(125) 尾上大助のことと年の瀬のごあいさつ

先日、大高調査の一環で、昭和13年の都新聞をチェックしていたら、こんな記事を見つけました。

1938(昭和13)年11月7日付都新聞より

町田に収蔵されている台本にも名前のあった「尾上大助」についての記事です。

引用すると、この年の5月に横浜歌舞伎座での更生劇が終了した尾上大助は、

"自ら大将になつて横濱笑楽座を開けたところ、今度更生劇の延蔵、新之丞等が俄に横濱日活館出演が極まり、大助の體が必要になつたので、止むなく両方を駈持ちと極め、一日に日活館が三回、笑楽座が二回合計五回の働きに大助ヘトヘト"

なんだとか。

そんなことが本当にあるものかと、横浜貿易新報を確認してみたところ、まずは尾上大助らが笑楽座で興行を始めたという記事が見つかりました。

1938(昭和13)年11月2日付横浜貿易新報より

続いて、日活館(旧喜楽座)でアトラクションとして更生劇による歌舞伎が上演されたという記事もありました。

1938(昭和13)年11月8日付横浜貿易新報より

この記事中にも「大助」の記述がありますから、尾上大助は同時期に笑楽座・日活館のどちらの舞台にも出ていたわけで、どうやら都新聞の記事内容は正確なもののようです。


笑楽座は昭和5年、西前商店街(当時は中区、今は西区)にできた小劇場(定員248)で、現在の位置でいうと、湘南信用金庫藤棚中央支店の裏手あたりにあったそうです(小柴俊雄『横浜演劇百四十年』より)。

西前商店街(正確には西前中央商店街だそう)は、いわゆる「藤棚商店街」の一部らしいので、伊勢佐木町への移動は「藤棚」から市電を乗り継げばそんなに苦ではなかったと思います。とはいえ、移動した上に舞台に立つのですから、なかなかのハードワーク(?)だったことは間違いないでしょう。

笑楽座についての記事は、この劇場の観客は夕方になると晩御飯の支度のために帰ってしまうという「風習」を知らなかった大助らがひどく困惑したという話だし、日活館の記事は更生劇の面々が「大石内蔵助」山科の場を30分という超特急で上演しているのに苦言を呈しているのですから、都新聞の記事同様、どちらも笑い話のような批判(揶揄)のような内容ではあります。


それはそれとして、実は都新聞の記事にはかなり気になることが書かれているのです。

"大助は新國劇の丸茂三郎の實兄"

丸茂三郎という役者は新国劇の二枚目俳優で、残念ながら戦死してしまうのですが、生きていれば戦後の新国劇を支える重要な役者になっただろうと思われる人物です。昭和11年刊の『俳優大鑑』によれば、本名も丸茂三郎で、明治45(1912)年1月29日生まれだそうです。

その兄が尾上大助だというのです。

戦前の映画俳優のことを驚くほど精緻に調べておられる水沢江刺さんのXの投稿で、丸茂三郎の兄は「丸茂一郎」といって、松本時之助の名で映画俳優として活動していたと知りました(→こちら)。

手元にあるキネマ旬報の『日本映画俳優全集』にも「戦前、新国劇の幹部として活躍した丸茂三郎は実弟である」書かれています。また、上掲の投稿にもありますが、映画俳優ののちは本名の丸茂一郎に戻り、すわらじ劇園(一燈会を母体とした劇団)に参加していたそうです。

さすがにこれを尾上大助と同一人物だと考えることはできません。

となると、丸茂三郎には2人(以上)の兄がいて、ひとりは丸茂一郎、もうひとりが尾上大助ということになりそうです。ありうる可能性は、尾上大助は一郎と三郎の間、一郎の弟で三郎の兄ということです(順当に考えれば本名は「丸茂二郎」なのかしらん)。

前掲の『日本映画俳優全集』によれば、丸茂一郎(松本時之助)の生年は1903(明治36)年6月20日なので、尾上大助が次兄であれば、生年は両者の間、1904(明治37)年から1910(明治43)年の間と考えられます。旧杉田劇場に出ていた頃は30代後半から40代前半という感じになるのでしょうか。


さらにこの記事の冒頭には「故幸蔵門下の腕達者尾上大助」ともあります。

幸蔵とは昭和9年に亡くなった二代目尾上幸蔵のことだと思われます。幸蔵の屋号は大橋屋で、本名が大橋幸蔵だそうです。

「大橋」という姓と屋号には見覚えがあります。

町田で閲覧した旧杉田劇場のほとんどの台本には尾上大助の名前が書かれていましたが、その横に肩書きのように「大橋家」と印字されているものがあったのです。しかも台本のほぼすべてを脚色しているのは「大橋繁夫」でした(こちら)。

尾上大助が幸蔵門下だとすると、彼の屋号もまた「大橋屋」であったと考えられそうですし、大橋繁夫という人物も、尾上幸蔵と関わりのある誰か、ということになりそうです。

あの調査からずっと謎だった尾上大助と「大橋」の関係を知る手がかりがやっと見つかった気がします。

旧杉田劇場での歌舞伎公演に関しては、尾上大助がかなり大きな役割を担っていたように感じています。尾上幸蔵と大助の関係、また大橋繁夫の正体を探ることで、旧杉田劇場の動向がさらに詳細にわかってくるかもしれません。来年以降の課題ですが、大高調査と並行して、尾上大助の調査も進めて行きたいと思います。


さて、今年の投稿はこれが最後です。

2025年最初の投稿は1月8日の「美空ひばりのデビュー再考・その1」でした。ほぼ2週間に一度の更新ペースなので、28回の投稿はほぼ予定通りということになります。

結局のところ今年も大高の正体に迫ることはできなかったわけで、普通に考えればこの一年は無為な時間とも言えますが、結果的には、旧杉田劇場や周辺の劇場、はたまた戦後芸能界の動向なども知ることができ、さらには戦後の磯子のことがより具体的にわかるようになったのですから、個人的な思いとしては望外の収穫があった一年でした。

現杉田劇場で「いそご文化資源発掘隊」の講座をやらせてもらったのをきっかけに、歌舞伎(小芝居)のことを少し調べ始めたのもまた新たな展開で、大高だけではない杉田劇場の姿が見えてきたのも得たもののひとつです。

さらには、舘野太朗さんの情報から、町田で旧杉田劇場の台本を閲覧できたのも貴重な体験でした。また小針侑起さんから大事な資料をお借りできたことも、調査を前進させる大きな一歩となりました。

ご協力いただきましたみなさま、ありがとうございました。

基礎知識が不足しているせいでしょうが、調べれば調べるほど謎が深まる沼に陥っております(笑)

調査項目は増えるばかりではありますが、当面、

・大高よし男と近江二郎の最初の接点はどこか
・尾上大助と旧杉田劇場はどういう関係なのか
・美空ひばりは本当にアテネ劇場に出演したのか

といったあたりを重点項目にして、この先も飽きずにコツコツ調べていきたいと思います。


今年もこの取り留めのないブログをご愛読いただき、ありがとうございました。

来るべき年がみなさまにとって幸せに満ちたものとなりますよう。



→つづく
(次回は2026/1/10更新予定)

