杉田劇場の開場から4ヶ月弱。弘明寺商店街の中ほど、観音橋のたもとに「銀星座(ぎんせいざ)」という実演劇場、つまり杉田劇場のように、映画ではなく芝居や演芸を上演する小屋ができます。昭和21年3月23日のことです。
経営者兼支配人は杉山清という人。小柴俊雄氏の『横浜演劇百四十年』によれば、この人は「北村清峰」という俳優だったとのことですが、私の調べた範囲では北村清峰という名前の俳優は見つかりません。そんなわけで、彼がどんな役者だったのかはよくわかりませんが、いずれにしろ銀星座は、戦争が終わって、弘明寺の街に演劇関係者が建てた劇場ということになります。
銀星座はのちに映画館となりますが、その頃の弘明寺には(前にも記した通り)剣劇の大御所である梅澤昇が建てた「梅沢劇場」もあったりして、一種の興行街でした。最盛期には梅沢劇場のほか、映画館が4つもあったのですから(有楽座(銀星座跡)・スバル座・ひばり座・ニューアサクサ)、なかなかの賑わいだったと思われます。
弘明寺はもともと弘明寺観音の門前町として栄えていた上に、市電の終点でもあったことから、当時は日飛や石川島といった工場の企業城下町であり、市電の終点だった杉田ともどこか似た街のように感じます。戦災を受けず、賑わいのある街、という点で、どちらかというと周縁部に当たるこの両地に劇場ができたというのは、歴史の必然だったのかもしれません。
前述のとおり、銀星座は杉田劇場に遅れること4ヶ月弱での開場ですが、大きなスパンで見ればほぼ同じ頃に横浜の南部地域にオープンした実演劇場ということになります(この二館のほかに、上大岡には銭湯(大見湯)を改装した「大見劇場」という小屋もありました)。
一般に杉田劇場と銀星座はライバルの関係にあったと書かれているものが多く見受けられます。中には、国際劇場や銀星座ができた影響で杉田劇場の経営が傾いた、というような記述もあります。ですが、両劇場の広告などからプログラムを時系列に並べてみると、私にはライバルであると同時にかなり密接な協調関係もあったのではないかと感じられるのです。
さて、銀星座の開場は「近江二郎劇団」の興行からスタートします。
近江二郎一座(劇団)は、戦時中から横浜や川崎の劇場で頻繁に公演しています。横浜の敷島座、川崎の大勝座はどちらも近江の所属していた籠寅興行部の劇場ですが、双方を行ったり来たりして、数ヶ月にわたる興行が行われていました。それだけ京浜地域で人気があったということなのでしょう。大衆ウケを狙っていた銀星座が柿落としに近江二郎一座を選んだのもわかる気はします。
興味深いのは、近江二郎一座の文芸部員に、のちに大高一座の支配人となる「大江三郎」がいたことです。この人の名前は新聞広告にもしっかり掲載されているほどですから、それなりの人物だったことが想像されます。昭和18年の『演劇年鑑』にも、日本演劇協会の会員として名前が見られます。
川崎大勝座の広告:「婦系図」の横に"大江三郎脚色"の文字 (昭和18年9月30日付神奈川新聞より) |
戦後、銀星座で興行を始めた近江二郎一座、杉田劇場の専属劇団として活躍していた大高ヨシヲ一座。この両劇団に大江三郎が関わっていたわけですが、双方ともの文芸部員だったのか、終戦を境に移籍したのか。このあたりは不明です。いずれにしても杉田劇場と銀星座を考える上で、大江三郎の存在がカギになるような気はします。
余談ですが、大高ヨシヲの葬儀の写真、古いデータと照合すると、弘明寺の本堂前のように思えます。もしそうだとしたら杉田劇場専属劇団の座長の葬儀がなぜ杉田ではなく弘明寺なのか。この謎も、大高の正体を探る上では重要なポイントになりそうです。
大高ヨシヲの葬儀写真:右の柱の提灯に「観世音」と書いてあるように見える (杉田劇場ウェブサイトより) |
さて、話を戻して。
新聞広告をたどると、近江二郎は昭和21年5月いっぱいまで、ほぼ2ヶ月にわたって銀星座での公演を続けます。その後は、また別の地域に転じたのでしょうが、詳しいことはわかりません。
杉田劇場の従業員だった片山茂さんの証言によると「(大高一座について)劇場も長期に渡る公演になるとお客様に飽きられるとのことで、五月に入り、弘明寺銀星座にて公演中の近江二郎劇団と入れ替わり興業(ママ)をしました」(杉田劇場ウェブサイトより)とあります。実際に入れ替わりにしたのかどうか、銀星座での大高一座の公演記録が見当たらないので、正確に言えば不明ですが、昭和21年の5月1日から10日まで、近江二郎一座が杉田劇場で興行したというのは広告から明らかです。おそらくその期間、大高一座が銀星座で興行したのだと思われます。もっとも、近江二郎一座はこの後、また銀星座での興行に戻るので、入れ替わりがあったとしてもおそらくこの10日間だけだったのでしょう。
