(89) 旧杉田劇場の幕について

今回は少し趣向を変えて、旧杉田劇場の引幕について。

現存する旧杉田劇場の写真の中で、おそらくもっとも情報量の多いのが、昭和23年に寄贈されたという引幕の写真です(現杉田劇場のウェブサイトやブログには「緞帳」と書かれていますが、実際は引幕が正しいと思います)。

旧杉田劇場引幕(杉田劇場所蔵)

この幕の絵は、地元・浜中学校の美術教師だった間邊典夫氏が描いたもので、梅とウミネコがモチーフになっているそうです。

写真をよく見ると、この引幕の上部にたくし上げたもうひとつの幕が見えるので、開場当初からあった幕と、この時寄贈された幕の2枚があって、双方を交互に使っていたのかもしれません。いずれにしても幕の材質、舞台のタッパや機構からして、昇降式の緞帳ではなく、引幕だろうとは思います。

ちなみに、弘明寺銀星座の引幕は横浜市図書館のデジタルアーカイブで閲覧することができます(こちらも「緞帳」となっていますが、やはり「引幕」が正しいと思います)。


さて、旧杉田劇場の幕にはさまざまな店舗名や個人名が記載されています。不明なものも多くて、すべてが判明したわけではないのですが、古い資料などを調べた結果、だいぶわかってきたので、詳細も含めここに書いておきます。


(舞台上手(向かって右側)から)


昭和木工所

詳しいことはわかりませんが、昭和27年の『全国工場通覧』など、いくつかの資料に同名の工場があります。南区睦町ですから、市電を使えば杉田へは乗り換えなし、車でも国道16号を使えば簡単に来られる距離ですので、この工場である可能性は高い気がします。

とはいえ、木工所がなぜ広告を出しているのかは不明です。もしかしたら劇場の椅子(長椅子=木製)を作った工場なのかもしれません。


1947(昭和22)年5月14日付神奈川新聞より


カワイボクシングクラブ

これは有名なボクシングジムで、1931年横浜山田町に設立。戦後、曙町に移転したそうです。杉田劇場元スタッフのTさんによれば、美空ひばりの父、増吉さんがここでボクシングを習っていたとの話もあるらしく、その関係で広告を出したのかもしれないとのこと。

現在は神奈川渥美ボクシングジムとして、その系譜がつながっているそうです。

横浜市中区曙町2-5 代表:河合鉄也


杉田公設市場際 平野歯科医院

平野歯科は現在も同じ場所にある歯科医院です。サイトをみたら1940年開院だそう。

平野歯科(2022.3撮影)

天ぷらの店 杉田町 伊藤政治

これは杉田にある「政寿司」の店主で、店は現在も同じ場所で営業を続けています。

中原に残る「政寿司」の古い電柱看板


茂呂真吉

この方についてはまったくわかりません。どなたか情報をお持ちでしたら教えてください。


土木建築 泉建設株式会社 長者町(3)三一五三

この会社についてもまったく不明です。


中華料理 森町  糸勝楼

これは白旗商店街にあった飲食店で、昭和30年代の明細地図には「氷のみもの 糸勝」と記載されています。後述の「川崎青果」でお話をうかがった際に、「糸勝」という店があったと確認できました。

『横浜市商工名鑑』(昭和35年)より

御下宿  丸山町広地7 豊石荘 長者町(3)一六八九

この下宿(アパート)については、住所も電話番号もわかっているのに、詳細は不明です。


安心して頼める店 杉田新道 野村電氣商会

この店は私の記憶にもある街の電器店で、杉田商店街の中にありました。いまはもうありません。


杉田聖天橋際 代々木屋呉服店 長者町(3)〇九〇七

この呉服店も杉田商店街の中にありました。ドラッグストア「ハック」の隣。現在は「おかしのまちおか」になっていますが、よく見ると外観に呉服店の風情が残っています。以前は国道16号線沿いにあったそうで、だからこの幕の表記が「杉田聖天橋際」となっているのだと思います。

1947(昭和22)年1月19日付神奈川新聞より


横浜桜木駅前 日晴樓 長者町(3)四一七〇

これはもともと伊勢佐木町にあった飲食店で、その当時は「日清楼」、戦後、桜木町に移転して「日晴楼」に改名したそうです(「横浜市商工名鑑・昭和35年版」によれば中区花咲町1-47)。

戦前の伊勢佐木町の写真(絵葉書)などにも写っている店で、サイト「横浜古壁ウォッチング」の「震災後・戦前期の伊勢佐木町」のページ下段、「その3 長者町×伊勢佐木町交差点」の写真、右側の電信柱のカゲに「日清楼」の看板が見えます。

戦後、桜木町に移転した際の新聞広告もあり、ここに描かれたイラストと同じものが杉田劇場の幕、「日晴楼」の店名上部にも描かれています。

1947(昭和22)年1月5日付神奈川新聞より

杉田劇場の元スタッフ、Tさんによれば、ここの店主が芝居好きで、よく杉田劇場に通っていたそうです。そんな関係もあって広告を出したのでしょう。


志村高明

幕の中央に、ほかよりも目立つ形で出ている個人名ですから、かなり気になる人です。この人は磯子区役所が出した『浜・海・道』に栗木町でカーネーションを栽培していた人として写真も載っていますが、土建業としても記録されている人で、昭和22年には市議選に立候補するなど、なかなかの野心家だったようです。いま風にいうと起業家という感じでしょうか(ちなみに選挙結果は落選)。

