(61) 戦時下の劇場

最近の朝ドラ『ブギウギ』では、戦時下でさまざまな制限を受ける娯楽業界(興行界)の様子が描かれていますが、たしかに敵性音楽や華美な演出が制限されたり、新劇が弾圧されたことはあった反面、このブログで調べている剣劇のような大衆演劇の世界では、当時の国家体制の方針に従うことで、したたかに生き残ろうとしていた一面もあったようです。

対英米戦争が始まった昭和16年末を描く映画やドラマは、暗澹たる未来に不安を覚える人々を描きがちですが、古い新聞などを調べていると、まだその頃は庶民も呑気な雰囲気で、アメリカに勝てるという根拠のない自信に満ち溢れていたのではないかと思わせるフシもあります。

もちろん新聞の情報には偏りがありますが、それでも継続的に読んでいくと、いよいよヤバくなったなと感じるのは昭和19年あたりからです。


大高よし男は昭和17年2月いっぱいまで伊勢佐木町の敷島座で伏見澄子一座に参加し、同年6月には映画スター・海江田譲二らの「8協団」に参加して川崎・大勝座の舞台に立ちますが、それ以降は戦後の杉田劇場まで横浜・川崎での活動は見られません。

一方、大高と縁の深い近江二郎一座は、戦時中のかなり後期まで(空襲で劇場が焼失するまで)横浜や川崎で盛んに興行を行っていました。昭和18年9月にもやはり敷島座での興行をしているのですが、その時の新聞にこんな記事が出ています。

昭和18年9月13日付神奈川新聞より

昭和17年1月に閣議決定された「大詔奉戴日」は同月8日から毎月実施されたそうですが、近江二郎一座では翌18年9月8日から毎日、開演前に国民儀礼を行なっているという内容です。戦争が始まって2年弱、近江二郎がどういう思いでこれを始めたのかは分かりませんが(所属先の籠寅興行部など、どこかからの指示があったのかもしれない)、戦時下の劇場の空気を感じさせる記事です。

一部を引用すると

"一座は八日の大詔奉戴日より毎日正午、敷島座の舞䑓開演に先立つて厳粛なる国民儀礼を行なつてゐる(中略)先ず『愛國行進曲』の音楽で幕が開かれると正面に日章旗、その前に近江、綾小路、深山百合子、大山二郎、松尾志乃武、月形陽子初め男優は國民服、女優はモンペにて列し、代表として近江が『開演に先立ちましてこの決戦下にも拘らずこのように演劇を愉しみ合ふことの出来る日本國民としての仕合せを心から■■■■たして唯今から厳粛に國民儀禮を行ひたいと存じます』と是より儀禮を行ふ(中略)これを毎日休まずに全座員が看客と共に實行してゐる"

と、様子が克明に書かれていて実に興味深い内容です。

記事中にはこれが他の劇場にも影響するだろうとの記載はありますが、他所で実際にこのようなことをやっていたかどうかは不明です。ただ、同時期に横浜歌舞伎座で長期の連続興行を続けていた日吉良太郎一座は以前にも書いた通り「愛国劇」を旗印にしていたくらいですから、新劇や洋楽のように意志を貫いて弾圧されるのではなく、当時の国家体制に迎合しつつなんとか生き残りを考えた一座も多かったということなのでしょう。

なお、日吉一座は終戦間際に活動を休止し、戦後は一座としての活動がなくなりますが、メンバーの多くは弘明寺・銀星座の「自由劇団」や大高の「暁第一劇団」の座員として活動を継続します。また、日吉一座の文芸部員だった高野まさ志は戦後、横浜市の従業員組合の機関紙『市従文化』に寄稿しているそうです(→こちらのブログ参照)。日吉良太郎自身は戦後の活動がほぼ見られませんが(戦犯の訴追を恐れたのか)、銀星座の新聞広告に脚色担当として名前が出てくることもあるので、実は自由劇団の背後で何らかの活動を続けていたのではないかと僕は思っています。

おっと、話がそれました。

さて、そんなこんなの戦時下の大衆演劇の劇場ですが、軍部の方でも国民の不安や不満を逸らすために、娯楽を活用しなくてはならない事情があったので、軍部と興行界、それぞれに海千山千の両者が落とし所を探りながらやっていたのではないかと、そんな事情もこの記事から想像されるところです。

桜隊の悲劇を緻密に調べた名著『戦禍に生きた演劇人たち』(堀川惠子著)や、毎朝の『ブギウギ』を見ながら、情勢に振り回される舞台人の哀しさに想いを馳せるとともに、同時期に大高や近江がしていたことを重ね合わせると、戦時下の日常がかなり重層的に見えてくるのが面白いところです。


→つづく


〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問い合わせフォームからお知らせください。


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