昭和21年5月1日付神奈川新聞より |
ちなみに、この時期の近江二郎一座にあの渥美清が在籍したとされていて、それをもって「渥美清が杉田劇場の舞台に立った」ということになっているわけです。それならば「渥美清が弘明寺・銀星座の舞台に立った」という話も伝わっていてしかるべきですが、そっちの話はあまり耳にしないのも不思議です。前にも書きましたが、戦前・戦中の女剣劇・不二洋子一座のプログラムに「渥美清一郎」という役者の名前が見られるので、ジャンルからしてもその人と誤解しているんじゃないかと思っているところですが、残念ながらこちらも確証がありません。渥美清は最初の芸名を「渥美悦郎」としていたそうですから、当時の近江二郎一座の座員の中にその名前があれば確実なところです。一向に進展しませんが、ひとまずは継続調査というところです。
杉田劇場は大高ヨシヲの売り込みによって、彼の主宰する「暁第一劇団」を専属劇団にしますが、銀星座の方は杉田に遅れること半年あまり。8月に入ってから「横浜自由座」という専属劇団を作ります。この劇団はまもなく「自由劇団」と改称して、銀星座での興行を重ねていくわけです。杉田に半年も遅れをとった理由は定かではありませんが、おそらく、もともと近江二郎一座が5月末まで興行する契約だった上に、その後のスケジュールもすでに決まっていたのではないかと想像できます。実際、専属の自由劇団(横浜自由座)の興行は昭和21年の8月15日から。まさにお盆の真っ只中で、かつてはニッパチ(二八)と言われ興行が難しいとされた時期。スケジュールが空いている時期を選んで、専属劇団の活動をスタートさせたのだろうと思います。
自由劇団のメンバーは横浜近在の役者を集めたそうですが、主体は終戦とともに解散した「日吉良太郎一座」のメンバーです。安田猛雄、荒川仁作、朝川浩成、鳩川すみ子らが挙げられますが(小柴俊雄『横浜演劇百四十年』より)、新聞広告には藤村正夫の横にも「日吉劇にておなじみ」とありますから、銀星座の自由劇団は日吉一座関係者の残党による劇団だったと言えるのかもしれません。
昭和21年8月15日付神奈川新聞より |
一方の大高一座ですが、こちらにも生島波江、藤川麗子という、やはり日吉一座の座員だったとされる人が所属しています。特に生島波江は日吉一座だけでなく、南吉田町にあった「金美劇場」の専属「新進座」の出演者の中にも名前が見られるほか、「花柳好太郎一座」の広告にも名前があり、横浜ではかなり人気のある役者だったことが想像されます。
戦前から戦中にかけて、横浜の演劇界では大きな存在であり、また多くの座員を抱えていた日吉良太郎一座ですから、戦後、解散後に、それぞれ杉田劇場と銀星座に分かれて新たな活動を始めたのは自然な流れだったのでしょう。
その意味からも、杉田劇場と銀星座は単なるライバルというより、時にライバル、時に協調もする似たような劇場同士だったように思えるのです。
さて、大高ヨシヲは、4月いっぱいまで杉田劇場で興行を続けた後、記録の上ではふたたび姿を消してしまいます。次に新聞広告が出るのは9月に入ってからです。前述の通り、近江二郎と入れ替わりで、銀星座で10日間ほど興行しただろうことは推測できますが、その先はまったく不明です。
戦中の昭和18年6月から杉田劇場に姿を現す昭和21年2月までの2年8ヶ月。そして戦後、昭和21年5月から9月1日までの4ヶ月。この両期間が大高ヨシヲの「ミッシングリンク」、謎の期間です。
疑問1:京都や東京で活動していた大高がなぜ戦後、横浜に姿を現したのか。
疑問2:所在がわからなくなる2つの期間、大高はどこで何をしていたのか。
いまなお、この2つの謎が大高探しの最大のハードルです。
ですが、今回のここまでの振り返りで、もしかしたら、弘明寺が謎を解く鍵になるのかもしれないような気がしてきました。銀星座、弘明寺、日吉一座、そして杉田劇場…霧の中に後ろ姿だけが見えている大高ヨシヲ。
(ああ、あと一歩が遠い)
そんなこんなで、この先、杉田劇場とともに、弘明寺や銀星座のことも継続的に調べることで、大高の姿が見えてくるかもしれません。
→つづく
【募集】残された記事や文章などで大高の足跡をたどる作業はそろそろ限界に達しています。この先は実際にその頃のことを知る人に話を聞くことで道がひらけると思っています。どんな些細なことでも結構です。何か情報をお持ちの方、あるいはそういう方をご存知の方はぜひお知らせください。お願いします。
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