1947(昭和22)年4月11日付神奈川新聞より

杉田劇場のブログにこの人について詳しく調べた記載があります→こちら


横濱市設 杉田公設市場

これは杉田のバス通り「中原本道」沿いにあった公設市場です。私もよく覚えています。いまはなく、跡地の手前側はつい先日まで駐車場でしたが、何かの工事が始まっているので、また何か別のものになるのかもしれません。

杉田公設市場跡地(2022.3撮影)


うまいのである 石川の牛豚肉

これは杉田商店街にある「肉の石川」です。現在も営業していて、メンチカツなどお惣菜も豊富な人気店です。

肉の石川(2022.3撮影)


杉田新道 満るや 深野金物店

これも杉田商店街で営業を続けている「深野力蔵商店」です。「満るや」というのが屋号で、杉田劇場の隣にあった「吐月館」(丸屋)という旅館は、ご親族が経営していたようです。

吐月館についても杉田劇場のブログに記載があります→こちら


神浴専務理事長 江尻良蔵

この先はどういうわけか銭湯の関係者が多く登場します。
江尻良蔵は根岸にあった「江陽館」という銭湯の経営者だそうで、現在はありませんが、江陽館の二号店(?)で、磯子区中浜町にある「第二江陽館」は江尻から経営を引き継いだ方がいまも営業を続けているようです。

『毎夕企業総覧 昭和27年版』(東京毎夕新聞社)より

引用した上掲書の記述からすると「神浴」は神奈川県浴場商業協同組合のことを指すと思われます。

ちなみに、江尻という姓は横浜の銭湯経営者によく見られます。親戚が銭湯経営をしていたということなのでしょうか。


石橋寅四郎

個人名しか情報がないので、この人のこともよくわからないところですが、前述の志村高明と同じく昭和22年の市議選に立候補しています(ちなみに選挙結果はこちらも落選)。


元日飛(日本飛行機)の組合関係者と書かれている資料もあって、これが同一人物なのかはよくわからないところです。

また、別の資料には磯子の衣料品製造業の代表者としても名前が見られます。これが同一人物なのかどうか、詳しいことはよくわかりません。上に引用した新聞の立候補者名の欄には「工場長」とあるので、組合関係者というよりはこちらの繊維工場の経営者という方が合致しているような気もします。戦前に日飛の組合員だった人が、戦後になって繊維工場を始めたということなのかもしれません。

「全国工場通覧」昭和25年版より

兵頭一刀

この方も個人名だけなので、詳しいことはわかりませんが、『全国工場通覧(昭和25年版)』によれば、以下のとおり磯子区にあった縫製工場の代表者として同じ名前が出てきますので、その人だろうと推測しています。

『全国工場通覧』(昭和25年版)より


長谷川好祐

この方についてもまったく情報がありません。おわかりの方がいたらぜひ教えてください。


谷津坂温泉 平田佐太郎 長者町(3)七八〇一

これについてもまったく不明です。「谷津坂温泉」という名前からして、谷津坂(現在の能見台)にあった銭湯ではないかと推測していますが、地図を見ても出てこないのではっきりしたことはわかりません。

ただ、横浜市歴史博物館と横浜開港資料館の共同企画店「銭湯と横浜」の図録には、平田佐太郎という名前が、戦前、神奈川区平川町にあった「日ノ出湯」という銭湯の経営者として記録されているので、同じ人が戦後、金沢区で銭湯を経営していたということかもしれません。


杉田町 山本熊太郎

これも名前だけなので、なかなかわかりづらいところでしたが、昭和34年の「横浜商工名鑑」に杉田の銭湯「梅之湯」の経営者として出てくるので、この方だろうと思います。梅之湯は杉田劇場のすぐそばにあったので、役者や従業員が利用していたのかもしれません。

『横浜商工名鑑』(昭和34年)より


森町 川崎果實店

これは白旗商店街にあった「川崎青果店」のことで、惜しまれながら昨年3月に閉店してしまいましたが、その直前にお邪魔してお話を伺ったところ、間違いないとのことで確認できました。

川崎青果店(2023.2撮影)


杉田町 山口自轉車店

これは杉田にある「山口モータース」のことだと思われます。山口モータースは現在も杉田で営業しています。


以上がこれまでの調査結果です。


銀星座の引幕にも同じように店舗や個人名が描かれていますが、あちらはほとんどが弘明寺商店街の関係者であるのに対して、杉田劇場の引幕にある名前は、杉田だけでなくむしろ磯子町や根岸の方が多いような印象で、しかも繊維関係者や銭湯関係者が多いというのも気になるポイントです(もしかしたら「たくし上げている」最初の引幕には杉田商店街の店舗名が多く描かれていたのかもしれません)。

昔の劇場にはたいてい浴室があって、旧杉田劇場にもありましたから、役者が化粧を落とすのに銭湯を使うようなことはなかったと思います。銭湯関係者とは単なる付き合いがあっただけなのかもしれませんし、杉田劇場の経営者だった高田菊弥との関わりがあるのかもしれません。詳しいところはよくわかりません。

旧杉田劇場についても引き続き調査を続けていきたいと思います。


というわけで、今回は少し趣向を変えて、旧杉田劇場の引幕に書かれた店舗名や個人名について調べてみました。


→つづく


「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら


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