(15) 大高ヨシヲをめぐる人々(2) 〜日吉良太郎〜

今年は関東大震災からちょうど100年の節目だそうです。

100年というとずいぶん古い話に思えますが、阪神淡路大震災が28年前、東日本大震災でさえも12年前。100歳を超える高齢者が珍しくない時代ですから、つい最近のことともいえます。

震災で横浜の街は壊滅状態になりました。処理に困った大量の瓦礫を使って港の一部を埋め立て、それが山下公園になったというのは有名な話ですが、明治以降、居留地(関内)とその外側(関外)にそれぞれ独自の世界を築いていた新興都市の文化は、震災ですっかり失われてしまいました。

関外の劇場街もほとんどが倒壊して、震災前の横浜の演劇の灯は消えてしまったといっても過言ではありません。

ですが、その後、昭和初期に相次いで劇場が新設されたおかげで、かつての賑わいを取り戻したかのような隆盛期が再びやってきます。小柴俊雄さんの労作『横浜演劇百四十年』では、金美劇場の登場(昭和16年)のことを "従来の横浜宝塚劇場、敷島座、横浜花月劇場を加えて、横浜の中心部に演劇王国を出現させた" と紹介しています。

しかし、それもふたたび、昭和20年5月29日の横浜大空襲で灰燼に帰してしまいます。

たびたび引用する『演劇年鑑』(昭和18年版)には当時の主要劇場一覧が掲載されていますが、ありがたいことに劇場の間口とキャパ(席数)が載っているのです。横浜の主要劇場として挙げられている三館のデータは以下のとおりです。

横浜歌舞伎座(末吉町) 間口:六間半、席数:494人
金美劇場(南吉田町) 間口:八間、席数:478人
敷島座(伊勢佐木町四丁目) 間口:四間、席数400人

間口とキャパですべてがわかるわけではありませんが、サイズを知るだけでも、それぞれが個性的な面白い劇場だったことは容易に想像できます(間口八間でキャパ478って、すごい劇場ですよね)。

歴史に「もし」を持ち込んでも詮無いことですが、もしこれらの劇場が残っていたら、横浜の演劇文化はどうなっていただろうと、ないものねだりの空想と知りつつ、複雑な思いを抱かざるを得ません。


さて、日吉良太郎は、そんなふうに再び隆盛を見た昭和初期の横浜演劇界で、もっとも有名な人でした。伊勢佐木町四丁目の「敷島座」や末吉町の「横浜歌舞伎座」を拠点に、旺盛な活動をした劇団の座長です。彼らの舞台は「日吉劇」と呼ばれ、人気を博していました。にもかかわらず、日吉一座は終戦とともに解散して、日吉の名前は現在ではすっかり忘れられてしまったのです。

東京の文化を潮流の栄枯盛衰とするなら、横浜の文化は潮流の断絶と再建の連続といってもいいでしょう。劇場も劇団も、演劇のムーブメントも、壊れては立て直し、立て直しては壊すの連続です。その傾向は今でも続いている、と言ったら言い過ぎでしょうか。

本題に戻りましょう。


日吉良太郎一座


日吉良太郎とは

前掲の『演劇年鑑』(昭和18年版)によれば

日吉良太郎(北村喜七)
明治二〇年 岐阜生まれ
日吉團團長
俳優協會評議員
横濱市中區井土ヶ谷中町**
長者****
(電話番号まで掲載されているのがすごいところですが、一応、今回も伏せ字にしました)

井土ヶ谷中町は当時から住所表示が変わっていないはずなので、現在地の特定は簡単です。京急井土ヶ谷駅から南東に10分ほどの場所、その路地を少し入ったところが年鑑に載っている住所にあたります。

ちなみに、女剣劇の大スター、大江美智子(二代目)は、日吉の家とは反対側、井土ヶ谷駅から西へ5分ほどのところに居を構えていました。つまり、戦時中の井土ヶ谷には、有名な舞台俳優(しかも座長)が2人も住んでいたことになります。

さて、そんな日吉良太郎はどういう人だったのか。

この人についても古い本をあたる以外に調査の方法がないので、信憑性に若干の不安はありますが、複数の資料を突き合わせ、最大公約数の事実を列記してみます。

日吉良太郎の経歴と人となり

日吉良太郎は、本名を北村喜七といい、愛知県半田の旧家に生まれました。愛知医専(今の名古屋大学医学部)に進学したものの中退(叔父の選挙で応援演説をしたことを咎められ、学校に嫌気がさしたとか)。東京に出て活動写真の弁士となります。弁士時代は当初、芸名を「西郷北州」といったそうです。もちろん西郷南州(隆盛)にちなんだものですが、「北州」は浅草では吉原のことだと指摘され、のちには「西郷了堂」とも名乗ったそうです(西郷麗山という表記もみられます)。

北州のエピソードが書かれている昭和8年発行の『映画の倒影』(小林いさむ著)では、こうも書かれています。

"この人は全く英語が読めなかったが、この道へ入っては必要を感じ、勉強して到頭それをものにして、ハリービールの探偵劇「ブラウン」や(中略)イタリー物「ファザー」等で、人気をとった"

