(136) 横浜近江養鶏株式会社

近江二郎の父は近江友治といい、広島県芦品郡福相村(現福山市)の出身です(古い住所では芦品郡有磨村のよう)。もともと戸田家に生まれましたが、近江家の娘・千枝と婿養子に入る形で結婚したことで、近江姓を名乗ることになります。

友治と千枝の間には長男・一雄、次男・二郎、三男・郁三、四男・資朗、五男・謙吾、六男・六郎、長女・富江、次女・孝子の六男二女が生まれ、次男の二郎がのちに役者となる近江二郎というわけです。また四男の資朗も兄の劇団に参加して「戸田史郎」の芸名で役者となります。芸名が戸田なのは父方の実家の姓をとったと思われます。


友治は郷里で学校の教員(訓導)でしたが、かなり進取の精神を持った人だったようで、貧しい家の子供に教育を授けるための資金集めとして、養鶏を提案したり、妻・千枝の反対を押し切って一家揃って横浜に転居するなど、かなりドラマチックな人生を送ったと思われます。

進取の精神とはいえ、教職にあったことや、養鶏で資金集めを考えるなど、堅実で真面目な一面もあったはずで、二郎が役者になると言い出した時には、激怒して二郎を勘当したのだそうです。

さて、広島出身ということもあるのでしょうか、友治は子どもたちを積極的に海外へ移住させます。

長男の一雄、三男の郁三、五男の謙吾、六男の六郎は、いずれもハワイやアメリカ西海岸へ渡り、クリーニング業や養鶏など、さまざまな仕事をしてアメリカで暮らすことになります(何度か引用している近江家のファミリーヒストリー "FIFTH BORN SON" はその経緯などを謙吾の子、ジョージが著した本です)。

これも以前から何度か書いている近江二郎一座のアメリカ興行は、実は五男の謙吾を中心に、アメリカ在住の兄弟たちが招聘したもので、その成功はひとつには日系社会の中で確固たる地位を得ていた兄弟の人脈が物を言ったとも考えられそうです。

おそらく大正に入ってから、父・友治も渡米して養鶏を学んだそうで、大正9年の「日米住所録」には、カリフォルニア州のペタルマ在住の日系人として、一雄とともに名前が記録されています。

「日米住所録 1920年」(日米新聞社)より

広島から出た時期や、渡米、横浜に転居した時期など、詳細な時系列はまだ調査途中ですが、アメリカから帰国後、大正12年、友治は横浜井土ヶ谷に「横浜近江養鶏株式会社」を設立します。

官報(1923年8月3日付)より

内容を転記します。

●株式会社設立
一 商号 横浜近江養鶏株式会社
一 本店 横浜市井土ヶ谷町八九八番ち
一 目的 初生雛親鳥百日雛●●卵食卵販売其他之レニ附帯する営業
一 設立年月日 大正十二年四月三日
一 資本総額 金四万円
一 一株ノ金額 金二十円
一 各種払込額 金二十円
一 公告方法 横浜貿易新報ニ掲載ス
一 取締役ノ氏名住所
 近江友治 横浜市井土ヶ谷町八九八番地
 末房増太郎 広島県御調郡栗原村字竹屋九七七六番地
 三村軍蔵 横浜市万代町三丁目五七番地
 渡井政次 同市黄金町一丁目四番地
 直江亀吉 同市西戸部町字御所一二九番地
 笠川源蔵 同市大岡町一一九番地
一 監査役ノ氏名住所
 戸田保 広島県芦品郡有磨村字下有地北一一一三番地
 武安正和 横浜市弘明寺町二八九番地
一 存立時期 設立ノ日ヨリ満三十箇年


この会社が設立された大正12年4月といえば、横浜喜楽座で絶大な人気を博していた近江二郎が喜楽座を去って2ヶ月後ですから、もしかしたらその人気にあやかって会社を作ったのかもしれません。すでにこの頃には二郎の勘当は解けていたそうです。


さて、この会社の取締役と監査役についても少し調べてみたところ、なかなか興味深いことがわかりました。

友治に次いで名前が記載されている「末房増太郎」という人は、上掲の「日米住所録」に近江友治と同じペタルマ在住の日系人として名前が記録されていますから、同じ時期にアメリカに渡った同郷の士ということになります。

後年は郷里に製材や下駄製造の会社を設立したようです。

つづく「三村軍蔵」「渡井政次」「直江亀吉」の3人は、横浜のタクシー会社、神奈川都市交通の前身で、大正7年に設立された「横浜市街自動車」の取締役として名を連ねています。