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「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(124) 小針さん所有の資料から(つづき)

前回の続編なので更新スパンを短くしての投稿です。

今回も小針侑起さんにお借りしている資料から、大高よし男に関するものを見ていきたいと思います。


前回最後に紹介した、謎の残る1942(昭和17)年9月興行のパンフに続くのは、同年10月1日からの興行のものです。

このパンフ(筋書)から大高の名前も太字で表記されるようになります。8月31日のものでも伏見澄子、二見浦子、河合菊三郎といった役者はすでに太字になっているので、三友劇場ではこの頃からこうした表記が始まったのかもしれません。

演目は

時代劇『風雲熊本城 西南餘聞 谷村と千葉健三郎』(行友李風作)
時代劇『子負ひ道中』(巽義夫作)
時代劇『暁の鍔鳴り』(末廣薫作)

大高は『谷村と千葉健三郎』『暁の鍔鳴り』の2本に出演しています。

実はこの配役の中に気になる名前があります。

高田光太郎

です。彼は大高が出演した2本ともに出演しています。

この名前、実は少し前にも紹介したことがありました(→こちら)。

1941(昭和16)年3月、横浜敷島座の筋書(シキシマ・ニュース)に大高の前名、高杉彌太郎とともにその名が掲載されているのです。

ただ、この時は大高同様(おそらく)近江二郎一座の一員として出演していたはずなので、上掲の伏見澄子一座にこの名前があるのは少し奇妙な気がします(彼以外、重複した名前はなさそうだし)。

もっとも、そもそもを言えばこれが同一人物なのかもはっきりしません。

仮に同一人物だとして、ここに名前があるということは、前回人物像を推察したように「杉田劇場のオーナー・高田菊弥本人」とする説や「その関係者」説は、時期や地理的に少し考えにくくなってきます。安易な短絡は慎むべきですが、高田光太郎は大高よし男と直接つながりのあった役者、ことによると大高の直弟子やごく身近な弟弟子で、大高が近江一座以外に出演する際に帯同するような関係だった可能性もあります。

役柄からして子供ではなく、比較的若いの成人男性のようです。

同一人物かどうかも含め、この人についても、新たな調査対象として出演記録を追いかけるなど、もう少し調べてみなければなりません。そのことで大高の痕跡につながる可能性があるかもしれません。


さて、その次は10月20日からのもの。

ここでも大高の名前は太字で、「高田光太郎」の名前も見られます。

演目は

時代劇『唄ふ若様』(長一郎作)
時代劇『泣き濡れ長脇差』(藍島千里作)
時代劇『源九郎狐』(末廣薫作・演出)

大高は『唄ふ若様』『源九郎狐』の2本に出演。高田光太郎の方は3本すべてに出演しています。


小針さんの資料の中にある大高の名前が掲載されたパンフ(筋書)の最後は、これまでのものから半年ほど経った1943(昭和18)年4月20日からのものです。


同じ三友劇場ニュースですが、形状やサイズが変化していて、以前、僕が個人的に入手したパンフ(筋書)と同じ時期、同じ座組の興行のものと考えられます。

ここでも大高の名前は太字で記載されています。太字は伏見澄子、林長之助、三桝清、片岡松右衛門、筑紫美津子ですから、いずれも座長クラスか、かなり実力のある役者で、大高の役者としての格がかなり上がった印象です(なぜか宮崎角兵衛は太字ではなくなっています)。

この興行は伏見澄子一座と林長之助一座の合同公演です。以前も紹介しましたが、林長之助は盲目の歌舞伎役者なので、演目は

時代劇『情怨おけさ小唄』(坂本晃一作)
歌舞伎『廓文章』
時代劇『嬬戀天龍』(藍島千里作)

と、歌舞伎を挟む3本となっています。大高は『嬬戀天龍』の1本だけに出演しています。

なお、この興行に高田光太郎は参加していません。

半年の間に、高田の身に何かあったのでしょうか。時期的には召集・出征などが考えられますが、理由はどうあれ、この時は大高と別行動ということだったようです。近江二郎一座に参加していたということなのかもしれません。


さて、小針さん所有の大高関係資料はここまでですが、実は中には不二洋子一座に近江二郎一座が加盟参加しているパンフもありました。

これは大高が京都の舞台に出ていたのと同じ時期、1942(昭和17)年10月1日から、大阪弁天座での興行のものです。

ここには近江二郎のほかに、深山百合子、大山二郎といった(おそらく)近江一座の幹部俳優のほかに、のちに大高一座の支配人となる「大江三郎」の名前も見られます。

また、以前「今昔十二ヶ月と近江二郎」のタイトルで投稿した際に、写真と照合した役者の名前(澤井五郎、濱原義明、大島伸也、河村陽子、中村扇子)らの名前も見られます。彼らは不二洋子一座の座員だったのでしょうね。

この興行では、大江三郎の作による『青春の叫び』も上演されています。この作品はこれまでも広告などでたびたび目にしてきました。おそらく近江一座の人気レパートリーだったのでしょう。ただどんな内容なのかはさっぱりわからないままでした。

ありがたいことに、このパンフには梗概が掲載されていたので、今回、ようやくそのストーリーを知ることができたのです。

掲載されていた梗概をさらにざっくりまとめると

画才のある苦学生が芸者と恋に落ちるが、旧友によって画家としての未来も恋人も奪われる。年月が経ち、ふとしたことで再会した三人。男たちは激しい闘いになる…

といった形になるでしょうか。いかにも典型的な新派芝居といった内容です。終場、教会の鐘の音が葛藤やわだかまりを一気に解消するくだりは、劇作上、デウス・エクス・マキナの手法ともいえ、とても興味深い芝居です(全編を読んでみたい)。


なお、小針さんの著作『浅草の灯よいつまでも 浅草芸能人物列伝』の「不二洋子」の章に、1941(昭和16)年7月、京都南座での興行のパンフが掲載されています(※176ページ/時期は『松竹七十年史』で確認)

この時は「近江二郎加盟」の形ではなかったので、上述のような近江一座の幹部役者の名前は見られません。大江三郎の名前もありません。これまでの調査でも「大江三郎」の名前は常に近江二郎一座とセットで登場していて、やはり彼は近江一座の文芸部員だったと断定してもよさそうです(名前の近似からしてもそう考えられる)


こうしてみると、戦前から大高とともに名前の出る人のうち、少なくとも大江三郎と高田光太郎は、近江二郎と大高よし男をつなぐ重要な人物だったように思えます。逆に、近江二郎と大高よし男の関係は、人的交流のあるほどかなり密接なものだったとも言えます。

前にも書いていますが、近江二郎が最初に杉田劇場で興行をしたのが1946(昭和21)年1月26日〜2月4日。大高が杉田劇場を訪れた時期は「2月に入り」とされていますから(片山さんの証言による)、近江一座の千秋楽の頃です。

大高が杉田劇場に来たというのは、自身を売り込みに来たというよりは、近江二郎を訪れたと考えた方がいいでしょう。もしくはその段階ですでに戦後の近江一座に大高が参加していたのかもしれません。

