本業の繁忙期もあって、遅々として進まない調査ですが、昭和12年6月の横浜貿易新報に掲載されていた、朝日座での河井勇二郎一座の公演情報に気になるものを見つけました。
河井勇二郎といえば新国劇出身で、後年、梅澤昇一座に参加する剣劇役者です。
大井廣介『ちゃんばら藝術史』には
「梅澤は連袂脱退事件後、一座に加わった河井勇二郎にやがて梅澤昇を襲名させ、梅澤自身は龍峰を名乗るようになった」
とあります。
梅澤劇団は昭和29年7月、弘明寺に「梅沢劇場」という専属劇場を開場し、横浜を拠点として活動するようになるわけで、横浜とも浅からぬ縁がある劇団です。弘明寺に来た時にはすでに二代目を襲名していた河井勇二郎もその意味では横浜と縁がある役者といってもいいでしょう。
昭和30年代の明細地図より |
さて、その昭和12年6月の河井勇二郎一座の公演情報ですが、配役一覧の中に
「新加入川上好子」
と書かれているのです。
昭和12年6月8日付横浜貿易新報より |
これをそのまま受け取れば、この公演から川上好子が河井勇二郎一座に参加し始めたということになります。
これまで精査した横浜貿易新報では、昭和11年3月の日吉良太郎一座の劇評に川上好子の名前が見られるので、それから1年3ヶ月の間のどこかで、川上好子は日吉一座を離れたということになりそうです。
昭和11年3月8日付横浜貿易新報より |
日吉一座は昭和12年12月に東京の江東劇場で柿落とし興行を行っており、さらには昭和13年6月からは横浜歌舞伎座を拠点に移して、終戦近くまでの連続興行をスタートさせますから、川上好子が一座を離れた時期は、日吉劇団にとっては何らかの変化が起こった頃とも考えられます。
日吉劇団のみならず、どうもこの時期の横浜演劇界自体が変化の季節という印象で、この時代の動きを精査することが、大高よし男(高杉彌太郎)の発見につながるような気がしてなりません。
さらに調査を続けます。
→つづく
前々回、近江二郎の住所が大阪になっていることについて書きましたが、あらためて近江二郎の養子であった元子さん(芸名:衣川素子)の手記を読み返してみたら、
「二郎の所には養子健次と言う兄と養女マスエと言う姉がいましたが、舞台には出ていないで、秀子の養母がこの二人を大阪で育てていました」
との記述がありました。大阪市生野区鶴橋南之町の住所は、深山百合子の養母の住んでいたところなのかもしれません。
〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。
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