何度もくどいようですが、大高よし男に関する資料はとても少なくて、調査は難航しがちです。彼の姿を写した写真は見つからないし、出身地も生年月日もわかりません。
そんな中、残された資料で最大の手がかりと考えているのが、大高の葬儀参列者の集合写真です。
お寺の本堂前で撮ったと思われるこの写真、そもそもどこのお寺なのかさえわからなかったのですが、画像を拡大してみたところ、右の柱の上部にある提灯の文字が「世音」と読めたわけです。
お寺で「世音」となれば「観世音」。横浜で観世音といえば「弘明寺観音」。天平9年(西暦737年)に創建された、横浜最古のお寺です(市外の方には馴染みがないかもしれませんが「弘明寺」と書いて「ぐみょうじ」です)。
ちょっと短絡的かもしれませんが、写真は弘明寺。そう推測したのです。
弘明寺観音への参道は明治時代に整備され、「弘明寺かんのん通り商店街」として今なお賑わいを見せています。この商店街の中ほど、大岡川にかかる「観音橋」のたもとに、杉田劇場の開場から2ヶ月後、実演劇場「銀星座」がオープンしたのです(昭和21年3月23日)。
新聞広告などの記録は見つかっていませんが、この投稿で書いたように、大高よし男はこの銀星座の舞台にも立ったとされています(おそらく昭和21年5月初旬)。
大高と弘明寺には縁があるに違いない。
そんな推定(推理)のもとに、杉田劇場のスタッフ(TさんとSさん)と連れ立って、7月3日、弘明寺と弘明寺商店街の現地調査を行いました。
結論からいうと…ビンゴ!
Tさんから弘明寺のご住職に、上掲の写真をお送りしてあるそうで、最終的な確認はまだ先になりそうですが、本堂の「お守りお授け所」の方や商店街の方々にみてもらったところ、写真のお寺は弘明寺に間違いないだろうとのことでした。
(大きな前進だ!)
人気役者だった大高よし男は昭和21年10月1日、長野県南木曽での公演に向かう途中、乗っていたトラックが崖から転落し、その下敷きになって亡くなります。実にあっけない最期です。翌日には現地で火葬され、遺骨は横浜に戻ったそうです。南木曽での公演は残された座員がなんとかつとめあげたそうですが、大高不在の舞台はさぞかし寂しいものだったことでしょう。
大高の葬儀が実際にいつ執り行われたかはわかりません。写真に写っている人のうち、位牌を持った少年は大高の遺児で(おそらくその隣の少年も)、中央にいるのが一座の支配人(マネージャー)だった「大江三郎」と伝えられています。
(しかし「中央」というのがよくわからないところで、遺骨を持った人なのか、その左のメガネをかけた人なのか、はっきりしませんが、立場的なことを考えると遺骨を持っているのが大江三郎ではないかと僕は考えています。またその人の頭に見える白い帯は事故で負った怪我による包帯なのかもしれません)
位牌を持つ少年の左隣の少年の斜め後ろにいるチョビ髭の男性が、杉田劇場のオーナー、高田菊弥で、それ以外の方々については特定ができていないものの、おそらく大高の親族、一座の座員、杉田劇場の従業員ではないかと考えられます。
大江三郎をはじめ、座員たちが写っているとすると、遺骨が戻ってすぐというより、南木曽公演から座員が戻ってしばらく経ってからの葬儀と考えるのが妥当です。
南木曽からは10月3日か4日には戻ってきたはずです。また、大高一座(暁第一劇団)は10月9日から劇団新進座と合同公演を行なっていますし、10月17日から20日まで大高追善興行を行なっています。22日には元映画スター・中野かほるを迎えての追善公演もありましたので、葬儀の日程はその合間だったと考えられます。
劇団も劇場も日々稼働していますから、葬儀の日程調整はなかなか難しかったことでしょう。
以前にも書きましたが、中央の僧侶の左奥にいる女性が中野かほるではないかと想像しているので、葬儀は中野が参加した追善公演の前日、10月21日に行われたのではないかと僕は考えているところです。