これによると英語が読めなかったことになっていますが、愛知医専に入るくらいですから、それなりの学力はあったのだろうと思います。むしろ、ある程度の素養があったからこそ、洋画の弁士にもすぐ対応できたという方が正確な気がします。

弁士としての人気が高まっていった北村青年(日吉)は、そのうち弁士では飽きたらなくなり、当時、流行していた壮士芝居に感化され、経験もないまま、一座を旗揚げします。当初の一座には学生なども多くいたようですが、総勢20数名という堂々たる劇団として活動がスタートします。とはいえ、ぽっと出の劇団が、いきなり都会で売れるような甘い世界でもなく、しばらくは地方回りの劇団として、主に長野、山梨あたりの芝居小屋や、時には河川敷に小屋を立てての興行などしていたようです。

後述もしますが、彼には興行の才覚があったのでしょう。甲信地方では相当な人気で、長野県各地の市史や町史には、当時の日吉劇についての記載があちこちにみられます(松本市史、松代町史、大町市史など)。「信州の団十郎」と呼ばれていたほどですから、当時の人気ぶりがうかがえます。

その後、昭和8年に横浜へ来て、敷島座で公演。これまた高い人気を獲得し、東京の浅草や江東劇場でも公演を行ったのち、昭和13年から拠点を横浜歌舞伎座に移して、その後、7年もの長きにわたる「日吉劇」の興行が、終戦の年まで続くこととなります。


ところで、調べた書物の中で、彼についてもっとも詳細に書かれているのが、飯田文化財の会編『郷土の百年』(南信州新聞社出版局発行)です。

そこには日吉の人物像がこう記述されています。

"日吉の人となりが当時の俳優には珍しく物堅く統率力もあり、学殖のあることなど、芸よりもむしろ人間をしたって座員になるものが多かった。当時、旅役者といえば歌舞伎も新派も兎角品性の下劣なものが多く、芝居がハネると楽屋が即賭博場と化し興業主までが加って花札あそびに夜を明す(中略)地方の浮気娘を次から次とだまして浮名を流すものもあり、そうしたふしだらな行状が一座全体の名をけがすのを日吉は極端にきらった"

"座長に対して座員は師匠とか親方と呼ぶならわしがあったが、日吉一座は「先生」と呼んで座長をあがめ、外来者に対しては辞をひくく礼儀を正した。勿論、賭博厳禁、女遊びも禁じてあった。"

"序幕からハネるまで舞台装置は大道具から小道具まで座付の道具師などに委せず、座員総出でやってのけるから舞台は、たちまちできあがる。幕間がないから観客は喜ぶ(中略)これでは役者も天晴れ勤労精神旺盛な労働者で、日吉の芝居が健康的で面白く、座員の品行のよいことなどが評判となり、各地とも大入満員"

"芸術家としての日吉には兎角の難点はあるが、興業師としての演劇事業家として彼は成功した。給金が他の座よりよく遅配がないから座員にも、それが魅力となり一度座員になったものは、よほどの事情がない限り動かなかった"

イマドキの言葉でいうと「働き方改革」みたいなものなんでしょうか。別の旅回り一座のエピソードでは、ちゃんと高い給金を払うのだけど、給料日に座長が賭博で座員の給金の大半を巻き上げてしまうために実質は安月給、なんていう話もありますから、そうした前時代的な劇団に比べて、日吉劇団は近代的な運営をしていたのがわかります。

一方で、前掲の引用に "芸よりも人間をしたって"とか "芸術家としての日吉には兎角の難点" とあるように、日吉良太郎の芸術家(創造者)としての才覚には若干の難があったのかもしれません(古川ロッパ昭和日記には "それから江東楽天地の日吉劇をのぞく。入り三分。その芝居も大間違ひなり"と書かれています/昭和12年12月23日)。

日吉良太郎一座のことを「剣劇劇団」とする資料も少なからずありますが、実際のところ、上演するジャンルは多岐にわたっていて、劇団のこだわりというか個性というか、表現の芯みたいなものはあまり感じられないのが正直な感想です。

言い換えれば節操がない。小難しい自分の主張より、みんなが面白いもの、楽しいもの、わかりやすくて、大衆にウケるものを見せる。それが日吉劇のポリシーと言っていいかもしれません。

それを裏づけるように、昭和13年、横浜貿易新報のインタビューで日吉はこう答えています。

"けれども観客がついて来られない様な演じ方もどうかと思ひます、それに御当地では矢張り割切れる芝居でなければ到底お客様が承知してくれませぬですよ、インテリ層から時々いろいろの注文を受けまして、月に一本位は、野心的な作品や演出を試みて見ますが、多数大衆には何時もそれには不平不満を鳴らされますのです"(『郷土よこはま』No.115より引用)

そんな日吉の芝居は、逆に「主張」を持った人々には好都合だったようで、戦前、政治家で実業家の武藤山治が、選挙活動と政治啓蒙のために、日吉に劇の上演を依頼していたことが記録に残っていますし(『武藤山治全集』増補, 1966 新樹社)、公演する地元の歴史や偉人を題材にした芝居を作ったり、時には内容とは関係ない事柄の宣伝文句を芝居の中に織り込んだりすることもあったようです(生CMみたいな感じかしらん?)。