いずれにしても、その大高を近江二郎が、高田菊弥や鈴村義二に専属劇団の座長として紹介(推薦)した、というのが自然な流れのように思えるのです。

それが決まったことで、近江二郎は、自分の一座の文芸部員・大江三郎や役者・高田光太郎(孝太郎)を大高の暁第一劇団に参加させたのではないでしょうか。

大高の出生地や居住地などはまだわかりませんが、少なくとも彼が戦後、浅草や京都ではなく、横浜にやって来たのは、近江二郎がいたから、という考えは、かなり確度の高い推論で、大高よし男の師匠は近江二郎である、という自説の信憑性も、かなり高いと自負していいように思います。


これまでの調査では、戦前・戦中、大高よし男が座長として一座を率いていた記録は見つかっていません。もしそうだとすると、大高にとって杉田劇場の暁第一劇団は初めて座長をつとめる劇団ということになるわけです。

戦争が終わり、新しい時代の中で、自分の一座ができたというのは、大高にとってどれほどの喜びだったかと思うと、彼の希望に満ちた姿が目に浮かぶようで、こちらまで心が浮き立ってきます(妄想です)。


そんなわけで、今回は前回に引き続き、小針侑起さんの資料から大高の足跡を辿ってみました。小針さん、あらためて、ありがとうございます(もうしばらく他座の調査も続けさせてください。なるべく早急にお返しいたします)



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(123) 小針侑起さんに旧杉田劇場をご案内

先日、作家で芸能研究家の小針侑起さんが資料調査のために現・杉田劇場に来場されました。毎年、「ひばりの日」を開催している縁もあっての来訪でしたが、地元で杉田劇場の調査などしている人間として、劇場スタッフからの召喚(?)を受け、旧杉田劇場の跡地や商店街のご案内をしました。

ひばりさんの熱烈なファンである小針さんですから、彼女が唄った舞台の跡地に立って、感慨深げに写真を撮っている姿が印象的でした(→こちら)。

旧杉田劇場のあった場所には「磯子区郷土研究ネットワーク」の設置した案内板がありますから、初めていらした方にも比較的わかりやすいところです。

新杉田駅前、杉田劇場の入っている「らびすた新杉田」の前、聖天橋(しょうてんばし)という交差点から国道16号線を横須賀方面に進んで、JR根岸線と交差する地点、高架の橋脚の下がその場所にあたります。

国道16号線の中央車線はかつて市電の軌道が通っていたところで、旧杉田劇場の写真をよく見るとその線路が写っていますから、これが道路の反対側から写したものだとわかります(というお話もしました)。


参考までに現在の同位置のストリートビューと、旧杉田劇場を合成するとこんな感じになります(縮尺はややいい加減ですが)。

旧杉田劇場の裏手は、日本庭園になっていて、その先はすぐに海でした。三宅三郎の本に観客が幕間にバケツを持って潮干狩りをしていたと書かれているのは以前も紹介したところです。

当時の地図や航空写真などを参考に、現在の写真上に作画するとこんな感じになるでしょうか。幕間に潮干狩り、というのがよくわかるかと思います(劇場は正面を入って、L字に曲がる形で客席と舞台があったそうです)。

地図の右上に記載した「埋立地」は、戦前からのもので(おそらく日本飛行機や石川島航空工業などの軍需工場を建設する一環としての埋め立てだと思う)、根岸湾の埋立が大規模に行われるようになるのは1959(昭和34)年からです。

なのて、旧杉田劇場があった頃、磯子〜屏風浦〜杉田の海岸はまだまだ潮干狩りや海水浴のできる景勝地でした(→こちら:杉田商店街の和菓子店「菓子一」のサイトより)。


さて、以前、小針さんから、大高よし男の写真が載った当時のパンフレット(チラシ?)のデータを送っていただいたことをお知らせいたしました(→こちら)。

なんと、この日、それらを含む貴重な資料をまとめてお持ちくださったのです! しかも、ありがたいことに、しばらくお貸しいただけるということで、遅々として進まなかった大高調査がまた少しずつ前進を始めているところです(ありがとうございます!)。

お借りしたのは、今でいうスクラップブック、古い言い方だと「切り抜き帳」とか「貼り交ぜ帳」といったものになるのでしょうか。演劇のチラシやパンフを貼って綴じてあるもので、昭和17年前後、主に京都の(一部大阪や名古屋のものも含まれています)大衆演劇のものが丁寧に貼り付けられたB4サイズほどの綴じ物です。

中には大高よし男の名前が記載されているものが6部あって(小針さんがあらかじめ調べて付箋をつけてくださっていました)、『近代歌舞伎年表』(京都篇)と突き合わせたところ、1942(昭和17)年4月、9月〜10月、1943(昭和18)年4月のいずれも京都・三友劇場での伏見澄子一座のものであることがわかりました(1部は以前データで送っていただいたものです)。

『近代歌舞伎年表』には主な配役のみしか掲載されていなので、大高を調べるにあたってはその点がハードルになっていましたが、お借りしたものを見ると配役全部が把握できるので、大高のみならず他の役者たちの名前もわかり、調査を前進させるには貴重な資料となります。

小針さんからは、スキャンしたり、ブログに掲載してもいいとの許可をいただいておりますので、今回から2回に分けて紹介していきたいと思います。


まず一番古いのは1942(昭和17)年3月31日初日とされるもので、演目は

時代劇『剣光祭音頭』(鈴木道太脚色・演出)
時代劇『愛の銃剣』(末廣薫作、日吉千歳演出)
現代劇『恩師の仇』(谷川満構成脚色、鈴木道太演出)
時代劇『新月霞河原 題目供養』(日吉千歳作・演出)

の4本。

このうちの『恩師の仇』は現代劇と書かれていますが、劇中劇として「忠臣蔵松の廊下迄」とあり、現代劇に挟み込む形で忠臣蔵を見せる趣向のようで、面白い構成の作品です。

大高よし男は4本のうち2本に出演しています。

配役をよく見るとおなじみの宮崎角兵衛や二見浦子、雲井星子らの名前が見られますし、前回の投稿で戦後、大倉千代子一座に参加して杉田劇場にも来た河合菊三郎の名前もあります。河合菊三郎が杉田劇場に来演した際、大高よし男を偲んで昔ばなしなどをしていたのかもしれません。

次はそれに続く4月9日からのもので

時代劇『春霞武道往来』(鈴木道太脚色・演出)
時代劇『故郷の夢』(小林勝之作、安田弘演出)
時代劇『祇園しぐれ』(村上元三作、小笠原謙二演出)
時代劇『お駒格子』(大場章三郎作、鈴木道太演出)

の4本。これを見ると伏見澄子一座は現代劇には手をつけず、時代劇専門の一座で活動していたのがわかります。

この中に書かれている「小笠原謙二」という人は演出を担当していることから文芸部員かと思われますが、『春霞武道往来』には役者としても出ています。大高一座の大江三郎も演出と同時に出演もしていますから、同じような立場の人だったように思われます。


次が、以前小針さんからデータで送っていただいた1942(昭和17)年4月18日からのもので、上のふたつに続く日程だと考えられます。3月からスタートした伏見一座の2ヶ月にわたる三友劇場での興行はこれでお名残(終わり)です。演目は

