大高よし男の足跡は、1940(昭和15)年3月に横浜伊勢佐木町・敷島座の近江二郎一座に参加したという新聞記事が一番古い記録です。
それ以前のことがよくわからないので、彼がいつ近江二郎一座に参加したのかが、解明の鍵になるだろうというのは、かねてから繰り返し考えてきたことです。
それを探るべくさまざまな資料を調べてきましたが、これがなかなか判明しない(無念)。
ということで、これまでの調査に見落としがないかと、最近はずっと都新聞の1939(昭和14)年の演芸欄を細かく調べて、横浜に来る前の近江二郎の消息を探ってきました。
しかしながら、芸界往来の欄にも彼の名前が出ることはなく、他の欄にもまったく記載がないことから途方に暮れるばかり。4月いっぱいまでを調べたところで目も腰も限界に達し、痺れを切らして、横浜に来演した昭和15年春まで一足とびにスキップしてみたところ、ゴシップ欄(?)にようやくこんな記事を見つけたのです。
| 1940(昭和15)年2月27日付都新聞より |
記事に曰く
"新派の古強者近江二郎、アメリカあたりを巡演してゐたところまでは判つてゐたが、其後どこにどうしてゐるのかと思つたら、此程■然と姿を現し此三月には横濱出演が決定"
これを読むと、どうやら新聞社の方でも、近江二郎という名前は昭和初期の活動(おそらく「グロテスク劇場」あたりまで)のあとは、あまり耳にしていなかったようで(どこにどうしてゐるのかと思つたら)、なるほど、記事に名前が出ないのもそういう事情なのかと腑に落ちました。この時期(昭和10年代前半)、近江二郎一座は京浜地区や京阪地区の主要な劇場では活動していなかったのだろうと想像されます。
もっとも『近代歌舞伎年表』を参照すると、昭和10年代の初め頃(昭和13年まで)は年に1〜2度のペースで名古屋の劇場(宝生座など)には出演していたようなので、名古屋を拠点として旅公演をしていたとも考えられます。
いずれにしても、昭和15年春、敷島座への出演(つまりは籠寅演芸部への所属)で、近江二郎はふたたび脚光を浴びるようになったようなのです。
ですから、おそらくこの少し前にあったであろう、大高よし男と近江二郎の出会いは、全国紙や首都圏の新聞からは判明しない可能性が高く、京浜、京阪、中京以外のエリアの新聞や資料を探索するしかないのかもしれません(しかしどの地域を探せばいいのだろう…)。
上掲の記事はこう続きます。
"喜んだのは松竹大船にゐる近江門下の面々、師匠更生の祝いに引幕、幟などを注文したが、これは国策に反するとあつて禁じられてゐることが判り(以下略)"
この記述から、どうやら近江二郎の弟子にあたる役者が松竹大船撮影所に複数名いたことがわかります。具体的な名前が上がっていないので詳細は不明ですが、戦後を見ても渥美清や平参平など、近江二郎一座に所属していた役者は多く、若手俳優育成の場として近江一座が重要な機能を果たしていた側面も垣間見られます。そんな中に大高よし男もいたということなのでしょう。
余談。
一般的に戦後、実演劇場がなくなっていったのは映画のせいだと言われています。実際、そういう面もあったかとは思いますが、杉田劇場や銀星座の推移を見ていると、時間経過とともに剣劇・新派などの大衆演劇が消えていき、最後は歌舞伎が残って、事実上、歌舞伎(小芝居)の小屋になっていく傾向があります。
このことからすると、少なくとも周縁部の劇場では、実演全般というより大衆演劇が映画に取って代わったというのが正確なような気がします。剣劇は時代劇、新派はメロドラマ(?)などとして映画化されることで、それぞれのジャンルの実演のニーズが低下したように思うのです。
もちろん、歌舞伎の演目も映画化されていますが、たとえば映画の『忠臣蔵』と『仮名手本忠臣蔵』を同じものというのはちょっと難しいところで(すべての忠臣蔵を比較したわけではないので私的な仮説ですが)、それが実演の歌舞伎の独自性と人気を保っていたのかもしれません。
ですから、映画隆盛と実演衰退の関係は「映画の隆盛にともなって、剣劇や新派といった大衆演劇が取り扱っていた題材(作品)が映画に採用されるようになり、結果として実演のニーズが低下した」という理解の方が実態に近いような気がします。
そう考えると、近江一座出身の映画俳優が多くいたというのも、どことなく腑に落ちるところです(近江二郎自身は日本の映画には出ることなく亡くなっていますから、皮肉でもあり残念でもありますが、逆に最後まで舞台人であったというのは、彼にとって幸せだったのかもしれません)。
閑話休題。
そんなこんなで、大高と近江一座の関わりについては(まだ具体的な事実関係は不明ながら)、得意の妄想を駆使すればかなり高い確度でこんな推移が考えられそうです。
昭和10年代前半
いずれかの地方で近江一座に大高よし男(前名・高杉弥太郎)が参加(推測)
昭和15年3月
近江一座のメンバーとして横浜敷島座に登場(おそらく近江と同時に籠寅所属)
昭和16年1月
横浜敷島座に再来演 その後、近江一座から離れて松園桃子一座、伏見澄子一座に参加
昭和17〜18年
大高よし男に改名。海江田譲二・中野かほるらの8協団や伏見澄子一座に参加
※その後の消息不明(出征か?)
昭和21年1月
杉田劇場に出演した近江一座を(復員後の?)大高が訪ねる(推測)
昭和21年2月
近江二郎の口ききで大高よし男が杉田劇場の専属劇団座長となる(推測)
結果的に、まだ何もわかっていないのと同じではありますが、名前以外の何もわからなかった当初からすればかなり前進してきたと、少しだけ自画自賛したいところです。
| 1942(昭和17)年1月30日付都新聞より |
この事実は、すでに横浜の新聞で確認していますが、都新聞でもはっきりと「高杉彌太郎改め大高義男」と書かれていて、改名の事実が再確認できたわけです(おそらく昭和17年1月興行から大高義男またはよし男に改名)。
とはいえ、そもそもがどちらも同じ興行(敷島座の伏見澄子一座)に関する記事で、情報源が同じだった可能性もあるので、これをもって即座に真実と断定するのも拙速ですが、二紙に記述があるのは頼もしい話で、ひとまず「大高よし男の前名は高杉彌太郎である」ということを確度の高い前提として、今後も調査・検証を続けていきたいと思います。
そんなこんなで、今回も新発見というほどのものはありませんでしたが、近江二郎一座の消息と大高よし男について浅く検証してみました。
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