官報(1919年1月16日付)より

このうち、「三村軍蔵」は同社の二代目社長になる人で、会社の基盤を作った人とも言っていいようです。その時の専務取締役が「直江亀吉」ですから、横浜のタクシー業界の先駆者たちが近江友治の会社の取締役も兼務していたということになります。

渡井政次」は横浜市街自動車の取締役だけではなく、本業は西洋料理店の経営で、現在も桜木町駅の構内にある「川村屋」の創業者の娘婿でした。

有名な話ですが、桜木町構内の立ち食いそば店・川村屋はもともと西洋料理店で、横浜で名高い富貴楼お倉の弟・渡井八太郎の妻、渡井つるが開業しました。その後、伊藤博文の口利きで当時の横浜駅(現在の桜木町駅)構内にレストラン(川村屋洋食店)を開き、それが現在の川村屋につながるのです。

甲府出身の政次は中学卒業後に横浜へ出て、渡井八太郎のもとで働いている中、信頼を得て娘婿になったということだそうです。

横浜財界人、というより横浜のタクシー業界と飲食業界の重鎮というべき人たちが、どういう経緯で近江友治の会社の取締役になったのか、その経緯はまったくわかりませんが、いずれにしても当時の最先端を行くような事業の経営者たちとの縁があったことは間違いなさそうです。そこに喜楽座の人気役者、近江二郎の存在があったと考えてもいいような気はします。

ちなみに現在の川村屋の名物は「とり肉そば」ですが、友治の養鶏と何らかの関係があるのかもしれない…なんていうのは悪癖の妄想でしょうね。


さて、取締役の最後に名前があるのは「笠川源蔵」ですが、この人のことはよくわかりません。ただ「笠川」という姓は近江二郎の妻、深山百合子と同じで(笠川ヒデ)、おそらくこの頃の近江二郎は百合子と結婚し、婿養子に入って笠川二郎となっていますから、もしかしたら笠川源蔵は二郎の義父ということなのかもしれません。


監査役の二人も興味深い存在です。

「戸田保」は姓や住所からもわかるように、友治の実兄です。二郎にとっては伯父にあたる人です。兄に監査役を頼むのはごく自然なことのように思えます。


「武安正和」は横浜英和女学校(現在の横浜英和学院)の二代目教頭で、同校の校歌を作詞した人だそうです。

調べてみると実は友治とは同郷で(広島県芦品郡福相村出身)、広島師範学校を出ている人ですから、友治からすると郷里の教育者として大先輩というべき人だったようです。両者の間にどこでどんな縁があったのかはよくわかりません。ただ横浜在住の広島出身者ですから、何らかのつながりはあったと想像できます。

友治の会社が設立された大正12年には、武安はすでに横浜英和女学校を退職し、弘明寺に「光華女学校」を創立しています。横浜英和も同年、山手から現在の蒔田に移転していますから、その頃に具体的なつながりができたのかもしれません。いずれにしても同郷のよしみで、監査役を頼んだのでしょう。ただ、武安正和は大正12年11月に亡くなっているので、近江友治との関わりはごく短期間だったようです。

ちなみに武安の創立した「光華女学校」は創立年の9月に起こった関東大震災で被災し、存続ができなくなりましたが、總持寺がその運営を引き受け、戦後は鶴見女子中学校・高等学校となって、現在まで続いています。


友治の会社に話を戻します。

官報によると、横浜近江養鶏株式会社は、昭和4年6月19日をもって解散したとのことです。

官報(1929年8月31日付)より


もっとも、会社としては解散したものの、養鶏は続けていたようで、戦後も同地に鶏舎はあったそうです。近江家の人々はその鶏舎の周辺に住まいし、横浜の地に根を下ろして、戦後もずっと暮らしました。

現在、西光院というお寺のある谷戸の一角です。

近江資朗の家も近くにありましたが、火事を出して磯子区中原に転居します。近江二郎の家はよくわかっていませんが、二郎没後の深山百合子は鶴巻橋の近くに住んでいたとのこと。戦前の活躍を知る人も少なくなっていた中、ひっそりと晩年を過ごしていたようです。

二郎夫妻と在米の兄弟を除く一族の墓は、南太田の常照寺にあります。


そんなこんなで、今回は近江二郎の父が設立した養鶏会社についてのお話でしたが、思いのほか幅広い人間関係が垣間見られて、とても興味深い調査となりました。取締役・監査役の人たちのことをもう少し深掘りすると、近江二郎をめぐる横浜の人脈がさらにはっきりするのかもしれません。


→つづく
(次回は6/19更新予定)

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