(78) 銀星座と日吉良太郎について

大高よし男の顔がわかったことで、足跡探しも一気に前進、と行きたいところですが、なかなかそうは問屋が卸さないところがこういう調査の醍醐味(?)でして。

昭和15年3月の横浜敷島座で近江二郎一座に参加する以前の活動がまったくわからず、探索はすっかり停滞しています。昭和13年10月末まで、近江二郎一座が名古屋宝生座で興行していることがわかっているので、目下、その後の近江一座の足取りを『都新聞』の「芸界往来」欄などから調べているところですが、難航しています。

昭和13年10月以前の近江一座には大高よし男(高杉弥太郎)はいないと思われるので、同年11月から昭和15年2月までの間のどこかで、大高は近江一座に参加することとなるわけで、その時期の特定と記録が見つかれば、壁が突破できるはずです。


そんなこんなで、戦前の調査が行き詰まれば、戦後の調査に移行せざるをえない。というわけで、図書館に行くたびに戦後の神奈川新聞を1か月ずつ調べているところです。

そんな中、昭和22年11月25日付の神奈川新聞に掲載された銀星座(弘明寺)の広告に、興味深い名前を見つけました。

日吉良太郎

です。(日吉良太郎については以前の投稿を参照してください。ただしその投稿には若干の誤りがあって、出身地は岐阜県の神戸町のようですし、弁士だったというのもちょっとあやふやな情報です)

昭和22年11月25日付神奈川新聞より

この広告によれば、銀星座専属の自由劇団が、大岡警察署刑事部長・桑名甲子次原作による防犯劇を上演するにあたって、脚色を日吉良太郎が担当しているというのです。

僕が調べた範囲では、戦後、新聞に日吉良太郎の名前が登場するのはこれが初めてです。


戦前・戦中と横浜で絶大な人気を誇り、末吉町にあった横浜歌舞伎座で6年半も連続興行を続けた日吉良太郎一座ですが、小柴俊雄さんが『郷土よこはま』(No.115)に寄稿した論文によれば

「太平洋戦争が急迫して来て、享楽追放で公演ができなくなる」(同書 P.60)

という事態に追い込まれます。

また同氏の『横浜演劇百四十年ーヨコハマ芸能外伝ー』には

「戦後、日吉良太郎は活動の場がなくなって一座を解散。日吉も昭和二十六年八月に六十四歳で死去した」(同書 P.60)

ともあります。

日吉一座と座長の日吉良太郎は終戦とともに消えていったということになります。

ですが、僕は銀星座専属・自由劇団のメンバーの大半が日吉一座の元座員であることからして、その背後に(顧問や参与といった立場で)日吉良太郎がいたんじゃないかと推測しているのです。


銀星座は杉田劇場に遅れること3ヶ月、昭和21年3月23日に弘明寺商店街、観音橋のたもとに開場します。何度も書いている通り、柿落としは近江二郎一座で、5月末まで近江一座の興行が続きます。

昭和21年3月23日付神奈川新聞より


その後の銀星座は、旧杉田劇場と同様、演劇や演芸、歌謡などさまざまな企画で、娯楽に飢えていた市民のニーズに応えていました。

昭和21年6月10日付神奈川新聞より

昭和21年6月12日付神奈川新聞より

それが昭和21年8月に専属の自由劇団(当初は「横浜自由座」)が誕生してからは、自由劇団の公演を中心にプログラムが組まれていくようになります。自由劇団の興行がいつまで続いたのかは、まだ調査ができていませんが、昭和24〜5年くらいまではやっていたように思われます。

昭和21年8月15日付神奈川新聞より 横浜自由座初登場の広告

連続興行ができるくらいですから、自由劇団の人気は相当に高かったものと想像できます。その人気にあやかってか、昭和22年1月には美空和枝(のちの美空ひばり)が銀星座の舞台、自由劇団の幕間に登場するのです。

昭和22年1月14日付神奈川新聞より

以前投稿したように((75) じゃがいもコンビについて)、日吉一座に参加していて、戦後、大高一座の座員だった壽山司郎も昭和22年10月頃から自由劇団に参加するようになり、戦前の日吉一座を知る当時の人からすれば、自由劇団=日吉一座とも見えたことでしょう。2年弱のブランクを経て、日吉一座が銀星座で復活したと感じた人もいたはずです。


あくまでも僕の推測ですが、戦中は「愛国劇」の旗印を掲げて、国策に準じるような芝居を盛んに上演していた日吉良太郎ですから、戦後、戦犯訴追を恐れて身を潜めていたのかもしれません。

小幡欣治著『評伝菊田一夫』によれば、菊田一夫も戦犯訴追を懸念して、GHQに執筆を続けていいのかという問い合わせまでしていたそうですから(同書 P.144)、日吉良太郎の心中にもそんな恐れがあったとしておかしくはありません。訴追や裁判の方向が見極められるまで表立った活動を控えようとしていた可能性は否定できません。

(もっとも、そのわりに昭和22年の電話帳(横浜中央電話局「電話番號簿」昭和二十二年四月一日現在)には日吉の本名「北村喜七」がしっかり掲載されていて、職業欄には「俳優」と書かれているのですから、戦犯云々は推測の域を出ませんが…)


いずれにしても、戦後、長らく報じられることのなかった日吉良太郎の名前が、終戦から1年以上経ったこの日になってようやく登場したこと、しかもあれだけの人気を誇った座長が、座員たちと同程度のフォントで印字されていることには、あえて目立たぬようしたのか、なんらかの背景があると感じられてなりません。


ちなみに、日吉良太郎も近江二郎も井土ヶ谷に住んでいました。日吉良太郎は井土ヶ谷中町、近江二郎は戦後は通町のあたりだったようです(ご親族のお話による)。どちらも最寄りの電停(市電)から弘明寺まで乗り換えなしに行けたはずです。

同じ地区に住む二人の座長が、横浜を拠点にしながら、杉田劇場や銀星座を足がかりに、戦後の新たな演劇界を生き抜いていこうと奮闘していた姿が見えてくるようです。

しかし

昭和24年5月29日 近江二郎没
昭和25年3月 杉田劇場、実質的な閉場
昭和26年8月 日吉良太郎没
昭和27年11月 銀星座、休場(のちに改装されて映画館=有楽座となる)

戦争が終わって、さあこれから、と戦前・戦中の横浜演劇界を支えた両雄が、杉田と弘明寺の地にあげた復興の狼煙は、この時期、立て続けに消えていったわけです。

そしてそのバトンを継ぐかのように、美空ひばりの全国的な人気が高まっていくのは、時代の替わり目を目の当たりにするようで、感慨深いものがあります。


→つづく

「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

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