(57) 名古屋の大高よし男

大高よし男の足跡をたどる際に最もデータの充実した資料が『近代歌舞伎年表』です。

このシリーズはこれまでに「大阪篇」「京都篇」「名古屋篇」が出ているようですが、僕が大高の名前を書籍の中で最初に見つけたのがこの『年表』の「京都篇」なのです。

今夏、「名古屋篇」の最新刊(第17巻)が出版されるということで、とても楽しみにしていました。この巻は昭和14年から22年までの9年間の、名古屋での舞台興行をほぼ網羅したもので、近江二郎一座に参加する前の大高(前名の高杉弥太郎)がどのようにして近江一座と出会うのか、その時期やキッカケを探る上で重要な情報だと考えていたからです。


高杉弥太郎の名前の登場は、僕の調べた範疇では、昭和15年3月、横浜敷島座における近江一座の俳優一覧を掲載した「横浜貿易新報」の記事が最初です。

つまりその前年、昭和14年の高杉弥太郎の動向がわかれば、近江一座との関係が見えてくるかもしれないと考えているわけです。


近江二郎が昭和15年に敷島座に来た際には、かなり久しぶりの来浜だったそうなので、仮に大高(高杉)がそれ以前から近江一座に関わっていたとしたら、横浜の情報の中に高杉が出てくることはないはずです。

実際、昭和13年の伏見澄子一座には参加していませんし、昭和14年の横浜の新聞広告にも高杉弥太郎の名前を見出すことはできません。

また、上記『年表』の「京都篇」を調べても、昭和14年以前に大高の名前が見られないことから、残された可能性は(大都市に限るならば)「名古屋」か「東京」となるわけです。

「東京」については今のところ『都新聞』を頼りにしていますが、昭和14年の1月から3月くらいまでの間に、近江一座や大高の名前を東京の劇場に出演する面々の中に見つけることはできませんでした。


で、名古屋。


最新刊ということもあって、なかなか図書館に収蔵されないというもどかしさがあったものの、これが「横浜市立大学学術情報センター」というところにあったばかりか、このセンターには「市民利用制度」というものがあるということを知って、さっそく行ってきました。

市大生の利用が基本であることと、市民にはあまり知られていないこともあってか、土曜の午後のセンターはとても静かで、落ち着いた調査ができました。

その結果、書籍としては「京都篇」にしか見られなかった「大高よし男(高杉弥太郎)」の名前をこの「名古屋篇」にも見つけることができたのです!

ただ、やはり昭和14年には名古屋での近江一座の興行はまったくなかったようで、その他の劇団の情報の中にも、大高ないし高杉の名前は見られませんでした。つまり、「名古屋篇」でも大高と近江一座の関係を明らかにすることはできなかったわけです。


「名古屋篇」に掲載されていた大高(高杉)の情報は年代順に以下の通りです。


(1)昭和15年7月8日〜 名古屋・歌舞伎座「剣戟・現代劇合同一座 二の替わり興行」

この興行は近江二郎一座、酒井淳之助一座、川上好子一座による合同公演で、演目は『元禄女大名』『新四谷怪談』『青春の叫び』『蝙蝠』です。このうち、『新四谷怪談』『青春の叫び』は近江一座の他の興行でも見られるものなので、近江のレパートリーと考えられます。

この興行の情報に「高杉弥太郎」の名前が出てくるのです(典拠は「名古屋新聞」広告)。

『近代歌舞伎年表』名古屋篇 第17巻(八木書店刊)より

昭和15年3月から6月まで、近江二郎一座は横浜敷島座で興行を続けていたので、これはその座組が名古屋に移動したものと考えていいでしょう。

以前から推測していた通り、この時期の大高(高杉)が近江一座の興行にずっと帯同していたことは間違いなさそうです。



(2)昭和17年7月4日〜 名古屋・歌舞伎座「映画人の実演 8協団 海江田譲二一座 お目見得狂言」

この興行は以前にも「大高、映画スターと共演!」の項で書きましたが、同年6月下旬から始まった川崎大勝座での興行と同じ座組が、そっくりそのまま名古屋に移動した形のようです。川崎での興行が短期間であるのに対して、名古屋はこの後、ほぼ1か月の興行が続くので、もしかしたら川崎は試演的な舞台で、名古屋が本命だったのかもしれません(ちなみに大高は昭和17年正月に「高杉弥太郎」から「大高よし男」へと改名しています)。

