ前進だ!)


昭和15年から16年、ここの情報をしっかりと精査して、大高の横浜での活動の空隙を埋めていく。

これからのミッションの方向性が決まってきました。


→つづく


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