(124) 小針さん所有の資料から(つづき)

前回の続編なので更新スパンを短くしての投稿です。

今回も小針侑起さんにお借りしている資料から、大高よし男に関するものを見ていきたいと思います。


前回最後に紹介した、謎の残る1942(昭和17)年9月興行のパンフに続くのは、同年10月1日からの興行のものです。

このパンフ(筋書)から大高の名前も太字で表記されるようになります。8月31日のものでも伏見澄子、二見浦子、河合菊三郎といった役者はすでに太字になっているので、三友劇場ではこの頃からこうした表記が始まったのかもしれません。

演目は

時代劇『風雲熊本城 西南餘聞 谷村と千葉健三郎』(行友李風作)
時代劇『子負ひ道中』(巽義夫作)
時代劇『暁の鍔鳴り』(末廣薫作)

大高は『谷村と千葉健三郎』『暁の鍔鳴り』の2本に出演しています。

実はこの配役の中に気になる名前があります。

高田光太郎

です。彼は大高が出演した2本ともに出演しています。

この名前、実は少し前にも紹介したことがありました(→こちら)。

1941(昭和16)年3月、横浜敷島座の筋書(シキシマ・ニュース)に大高の前名、高杉彌太郎とともにその名が掲載されているのです。

ただ、この時は大高同様(おそらく)近江二郎一座の一員として出演していたはずなので、上掲の伏見澄子一座にこの名前があるのは少し奇妙な気がします(彼以外、重複した名前はなさそうだし)。

もっとも、そもそもを言えばこれが同一人物なのかもはっきりしません。

仮に同一人物だとして、ここに名前があるということは、前回推察したように、その人物推定として「杉田劇場のオーナー・高田菊弥本人」説や「その関係者」説というのは、時期や地理的に少し考えにくくなってきます。安易な短絡は慎むべきですが、高田光太郎は大高よし男と直接つながりのあった役者、ことによると大高の直弟子やごく身近な弟弟子で、大高が近江一座以外に出演する際に帯同するような関係だった可能性もあります。

役柄からして子供ではなく、比較的若いの成人男性のようです。

同一人物かどうかも含め、この人についても、新たな調査対象として出演記録を追いかけるなど、もう少し調べてみなければなりません。そのことで大高の痕跡につながる可能性があるかもしれません。


さて、その次は10月20日からのもの。

ここでも大高の名前は太字で、「高田光太郎」の名前も見られます。

演目は

時代劇『唄ふ若様』(長一郎作)
時代劇『泣き濡れ長脇差』(藍島千里作)
時代劇『源九郎狐』(末廣薫作・演出)

大高は『唄ふ若様』『源九郎狐』の2本に出演。高田光太郎の方は3本すべてに出演しています。


小針さんの資料の中にある大高の名前が掲載されたパンフ(筋書)の最後は、これまでのものから半年ほど経った1943(昭和18)年4月20日からのものです。


同じ三友劇場ニュースですが、形状やサイズが変化していて、以前、僕が個人的に入手したパンフ(筋書)と同じ時期、同じ座組の興行のものと考えられます。

ここでも大高の名前は太字で記載されています。太字は伏見澄子、林長之助、三桝清、片岡松右衛門、筑紫美津子ですから、いずれも座長クラスか、かなり実力のある役者で、大高の役者としての格がかなり上がった印象です(なぜか宮崎角兵衛は太字ではなくなっています)。

この興行は伏見澄子一座と林長之助一座の合同公演です。以前も紹介しましたが、林長之助は盲目の歌舞伎役者なので、演目は

時代劇『情怨おけさ小唄』(坂本晃一作)
歌舞伎『廓文章』
時代劇『嬬戀天龍』(藍島千里作)

と、歌舞伎を挟む3本となっています。大高は『嬬戀天龍』の1本だけに出演しています。

なお、この興行に高田光太郎は参加していません。

半年の間に、高田の身に何かあったのでしょうか。時期的には召集・出征などが考えられますが、理由はどうあれ、この時は大高と別行動ということだったようです。近江二郎一座に参加していたということなのかもしれません。