(この写真で不思議なのは大高の妻が見当たらない点です。遺児がいる以上、その母親もいて然るべきで、本来ならば遺骨は夫人が持っているだろうと考えられます。すでに離婚しているか、戦争で亡くなったか、そんなことも想像されますが、これまたまったく不明です)
さて、写真が高い確率で弘明寺だろうと判断されたところで、さらなる調査を進めるべく、商店街の老舗と思われる店に取材を敢行しました(お忙しいところ急にうかがってすみませんでした)。
幸いなことに市の図書館のデジタルアーカイブに昭和30年代、弘明寺銀星座の緞帳写真が保存されています(こちら)。
それをヒントに商店街を歩いたところ、いまも営業されている店舗がいくつかあって、そのうち、緞帳写真の右から3つ目の「洋品 子供服 ほまれや(「婦人用品のほまれや」)と、4つ目の「酒商 ほまれや本店(「ほまれや酒舗」)」の方にお話を伺うことができました。
特にほまれや酒舗のご主人(二代目)からは往時の弘明寺のお話などを伺うことができて、とても貴重な機会となりました。
銀星座の開場の頃についてはさすがによくわからないとのことでしたが、「銀星座に出ていた役者で覚えているのはヤスダという人」とお話ししてくださいました。蛇を使った見世物のようなことをやっていたそうです。
その時はヤスダと言われてもピンときませんでしたが、帰路、銀星座で活動していた専属劇団「自由劇団(自由座)」には安田猛夫(猛雄)という役者がいたことを思い出しました。
昭和21年8月15日付神奈川新聞より |
自由劇団と見世物というのはどうもしっくりこない気もしますが、演目によってはそんなことをやっていたのかもしれません。さらなる調査が必要です。
ついでに、弘明寺の映画館のことや、剣劇の梅沢昇が開いた「梅沢劇場」のことなども聞いてきました。
梅沢劇場の周辺はいわゆる花街だったそうで、劇場には足を運んだことはないそうです。
梅沢劇場そのものも、キャバレーを改装したものでしたから、あの周辺はどちらかというと大人の街、大人の劇場で、地元の人、特に子供たちにはあまり縁がなかったのかもしれません。
アポなしで伺ったにも関わらず、親切にいろいろとお話をしてくださったことには感謝ばかりです。古い話や資料ならば商店街の事務所に行けばわかるかもしれないとのアドバイスもいただき、次回はもう少ししっかりと下調べをして伺いたいと思います。
余談ですが、ほまれや酒舗は現在三代目が経営されているそうで、初代は伊勢原の出身、愛甲石田の酒蔵で修行したのち、昭和7年に弘明寺に店を出したんだとか。初代の二人の弟さんが一緒に店を手伝っていたそうですが、やがて弟さんたちは弘明寺で独立して、ひとりが洋品店の「ほまれや」を開き、もうひとりが大岡川沿いにやはり「ほまれや」という飲み屋を開店したのだそうです(飲み屋さんは閉店されたそうです)。
ほまれや酒舗はそれだけの歴史ある老舗ですが、店の一番奥の冷蔵庫にはクラフトビールが並んでいたり、各地の地酒も豊富で、活気あるとても魅力的なお店でした(また行きます)。
大高よし男が酒豪だったのか下戸だったのか、そのあたりも分かりませんが、劇団ですから酒とは縁があったことでしょう。銀星座の舞台に立った時には、もしかしたら「ほまれや」さんで、酒を買ったりしていたのかもしれません。想像力を働かせると、現在の商店街にも大高の生きた痕跡があちらこちらに見えてくるようです。
そんなこんなで、大高よし男と弘明寺にはきっと浅からぬ縁があったはずです。
調査の突破口になると信じて、弘明寺現地調査第二弾を計画します。
ご協力いただいたみなさま、ありがとうございました。
→つづく
追記:弘明寺の映画館、劇場跡地をいくつか探訪しましたので写真で振り返ります
「銀星座」跡地。のちに赤い看板のあたりが映画館「有楽座」となる。 |
「梅沢劇場」跡地はマンション。 |
映画館「スバル座」跡地はドラッグストアのクリエイトなどが入るビル。 |
映画館「ひばり座」の跡地は長らくスーパー「ユニー」でしたが今はマンション。 |
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