時代劇『冴える三日月』(鈴木道太作・演出)
時代劇『出世の纏』(伊藤晋平作、安田弘演出)
時代劇『十六夜三人旅』(平野万太郎作、小笠原謙二演出)
時代劇『春月妻折笠』(鈴木道太改訂・演出)

 の4本です。

なんといってもこのパンフは、オモテ面に大高よし男の顔写真が印刷されているのが貴重で、実物の状態を見るに、そこに気づいてくださった小針さんには重ね重ねの感謝です。

ところで、以前お知らせした手元にある昭和18年の三友劇場のパンフや、次回紹介する小針さんの資料の中では、他の重要な役者に並んで大高の名前も太字で表記されているのですが、ここまで見てきたものには太字の記名が見られません。

大高がまだ、名前を強調することで宣伝効果になるほどの人気やキャリアではなかったのか、そもそも重要な役者を太字にするという宣伝方法がまだ採用されていなかったのか、詳しいことはよくわかりません。


ところで、『近代歌舞伎年表』によると、1942(昭和17)年8月31日から始まる三友劇場9月興行、伏見澄子一座にも大高よし男が参加していることになっています。

『近代歌舞伎年表』京都編 別巻より

小針さんの資料の中にも同じ公演のパンフ(筋書き)がありましたが、ここには大高の名前が見当たらないのです(河合菊三郎、二見浦子、伏見澄子の名前はあるのに大高だけがない)。


『年表』の典拠の中に "簡易筋書(「三友劇場ニュース第67号」)"の記載があって、上掲の資料がまさにその67号です(なのに名前がない)。

『年表』が参照した筋書きとは版が違うのか、もしくは同じく典拠としている京都新聞の広告に「大高よし男加盟」の文言があったのを転記しているのか、これも詳しいことはわかりません。京都新聞を確認する必要がありそうです(ちなみに第67号の表紙に「大高よし男」の文言はありませんでした)。

大高はこの年の7月26日まで海江田譲二・大内弘・中野かほるの「8協団」に参加して、名古屋歌舞伎座の舞台に立っています(→こちら)。6月下旬に川崎大勝座で試演的な公演をやった後の名古屋興行だったと思われるので、それがさらに京都・大阪以外の都市へ巡業として続いていたのかもしれません。

そのために伏見一座9月興行のお目見得には間に合わなかったということなのか、もしくは間に合わないつもりが間に合って、新聞だけに載ったということなのか、これまた詳しいことはわかりません。ただ『年表』では二の替りの劇評が引用されているので、いずれにしても9月10日くらいには伏見一座に合流していたことは確かなようです。


というわけで、今回は小針さんに旧杉田劇場のご案内をし、お借りした資料から大高の足跡を辿るお話しでした。

次回はこの続きです。


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(122) 大倉千代子が来たり、前進座がまた来たり

相変わらず大高よし男の正体は不明のまま、調査も停滞しているので、今回もまた戦後の杉田劇場、特に1950(昭和25)年の杉田劇場についてのお話です。


何度か書いてきたように、杉田劇場の新聞広告は1949(昭和24)年の10月頃から激減します。輪をかけるように、1950(昭和25)年になるともはや正月やお盆など、ごく限られた時期を除けば広告はほとんど出なくなります。おそらくそれ以外の期間も公演は続いていたと思われるので、広告費を節約していたということなのでしょうか。

さすがに劇場経営も厳しくなっている印象で、いよいよ切羽詰まってきたという空気もほんのりと感じるところです。

そんな数少ない新聞広告は、市川門三郎一座か市川壽美十郎一座の歌舞伎が中心ですが、この年、歌舞伎以外の広告で特に目を引くのは大倉千代子一座の興行です。


大倉千代子は1915(大正4)年生まれの女優で、戦前からの映画スターとして人気を博していました。ゴシップ的なネタですが、69連勝で名高い大横綱・双葉山とのロマンスが噂されたことでも知られています(真相は不明で、どうやらガセネタのようでもありますが、双葉山が別の女性と婚約したために、大倉千代子の「失恋」という扱いになっていて「慰めるためのお茶会が開かれた」というゴシップ記事が掲載されたりします)

1939(昭和14)年2月22日付横浜貿易新報より


彼女は、もともと10歳頃、高橋義信・五月信子夫妻の「近代座」に入ったことからキャリアをスタートさせたそうですが、その後、近代座を退座して映画にも出演するようになり、溝口健二監督の『虞美人草』でヒロイン小夜子を演じるなど数々の作品に出演します。映画の製作が厳しくなった戦争末期からは他の映画スター同様、実演に移行していたようで、『近代歌舞伎年表』を調べると「日活座」や「たもつ座」といった劇団で活動している記録が確認できます。

1943(昭和18)年4月18日〜27日・京都南座
『近代歌舞伎年表』京都篇 別巻より

また(時系列が前後しますが)同じ年の2月には川崎大勝座で月宮乙女と共演する舞台にも出ています。月宮乙女は横浜出身で、大倉千代子とはともに近代座出身という縁もあるそうです。

1943(昭和18)年2月8日付神奈川新聞より

※余談ですが、大倉千代子が京都で舞台に立っていた時期、大高よし男も伏見澄子一座に参加して京都三友劇場に出ていました。もしかしたら大高が大倉千代子の舞台を見に行くようなこともあったのかもしれません(妄想です)。


さて、そんな大倉千代子が杉田劇場に来演したのは、1950(昭和25)年6月21日から27日で、河合菊三郎が特別出演する総勢30数名の大一座での興行でした。

1950(昭和25)年6月21日付神奈川新聞より

※またまた余談ですが、河合菊三郎は伏見澄子一座に参加する形で、大高よし男と同じ舞台に立っています→こちら


実はこの興行の前、三吉劇場(いまの三吉演芸場)が新装オープンした際に、柿落としとして、大倉千代子一座の興行が行われているのです。

1950(昭和25)年6月7日付神奈川新聞より

(新たに開場した劇場ということもあるのでしょうが、これ以降、大衆演劇の広告は杉田劇場や銀星座よりも三吉劇場の方が多くなっていきます)


三吉劇場で大倉千代子一座がいつまで公演をしていたのかははっきりわかりませんが、上掲の広告で予告されている梅澤昇一座の初日が6月16日なので、14日か15日あたりまでは三吉劇場にいたように思います(杉田劇場の興行が7日間であったことを考えると、三吉劇場の方も6日〜12日の7日間だったのかもしれません)。

一座が最初から「横浜巡業」のような形で、三吉劇場の後に杉田劇場での興行を考えていたのかどうかはよくわかりません。なんとなくの印象ですが、三吉劇場が決まったので、ついでに杉田でも、という意図さえうっすら感じるところです。逆に大倉千代子が横浜に来ることを知って、高田菊弥や鈴村義二が三吉劇場へ足を運び、大倉千代子を招聘したなんていうこともあったのかもしれません。

ちなみに、大倉千代子は翌年、1951(昭和26)年1月、新春興行でふたたび三吉劇場に登場します。前年6月の横浜公演がかなり成功したのかな、とも想像されますが、残念ながら1月に杉田劇場へ来た記録はありません(杉田の広告では「大映麗人スタア」、三吉劇場では「元日活女優」と書かれている点が興味深いです)