さて、小針さん所有の大高関係資料はここまでですが、実は中には不二洋子一座に近江二郎一座が加盟参加しているパンフもありました。

これは大高が京都の舞台に出ていたのと同じ時期、1942(昭和17)年10月1日から、大阪弁天座での興行のものです。

ここには近江二郎のほかに、深山百合子、大山二郎といった(おそらく)近江一座の幹部俳優のほかに、のちに大高一座の支配人となる「大江三郎」の名前も見られます。

また、以前「今昔十二ヶ月と近江二郎」のタイトルで投稿した際に、写真と照合した役者の名前(澤井五郎、濱原義明、大島伸也、河村陽子、中村扇子)らの名前も見られます。彼らは不二洋子一座の座員だったのでしょうね。

この興行では、大江三郎の作による『青春の叫び』も上演されています。この作品はこれまでも広告などでたびたび目にしてきました。おそらく近江一座の人気レパートリーだったのでしょう。ただどんな内容なのかはさっぱりわからないままでした。

ありがたいことに、このパンフには梗概が掲載されていたので、今回、ようやくそのストーリーを知ることができたのです。

掲載されていた梗概をさらにざっくりまとめると

画才のある苦学生が芸者と恋に落ちるが、旧友によって画家としての未来も恋人も奪われる。年月が経ち、ふとしたことで再会した三人。男たちは激しい闘いになる…

といった形になるでしょうか。いかにも典型的な新派芝居といった内容です。終場、教会の鐘の音が葛藤やわだかまりを一気に解消するくだりは、劇作上、デウス・エクス・マキナの手法ともいえ、とても興味深い芝居です(全編を読んでみたい)。


なお、小針さんの著作『浅草の灯よいつまでも 浅草芸能人物列伝』の「不二洋子」の章に、1941(昭和16)年7月、京都南座での興行のパンフが掲載されています(※176ページ/時期は『松竹七十年史』で確認)

この時は「近江二郎加盟」の形ではなかったので、上述のような近江一座の幹部役者の名前は見られません。大江三郎の名前もありません。これまでの調査でも「大江三郎」の名前は常に近江二郎一座とセットで登場していて、やはり彼は近江一座の文芸部員だったと断定してもよさそうです(名前の近似からしてもそう考えられる)


こうしてみると、戦前から大高とともに名前の出る人のうち、少なくとも大江三郎と高田光太郎は、近江二郎と大高よし男をつなぐ重要な人物だったように思えます。逆に、近江二郎と大高よし男の関係は、人的交流のあるほどかなり密接なものだったとも言えます。

前にも書いていますが、近江二郎が最初に杉田劇場で興行をしたのが1946(昭和21)年1月26日〜2月4日。大高が杉田劇場を訪れた時期は「2月に入り」とされていますから(片山さんの証言による)、近江一座の千秋楽の頃です。

大高が杉田劇場に来たというのは、自身を売り込みに来たというよりは、近江二郎を訪れたと考えた方がいいでしょう。もしくはその段階ですでに戦後の近江一座に大高が参加していたのかもしれません。

いずれにしても、その大高を近江二郎が、高田菊弥や鈴村義二に専属劇団の座長として紹介(推薦)した、というのが自然な流れのように思えるのです。

それが決まったことで、近江二郎は、自分の一座の文芸部員・大江三郎や役者・高田光太郎(孝太郎)を大高の暁第一劇団に参加させたのではないでしょうか。

大高の出生地や居住地などはまだわかりませんが、少なくとも彼が戦後、浅草や京都ではなく、横浜にやって来たのは、近江二郎がいたから、という考えは、かなり確度の高い推論で、大高よし男の師匠は近江二郎である、という自説の信憑性も、かなり高いと自負していいように思います。


これまでの調査では、戦前・戦中、大高よし男が座長として一座を率いていた記録は見つかっていません。もしそうだとすると、大高にとって杉田劇場の暁第一劇団は初めて座長をつとめる劇団ということになるわけです。

戦争が終わり、新しい時代の中で、自分の一座ができたというのは、大高にとってどれほどの喜びだったかと思うと、彼の希望に満ちた姿が目に浮かぶようで、こちらまで心が浮き立ってきます(妄想です)。


そんなわけで、今回は前回に引き続き、小針侑起さんの資料から大高の足跡を辿ってみました。小針さん、あらためて、ありがとうございます(もうしばらく他座の調査も続けさせてください。なるべく早急にお返しいたします)



→つづく
(次回は今年のまとめ:12/26更新予定)

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「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
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