『近代歌舞伎年表』名古屋篇 第17巻(八木書店刊)より

前にも書いた通り、ここで重要なのは「中野かほる」との共演です。中野かほるは戦前の美人女優ですが、引き抜きやら移籍やらのゴタゴタなどもあってか、映画女優としては完全に花開くまで至らず、その後は舞台出演や映画での助演的な出演などを経て、戦後、1962年頃に引退することとなります(『日本映画俳優全集・女優編』(キネマ旬報社)より)

既報の通り、この中野かほるが大高よし男の死後、旧杉田劇場で行われた追善興行に出演しているのです。

1946(昭和21)年10月22日付神奈川新聞より

終戦直後はイマドキの言葉でいう「あの人はいま」に近い状態だったのかもしれませんが、1912年生まれですから終戦時は33歳。まだまだ若い女優で、人々の記憶にもあったはずです。ゲストとはいえ、追善興行に参加するというのは、それなりの思いがあったからではないかと推測しています。

大高よし男と中野かほるの関係も、少し探ってみたいところです。

この情報の典拠は「新愛知」の広告と「名古屋新聞」の広告だそうです。川崎での興行の広告では読み取れなかった団体名「8協団」もこれではっきりしました。

ちなみにこの興行は映画スターが出演するせいか、二の替り・三の替りも新聞広告が出ていたようで、7月12日〜、7月22日〜のそれぞれの広告にも「大高よし男」の名前が出ています。スターであった「海江田譲二」「大内弘」「中野かほる」と同列ですから、この頃すでに、大高はそれなりの知名度があったと思われます。


(3)昭和17年12月31日〜 宝生座「初春興行 伏見澄子一座・河合菊三郎一座」

この興行もすでに情報のある伏見澄子一座への助演(特別出演)の名古屋版ということになります。

『近代歌舞伎年表』名古屋篇 第17巻(八木書店刊)より

大高よし男は昭和17年の1月からは、ずっと伏見澄子一座に参加していたようです(6月と7月だけは上記の海江田譲二一座に参加)。

伏見一座とともに、東京(浅草)、大阪、横浜、名古屋と、長期にわたってほぼ休むことなく旅興行をしていたことが記録からわかります。

昭和18年5月の京都・三友劇場での伏見澄子一座への参加という情報を最後に大高の消息はわからなくなりますから、戦前・戦中の大高にとって、この伏見一座との共演の時期が最も人気があり、脂が乗っていたと言っていいのかもしれません。

この情報でも伏見澄子一座のベテラン剣戟俳優「宮崎角兵衛」と並列で名前が載っていますから、やはり大高の実力の程がわかるというものです。

典拠は「中部日本新聞」の広告です。


というわけで、『近代歌舞伎年表』名古屋篇からは、大高のプロフィールがわかるような追加の新情報は見つかりませんでしたが、各地で行っていた舞台の多くは名古屋でも行われていたことがわかったし、さらにいえば、各地で共演する俳優たち(たとえば松園桃子や三桝清、二見浦子など)が、大高と同時期に名古屋の別の座組で舞台に立っている例も少なくなく、大高にとって名古屋は次のチャンスを掴む「ハブ」のような地だったのかもしれないということがわかってきました。

大高に限らず、名古屋は彼らの所属していた籠寅興行部が全国での興行を見据えて、座組を考える実験的な地だったのかもしれません。


この先は引き続き、昭和14年以前の大高よし男(高杉弥太郎)の調査になります。

『都新聞』で浅草の状況を調べたあとは、広島・福岡など、これまで着手していなかった新たな興行地の情報を調べたいと思います。

大高の実像は、まだ見えない。


→つづく


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