1951(昭和26)年1月1日付神奈川新聞より

さて、この年の杉田劇場のもうひとつのトピックは、前進座がまたまたやってきたことです。

それまで前進座は

  • 1946(昭和21)年11月5日〜8日
  • 1946(昭和21)年12月1日〜4日
  • 1947(昭和22)年9月13日、14日

の三度、杉田劇場に来ています。

昭和22年9月の興行後は、ぱったりと広告が出なくなってしまったので、杉田劇場への来演は上記の三度きりと思っていましたが、実際は昭和25年にもう一度来演していたことが今回の調査でわかりました(先日の「いそご文化資源発掘隊」でも三度来演、と誤った情報をお伝えしてしまいました。すみません…)。


杉田劇場での前進座の(たぶん)最後の興行は、1950(昭和25)年10月28日(土)〜30日(月)の三日間で、演目は

  • 現代劇「兄弟」
  • 文七元結
  • 奥州白石ばなし
  • かっぽれ

の「豪華四本立」。

1950(昭和25)年10月26日付神奈川新聞より

これまでの広告には出演者名など、比較的詳細な情報が掲載されていましたが、今回の広告はあっさりしたものです。それだけ前進座の認知度が高まったということなのか、広告に力を入れなくなったということなのかはわかりません。

とはいえ、これで四度目の来演というのですから、専属だった大高一座や市川門三郎一座とまではいかないものの、杉田劇場(あるいは杉田の街)と前進座とはかなり相性がよかったのだろうと想像できます。


この調査で、斜陽になりつつあった杉田劇場でも、それなりに話題性のある公演があったのだということがわかりました。

また、三吉劇場→杉田劇場、三吉劇場→銀星座という巡業(?)の流れもあったようなので、三吉劇場の広告を精査することで、この時期の杉田劇場の動向もわかってくるかもしれません。


というわけで、今回はやや短めですが、戦後、昭和25年の杉田劇場の興行についてのお話でした。



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〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(121) シキシマ・ニュース入手!

ダジャレみたいなタイトルですが、一応、ちゃんとしたお話(のつもり)です。

ただ、ちょっとだけ興奮気味ではあります。


というのも、先日、なんと、大高よし男ゆかりの伊勢佐木町・敷島座のチラシ(パンフ?)を入手したからで、今回はその話。

手に入れたのは、1941(昭和16)年3月、近江二郎一座が参加した興行のチラシ(シキシマ・ニュース)で、まさに大高が前名「高杉彌太郎」で出演していた時のものというのだから、たまりません!

これらの公演の概要はすでに新聞記事でチェック済みですが、チラシを見るのは初めてだし、そもそもを言えば戦前・戦中の伊勢佐木町での芝居興行のチラシやパンフを現物で見るのも(たぶん)初めてです。

戦前・戦中の横浜の劇場資料はあまり多くなくて、例外的に馬車道・横浜宝塚劇場の「ニュース」やオデオン座の「ウィークリー」は、図書館の「デジタルアーカイブ」にかなりな数が掲載されていますが、それ以外、とりわけ関東大震災以降の喜楽座や朝日座のものは、これまでほとんど目にしたことがありませんでした。

ましてや、より大衆的な敷島座に至っては、横浜演劇史でもあまり顧みられてこなかったようで、敷島館と称した映画館時代の資料はあるようですが、劇場時代のものは新聞記事以外のデータはほぼないのが現状だと思います(おそらくまとまった調査や研究もされていない気がします)。


この頃の敷島座は籠寅演芸部(興行部)の経営で、おそらく昭和14年末か15年の初頭に籠寅と専属契約を結んだ(と思われる)近江二郎は、昭和15年3月、弥生興行の目玉(?)として敷島座に初登場します(酒井淳之助一座との合同公演の形)。

1940(昭和15)年2月29日付横浜貿易新報より

記事では大正15年の喜楽座以来、15年ぶりの来浜のように書かれていますが、実際は昭和5年9月の平沼・由村座での渡米記念興行がありますから、10年ぶりということになります(伊勢佐木町へは15年ぶりということになるのかな)

近江二郎も親族も横浜(井土ヶ谷)に住んでいたはずなのに、どういうわけか仕事上での横浜との縁は長らくなかったということのようです。

この昭和15年の興行にも高杉弥太郎時代の大高よし男が参加していることは以前にも書きました。その後、これまでいろいろ調べた中では、大高が横浜に登場するのもこの時が最初だっただろうと考えています。それ以前の横浜の公演データに彼の名前を見つけることができないのです。


そもそもの大前提として、大高よし男の前名が本当に高杉弥太郎なのかという疑問は残ります。ですが、以前にも書いたように「高杉彌太郎改め大高義男」という文言が新聞に載っているし、その後、少なくとも横浜や川崎では「高杉弥太郎」の名前を見ることがなくなるので、新たな証拠が出てこない限り、ひとまずこれを信じるしかありません。

1942(昭和17)年1月26日付神奈川県新聞より

(だけど、このあたりで行き詰まっていて、一向に前進しない…)


さて、入手したチラシは3種で、いずれも昭和16年3月のものです(この時も大高はまだ前名の高杉弥太郎でした)。


この年(昭和16年)の敷島座は、初春興行としてこの三座(田中介二・和田君示・近江二郎)の合同公演からスタート。そのまま3月いっぱいまで三座の合同公演が続きました。

1941(昭和16)年1月19日付神奈川県新聞より

チラシは3月のものですから、まもなく御名残で敷島座を去る直前ということになります。

紙面には「大政翼賛」だの「演劇報国」だの「防諜標語」だの、時代を感じさせる勇ましい言葉がならんでいます。

(横浜での「演劇報国」は横浜歌舞伎座の「愛国劇」日吉良太郎一座が有名ですが、敷島座でも同じフレーズが掲げられていたことがわかります。籠寅がそうしていたのかしらん)


チラシの時期を詳細に特定すべく、新聞と突き合わせてみたところ、この3種は、

3月12日〜18日
3月19日〜25日

の興行のものであるということがわかりました。

(なお、12日からの興行では途中、漫才のメンバーが変わったようで、上の2つのチラシは中面がまったく同じ内容で、裏表紙の漫才の部分だけ変更されています)


このチラシにはこれまで調べてきた馴染みの名前がいくつか見られます。

田中介二は言うまでもなく新国劇出身の剣劇役者で、川上好子は日吉劇から出た女優。

深山百合子は近江二郎の妻で、衣川素子は二郎のいとこの子(従姪)。この時期は夫妻の養子になっていました(のちに養子縁組は解消)。

大江三郎はこれまで何度も言及していますが、杉田劇場の大高一座にも参加していた(おそらく)近江一座の文芸部員で、大山二郎は一座の幹部だと思われます。

朝日五郎、小東金哉、東堂好郎も、各地の新聞などでしばしば目にする役者ですが、不勉強で詳しい経歴などはよくわかりません。小東金哉は役柄からして女形だったと推測できそうです。


そのほかで言えば、近松精次郎と坂本小二郎が少し気になるところです。というのも、近江二郎の内弟子だったという平参平のその頃の芸名が「近松小二郎」だからです。もしかしたら内弟子時代の平参平が名前を変えてこの興行に参加していたのかもしれません。


