大高よし男の戦前・戦中の活動はだいぶわかってきましたが、プロフィールについての手がかりはほぼありません。
もはや大高を知る人に話を聞くしか手立てがないのかもしれませんが、旧杉田劇場で芝居を見たという方々も、80代くらいの方でさえ昭和21年前半だとまだ10歳になるかならないか。大高の舞台を見るにはちょっと早かったようで、実際に彼の姿を見たという人にはまだ出会えていません(もう少し早く調査を始めていればと悔やまれます)。
残る手がかりは、大高が事故で亡くなった時の情報ですが、これもなかなか見つからない。
親族や劇場が出したかもしれない「死亡広告」があれば、大高の本名や葬儀の日時・場所がわかるのではないかと考えていますが、まだそこまで至っていません。
ですが
その調査の過程で、ようやく大高の事故を報じたと思われる新聞記事を発見しました。
昭和21年10月3日付読売新聞(神奈川版)より |
これは長野県松本からの電話による記事なので、「磯子区」がなぜか「木曽木」となっていたり、いくつかの混乱が見られますが、事故は10月1日の夜9時頃に発生、現場は「長野県西筑摩郡大桑村須原(現・長野県木曽郡大桑村)」。これは、現杉田劇場のウェブサイトに掲載されている、片山茂さんの証言ともほぼ一致します。
記事には大高の名前も劇団名もなく、「農村慰問劇団」と記されているだけですが、さまざまな情報を突き合わせると、大高一座であることはほぼ間違いないだろうと思います。また記事には運転していたドライバーの名前が書かれています。住所も年齢もあるので、これも大きな手がかりのひとつになりそうです。
ちなみに、以前も記したとおり、大高の葬儀は弘明寺で執り行われたのではないかと考えています。また杉田劇場での「大高よし男追善興行」が
(1) 昭和21年10月17日〜20日
(2) 昭和21年10月22日〜(終演日は不明)
というスケジュールであると思われることから、葬儀はその合間の10月21日に行われたのではないか、というのが僕の推測です。
(1) 昭和21年10月17日〜20日の追善興行 |
(2) 昭和21年10月22日の新聞広告 (杉田劇場ウェブサイトより) |
そして上記 (2)の追善興行には、かつて大高と共演したこともある元映画スターの「中野かほる」が出ていることから、葬儀の写真の中央やや奥にいる女性が「中野かほる」本人ではないかとも推定しているところです。
大高よし男葬儀写真 (中央、僧侶の左奥にいる女性が「中野かほる」ではないか?) |
一歩一歩、地道な作業ですが、戦前と戦後、生前と没後、それぞれの時期を丹念に調べていけば、きっと大高よし男の正体に迫れるはずだと信じて、今日も調査は続きます。
→つづく
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