また国策に準じて「愛国劇」というジャンルの作品を盛んに上演し、日吉一座といえば愛国劇と認識されていました。昭和12年に東宝が錦糸町に新設した大劇場「江東劇場」の開場記念興行を日吉一座が担っていますが、その写真に写っている幟にも「愛国劇日吉一座」の文字が見られます(演目は『銃後の護』『乃木将軍と一等卒』)。

昭和12年12月 東京錦糸町・江東劇場開場時の写真

そんなわけですから、日吉良太郎の評価には、功罪含め毀誉褒貶が激しいという特徴があります。戦後、日吉一座が演劇の歴史から消えていったのも、単に国策協力の問題以上に、そうした劇団の特性が一因だったのかもしれません。

とはいえ、横浜における日吉一座の人気は相当なもので、「下町で日吉良太郎の悪口を耳にしたものは承知しない、下手をするとなぐられる」(『一世紀の軌跡 : 横貿・神奈川新聞の紙面から』より引用)と新聞記事に書かれるほどでした。

日吉一座のメンバー

横浜における日吉劇については、上にも挙げた『郷土よこはま』No.115、小柴俊雄さんによる日吉劇の論文がもっとも詳細です。そこに掲載されている日吉一座のメンバーは以下の通りです。

朝川浩成(のちに銀星座専属・自由劇団に参加)
東光
荒川仁作(のちに銀星座専属・自由劇団座員となる)
生島波江(のちに大高一座に参加)
伊藤登(のちに銀星座専属・自由劇団座員となる)
井上正雄
大平正美
勝川三次
川島吉子
雲井春敬
橘川五十鈴
熊谷修
小桜豆子
五条隆
小寺てる子
酒井ゆき江
関谷妙子
武雄健蔵
武田正憲(元文芸協会技芸員・演出担当)
谷本章
中小路文雄
新納正夫
花島紀美子
花園麗子
蜂須賀輝之
鳩川すみ子(のちに銀星座専属・自由劇団に参加)
花柳愛子
林礼三郎
平野元
藤川麗子(のちに大高一座に参加)
穂高のぼる(元宝塚女優のこの人か?)
堀重明
松岡寿美子
松の六郎
松山みどり
美崎重朗
三井秀雄
都田省司
三輪晃
村田進
八重垣小静
安田猛雄(のちに銀星座専属・自由劇団座員となる)
大和玉枝
山本進二
若柳武男
渡辺実 
【文芸部】
四国政房
関根智恵蔵
高野まさ志
遠近破
原野左太夫
水野一葉
三好策太郎
松本肇

横浜歌舞伎座の専属劇団のようになっていた日吉一座ですから、座員のほとんどは横浜に住んでいたことだろうと思います。座長のように井土ヶ谷近辺にいたのかもしれません。戦災もさることながら、終戦を機に一座が解散し、座員たちはどういう思いで戦後の日々を過ごしたのでしょう。

そして、終戦から半年前後で開場した杉田劇場と銀星座。その専属劇団に日吉一座のメンバーがこれほどいるというのは、行き場を失った彼らにとっては、両劇場の開場がまさに渡りに船だったようにも思えます。

しかし、皮肉なことに、どちらの劇場も十年と保たずに閉場となるのです。

戦前・戦中の日吉劇は、明治以降、断絶と再建を繰り返してきた近代横浜の演劇界が、すっかり消えてしまう前の最後の輝きだったのかもしれませんね。


ところで、前掲の『郷土の百年』(1968年刊)、日吉良太郎の項の末尾にはこうあります。

"その後、日吉劇団は松竹の手に属して横浜へ行き敷島座に拠って連続開演、もはや地方巡業に出ることもなかった。その後打ち絶えて消息もないが、日吉をはじめ座員の大半はもう此の世にいないのではなかろうか。当時をしのべば感慨もひとしをのものがある"

日吉は昭和26年に亡くなりますが、1985年刊行の『中区史』には、座員の花柳愛子が提供した日吉劇の写真が掲載されています。上掲書の執筆者の予想に反して、その後も健在の座員はいたわけです。


それにしても、日吉良太郎という人は実に不思議な人物です。医学生から弁士になり、劇団を立ち上げて大変な人気を誇りながら、あっという間に忘れられてしまう…

また、日吉の生涯を調べれば調べるほど、現在の横浜のこと、演劇界のこと、興行のことについて、深く考えさせられることになります。まだまだわからないことはありますが、この先も調べ続けるべき人物だという思いを強くするばかりです。

そして日吉と大高の関係を探ることが、大高探しの大きなキーポイントになるのではないかという予感もしているところです。

そんなわけで、今回は過去のことばかりではなく、横浜の演劇界について、少し踏み込んだ私見も書きました。日吉良太郎に対する毀誉褒貶さまざまな評価を俯瞰することは、横浜演劇界の未来の指針になるのかもしれません。


さて、次回は大高よし男が参加していた、伏見澄子一座について考えてみます。

→つづく

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