大高調査の視点でこのチラシを見ると、まず最初に気づくのは、高杉弥太郎の名前が、表紙の座長クラスの下にそこそこ大きな文字で書かれていることです。並びは「大山二郎」「小東金哉」「東堂好郎」ですから、大高よし男はやはり駆け出しの若手やただの所属俳優ではなく、一定のキャリアを積んだ人たちと並ぶくらいの人気や実力があったものと考えられます(でも座長クラスではない)。


大山二郎や小東金哉、東堂好郎といった人たちのことを調べていけば、もしかしたら昭和15年より前の大高の足跡がわかるかもしれません。

ただ、上述の通り残念ながらいまのところ彼らの詳細もよくわかっておらず、このチラシが入手できたとて大きな進展とはならないのが現実です(どなたかわかる人がいたら教えてください)。


さて、チラシからもうひとつ気になるのは、「高田光太郎」という役者です。

このチラシには大江三郎の名前があるので、戦後の大高一座(暁第一劇団)との細いつながりが感じられるところではありますが、大高一座のポスターに書かれたメンバーとここに掲載された役者の名前にピタリと合致するものはありませんでした。


ただ、よく見てみると大高一座のポスターに「高田孝太郎」という名前があるのです。「孝太郎」と「光太郎」ですから、おそらく読み方は同じでしょう。これはもしかしたら同一人物なのかもしれません。おまけに芸名とはいえ姓が「高田」で、杉田劇場のオーナー・高田菊弥と同じ。このあたりにも関連があるのではないかと推測することもできます。

さらにはこの興行のお目見得、昭和16年の新春興行の記事の配役の中には「高田光彌」という名前も見られるのです。


1940(昭和15)年12月29日付神奈川県新聞より

もしかしたら、当初「高田光彌」だった名前を3月までの間に「高田光太郎」に変えたのかもしれません。

そんな視点で見ると

高田菊弥
高田光彌
高田光太郎
高田孝太郎

これらの名前が同一人物か、少なくとの何らかの関係があったと考えてもおかしくないように思えてきます。

本田靖春の『戦後 美空ひばりとその時代』(講談社, 1987)には

「高田(※菊弥)は若いころから芝居好きで、戦前は浅草松竹座に出入りして、役者の後援会長を引き受けたりしていた」(同書 49ページ)

とあります。

近江二郎は敷島座出演の後、不二洋子一座に加盟する形で、浅草松竹座にもしばしば出演していましたから、高田菊弥が近江二郎の後援会長というのもあり得ない話ではありません。もしかしたら、それ以前、昭和15〜16年の段階で高田菊弥が近江一座と何らかの関係を持っていた可能性もあるし、高田菊弥が籠寅との縁をつないだのかもしれない…なんていうのは少し妄想が過ぎるでしょうか。

杉田劇場のプロデューサーである鈴村義二と近江二郎は浅草時代から関係があったと考えられますし(こちら)、高田菊弥が鈴村を杉田に呼んだわけですから、高田=鈴村の関係も浅からぬものがあったはずです。

このあたり、三者の関係について、さらに突っ込んで調べてみれば、戦前の浅草と戦後横浜のつながりや、杉田劇場=近江二郎=大高よし男の関連が見えてくるのかもしれません。


そんなこんなで、入手の興奮もあって、いささか精査が足りていない感も否めませんが、ひとまず今回はここまで。



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(120) 町田市収蔵の旧杉田劇場資料

舘野太朗さんのX(旧Twitter)の投稿を通じて、町田市のデジタルミュージアムに旧杉田劇場の台本が掲載されている事実を教えていただいたので、思い切って所管課に連絡をしたところ、現物を閲覧する許可をいただくことができました。

(とはいえ、専門家でもないおっさんが一人で行っても不審がられそうなので、現杉田劇場で「いそご文化資源発掘隊」を担当しているSさんに同行してもらいました。深謝)


台本が保管されているのは、小田急線の鶴川駅からバスで10分ほどのところにある「三輪の森ビジターセンター」内、郷土資料展示室の収蔵庫です。

ちなみに「三輪の森」というのは町田市と横浜市・川崎市の市境にある里山の一角で、横浜市で言えば青葉区の「寺家ふるさと村」や「こどもの国」に隣接する地域です。


ビジターセンターはその里山散策の拠点(休憩地?)のようなもので、その中に郷土資料展示室があり、そこに民俗資料の収蔵庫もあるということのようです(なお収蔵資料の閲覧には事前申請が必要です)


デジタルミュージアムには、旧杉田劇場の台本が10冊、杉田劇場での市川門三郎一座のチラシ(パンフ?)が2つ掲載されていますが、実際にはデジタル化されていない台本もまだあって、一覧は「町田市立博物館所蔵・民俗資料目録」に掲載されています。

当日は、とても親切に対応してくださった学芸員の方が、未デジタル化のものも含めて杉田劇場に関わるものも用意しておいてくださいました。


そんなわけで、今回閲覧させていただいたのは以下の台本です(☆は未デジタル化のもの)。

平家女護島 島の俊寛
おその六三 恋の逢引
島田左近
絵本太閤記
怪猫伝 岡崎の猫
恋慕地獄 延命院日当
舞踊 忍逢恋事寄 将門
侠客春雨傘
常盤津竹本出語り 所作事 京人形
清水一角
☆め組の喧嘩
☆毛谷村六助
☆蝿坊主と木村長門守重成
☆二月堂良弁杉
☆十六夜清心 花街模様薊色縫

 

いずれも「杉田劇場」の記載やスタンプがあるもので、すべてにGHQの検閲印がありました。

台本に押された印には郵趣家の間で金魚鉢と呼ばれているらしいエンブレム型の検閲パス印のほか、「CCDJ-2036」「CCDJ-2037」「CCDJ-2039」「CCDJ-2040」のいずれかのスタンプもあって、当初、その意味はよくわかりませんでしたが、後日、こちらのサイトを参照させていただいたところ、どうやらこれは東京地区の検閲官の番号で(第三次配給分)、それぞれの番号に割り当てられた検閲官がいたということのようです。「2039」には「Sakamoto」と読める署名も付記されていたので、この番号の検閲官が「サカモト」という人だったことが推測されます(M.M.Sakamotoとも書かれているので、日系人なのかもしれません)。

その他、検閲の有効期限(上演可能期間?)を記したと思われる数字(日付)も見られましたが、詳細はよくわかりません。


さて、閲覧させていただいた台本のほんとどすべてに「尾上大助」の記名なり印があります。

デジタルではよくわかりませんでしたが、いくつかの台本では尾上大助の下に「新星暁座」と書かれてあって、それを修正するような形で尾上大助の名が上書きされていました。

この理由はよくわかりません。もしかしたら検閲は個人名で申請するもので、修正を指示されたということなのかもしれません(演劇博物館に保管されている九州地区のGHQ検閲台本をざっと見ても、申請者は個人名になっているようです)

中には「Shinsei Akatsukiza」とメモ書きされたものもあるので、尾上大助が杉田劇場で活動していた時期、専属劇団には「暁第一劇団」でも「暁劇団」でもなく「新星暁座」という名称が使われていたとも考えられます。ただ、その頃の広告にはそっけない「杉田専属劇団」としか書かれていないのです。

1949(昭和24)年1月13日付神奈川新聞より

検閲台本では「新星暁座」とあるのですから、「杉田専属劇団・新星暁座」という認識だったのかもしれません。

それ以前の、藤村正夫が参加していた頃の広告には「新生暁座」と書かれることがありました。「新星」なのか「新生」なのかははっきりしませんが、いずれにしても大高よし男生前からの「アカツキ」の名称は、かなり後年まで使われていたことがわかります。

1948(昭和23)年10月9日付神奈川新聞より


デジタルミュージアムの資料説明欄にもある通り、これらの台本は1949(昭和24)年のものが大半です。検閲官の番号からしても時期的には大きくズレていないと考えられます。しかし、この年の新聞広告に掲載された演目と合致しない作品も多いので、検閲は通したものの実際は上演しなかったり、後年に上演したものも含まれているのかもしれません(このあたりは再度調査が必要です)


台本の中身はすべて手書きで、薄い罫紙に書かれています(カーボンコピーのようにも見えました)。また検閲提出用ということなのでしょうか、書き込みは見られません(唯一『二月堂良弁杉』には包装紙の切れ端が挟まっていて、鉛筆書きのおそらく台本の修正部分か書抜きと思われるものが書かれていました)。

残念ながら台本を読んで内容を精査するほどの時間はなく、本文中にメモ書きなどがないかを確認するだけでしたが、じっくり読めばそれぞれの作品が大歌舞伎とどう異なっているか、演出的な違いがあるのかどうかなど、さらに詳しい情報が得られるのかもしれません(これもまた今後の宿題)


ところで、この台本の収集地は町田市の成瀬と記録されています。なぜ成瀬なのかがずっと疑問でしたが、学芸員の方に詳しく聞いてみると、成瀬を拠点に活動していた「大川一座」という劇団から寄贈されたものなのだそうで、台本のほかに一座の衣装や小道具なども収蔵されているとのことでした(大川一座については『成瀬 村の歴史とくらし』という本を紹介していただきました)

大川一座は成瀬の三ツ又という地域に住んでいた大川源治が始めた劇団で、近隣の村々にとどまらず、近県も含めたかなり広範なエリアで興行をしていたようです。源治はもともと草競馬をやっていた人でしたが

"「競馬なんかやんないで、芝居をやったらどうか」と人に勧められたことが契機だったそうである。源治氏の師匠は相模の市川花十郎だった"(『成瀬 村の歴史とくらし』365ページ)

とのことです(市川花十郎は現在の横浜市泉区を拠点に活躍した人です)

それがどうして横浜の杉田劇場とつながるのかはよくわかりません。おそらく杉田劇場で使っていた台本を譲り受けたというのが一番ありそうな可能性です。大川一座にはプロも出ていたそうなので、尾上大助あるいは杉田劇場に関わりのある別の役者が、何らかの縁で呼ばれていたのかもしれません(大川一座の調査をすればわかるかもしれません)。

また、ほぼすべての台本が「大橋繁夫脚色」となっていて、この人についてもよくわからないところですが、いくつかの台本では尾上大助の肩書きに「大橋家」と記載されているので(印になっているものもある)、もしかしたら尾上大助の本名が「大橋繁夫」なのかもしれません(このあたりも再調査が必要になりそうです)。


台本のほかに市川門三郎一座のチラシ(パンフ)2種も見せていただきました。これらはデジタルミュージアムにも掲載されていますが、画像は二つ折りになった表紙だけです。現物で情報の多い裏表紙・中面を拝見したところ、この興行の演目や配役がわかりました。それを後日、杉田劇場の番組一覧のデータと照合した結果、1947(昭和22)年7月と8月の興行のものであることが判明しました。

このうち7月興行は暁劇団と門三郎一座の合同公演で、チラシ中面の配役には「大江三郎」「高島小夜里」「大島ちどり」「高宮敏夫」「三木たかし」など、現杉田劇場に掲出してある大高一座のポスターに名前のある役者が確認でき、座長の没後も何人かは芝居を続けていたことがはっきりしました。

1947(昭和22)年7月5日付神奈川新聞より

※このチラシ(パンフ)の配役の中に「大川喜久男」という役者がいます。暁劇団の座員と思われますが、その名前からして大川一座の関係者とも考えられます。大川一座と杉田劇場がもともとつながりを持っていたと考えれば、いろいろなことが腑に落ちるのですが…これもまた詳細調査が必要です。


この年、8月の門三郎一座興行の後には葡萄座の公演が行われましたが(8月29日〜31日/真船豊「見知らぬ人」ほか:詳細は→こちら)、チラシにはこの公演の予告も記載されていたので、町田の里山で思いがけず懐かしい知り合いに会ったような不思議な気持ちにもなりました。


調べきれないほど収穫と宿題のあった初訪問ではありましたが、町田にこういう資料が収蔵されていたというのはあらためて大変な驚きです。町田にあるのですから、もしかしたら藤沢や横須賀、鎌倉など近隣の市町村にも未公開の資料の中に同様のものがあったりするのかもしれませんが、乏しいネットワークの中では知る由もありません。

僕の知る限り、旧杉田劇場の資料で公的に保管されているのは現杉田劇場にある元従業員・片山茂さん寄贈の11点と、今回拝見したものだけです。

現杉田劇場は指定管理者制度下で運営されていますから、仮に指定管理者が変わったら、あの資料の行く末がどうなるか、大変心許ないものがあります。

いっそのこと市史資料室や市歴史博物館や都市発展記念館あたりが引き受けてくれればいいのですが、なかなかそうもいかないのが現状のようです。今後のことを考えれば、あれだけのものを町田市が収蔵・保管してくれていることはまさしく天恵のようです。

町田市の資料について、まだ詳細な調査は進んでいないようです。大川一座の研究も含め、今後に期待するところです。

それにしても、ご対応くださった学芸員さんがとても親切で助かりました。いつでもまたきてください、とも言っていただいたので、この先、調査項目をしっかり整理するなど、準備万端にして、ぜひまた伺いたいと思います(できることなら1ヶ月くらいあそこに篭って調べたい)。


そんなこんなで、今回は町田市収蔵の杉田劇場資料の初調査についてでしたが、未消化のものも多いので、今後、もう少し整理して改めて報告したいと思います。

今回はひとまずこれにて。

関係各位、ありがとうございました。



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(119) 自由劇団の栄枯盛衰

戦前・戦中の調査に戻りつつあるところですが、目ぼしい成果が得られていないので、ひとまず戦後をもう一度。


杉田劇場では大高一座こと「暁第一劇団(暁劇団)」が専属として活動し、弘明寺の銀星座では「自由劇団」が専属だったことはこれまで何度も書いてきました。

また、自由劇団のメンバーには日吉良太郎一座の残党が多く、事実上の後継団体、つまりは「第二日吉劇団」のような存在だったのではないかと考えていることも繰り返し書いてきたことです。

自由劇団の名前が最初に登場するのは、1946(昭和21)年8月で(この時はまだ「横浜自由座」)、広告から名前が消えて事実上の活動停止になるのが、1950(昭和25)年7月下旬ですから、まるまる4年間、銀星座でほぼ休みなく公演を続けていたことになります。

(杉田劇場の暁劇団も同じような活動を目指していたのでしょうが、結果としては大高よし男の死で頓挫してしまった形です)

自由劇団の充実した活動の背景として、日吉劇が昭和13年から19年まで、横浜歌舞伎座で6年も連続興行をした経験が活かされたのだろうと思います。

杉田劇場がいささか迷走気味になったり、高根町のオペラ館がこれまた迷走気味な時期を経て(このことはいずれ書きます)、ストリップ劇場(横浜セントラル劇場)へと落ち着く(?)のに対し、自由劇団がブレることなく興行を続けていたのはやはり経験がものをいったのでしょうか。結果的にこの地域で専属劇団を持つ劇場は銀星座だけになっていくわけです。


そんな背景もあってか、1949(昭和24)年から1950(昭和25)年初頭にかけての自由劇団は、それこそ破竹の勢いを感じさせる活躍ぶりで、新聞の特集記事にもしばしば登場しますし、根城としている銀星座のほかに、杉田劇場や港映(のちの妙蓮寺劇場)でも公演するようにもなります。

1949(昭和24)年7月12日付神奈川新聞より

1950(昭和25)年1月17日付神奈川新聞より

上掲「港映」の広告が銀星座と並んでいることからも、またそのほかの映画演劇情報欄などを確認しても、その時期に銀星座が休場していたような形跡が見られないので、どうやら銀星座での興行は続けたまま、同時並行で別の劇場の公演をしていたようなのです。つまり、自由劇団には本隊以外に別働隊があったということで、座員数の多さなど劇団としての充実ぶり、隆盛がうかがえます。いまでいう劇団四季みたいなものでしょうか(違うか)。

(もっとも、移動できない距離ではないので、昼夜で劇場を替えたという可能性も否定できません)

以前も書きましたが(こちら)、これらのうち、昭和25年1月の杉田劇場での興行については、新聞広告(情報)だけでなく、緞帳を新調した際のものと伝わる写真に演目の記録が残っているのです。

杉田劇場緞帳と間辺典夫氏

矢印部分を拡大

1950(昭和25)年1月13日付神奈川新聞より

写真と新聞の情報欄の演目が一致しています。

「肉欲」は新派劇で「天保白浪」が剣劇、「日本晴れ」は喜劇だったようです。

杉田劇場の緞帳写真なのに、専属劇団ではなく自由劇団の公演時のものというのも皮肉な話ですが、杉田劇場の暁第一劇団にも、銀星座の自由劇団にも、日吉劇出身の役者がいたわけですから、劇場こそ違え、劇団員としてはどちらも同じ役者仲間という意識だったのではないかと思います(もしかしたら専属劇団にいた人もこの時の自由劇団の舞台に出ていたのかもしれません)。


そんな具合で、市内とはいえ巡業できるほどの隆盛を誇った自由劇団も、1950(昭和25)年7月いっぱいで新聞広告がなくなり、どうやらこの時期に活動を停止したと思われます。急転直下のジェットコースター的展開に、むしろこっちの方が驚くくらいですが、これもまた盛者必衰のことわりとでもいうのでしょうか。

しかし、ここにはおそらく自由劇団の「母体」とも言っていい、日吉劇の座長・日吉良太郎の死が何らかの影響をしていると僕は考えています。

日吉良太郎の亡くなった日については諸説あって、昭和25年という資料もあれば、昭和26年という話もあります。一番具体的なのは、たびたび引用する小柴俊雄『ヨコハマ演劇百四十年』で、ここには1951(昭和26)年8月29日没、とかなり明確な日付が記載されています。

小柴俊雄『ヨコハマ演劇百四十年』巻末年表より

いまのところこの日付を裏付ける資料を見つけることができていないので、もう一度精査する必要はありますが、いずれにしても昭和25〜26年頃に亡くなったのは間違いなさそうで、そのことが自由劇団の活動終了に影響したと考えるのもまた大きく間違っていないとは思います。

自由劇団の連続興行が終了した銀星座は、その後、しばらく新聞紙上からその名が消えてしまいますが、11月18日の市川門三郎一座の広告を皮切りに、剣劇、女剣劇、歌舞伎(小芝居)などの情報が断続的に新聞紙上で見られるようになり、どうやら、杉田劇場と同様、さまざまな劇団が入れ替わり立ち替わり登場する「貸し小屋」のような形になったものと考えられます。


ところで、この時期の杉田劇場について、これまではほぼ活動停止状態と言われてきましたが、実際はポツポツと思い出したように新聞広告が掲載され、その内容を見るに、おそらく広告が出ていないだけで、さまざまな興行は続いていたものと思われます。

昭和25年8月には杉田劇場の庭を使ったヌード撮影会(!)も行われます。

1950(昭和25)年8月8日付神奈川新聞より

この広告より前、8月4日付の新聞には撮影会についての記事も出ていて、そこには

「杉田劇場出演の大泉撮影所アーティストグループ丘寵児一座のニューフェイスが特にモデルになって参加」

と書かれているので、この時、杉田劇場では丘寵児一座の公演があったようなのです(広告はないけど)。

また唯一残る杉田劇場の正面からの写真は、現物を複写して拡大したところ「若月昇劇団」が来演した時のものと判明しています。

旧杉田劇場(杉田劇場所蔵)


まねき看板を拡大:「若月昇」と読める

しかしながら、この劇団については、昭和25年いっぱいまでの新聞広告には、その名がまったく見つかっていないことから、写真はそれ以降のものだと思われるのです(「若月昇」については詳細がまったくわかりません。どなたかわかる人がいらっしゃいましたら教えてください)。

このように、経営状況は別として、昭和26年以降も劇場の運営は定期的に続いていたと考えていいと思います(正月やお盆の時期には市川門三郎一座の広告が出ます)。

そもそも、上掲、緞帳新調時の写真とされるものが、本当に新調時のものであるならば、斜陽で閉場が近い劇場が緞帳を新調したとは考えにくく、やはりしばらくは劇場としての運営は続いていたと言えそうです。

これまで杉田劇場の方が先に閉場し、銀星座がその数年後に閉場というのが通説のようなものとされてきましたが、両劇場の閉場は、ほぼ同じ時期(昭和25年以降、おそらく27年頃)ではないかと推測されるところです。


近江二郎が昭和24年5月29日に亡くなり、日吉良太郎も遅くとも昭和26年には他界します。戦前の横浜の大衆演劇を支えた両座長の死に連動するかのように、杉田劇場と銀星座もなくなるわけで、この時期に明治から続いた横浜の新派〜剣劇〜大衆演劇の流れにピリオドが打たれたと言ったら、少し言い過ぎでしょうか。


そんなこんなで、今回は銀星座の自由劇団について、劇団の栄枯盛衰と劇場の命運について考えてみました。


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(118) 近江二郎と野島左喜子

歌舞伎学会に参加して、唯一「ホーム」と感じられたのが、当日配布された資料の中に「近江二郎一座」の文字を発見した瞬間でした(「近江一郎」と誤植になっていたけど)。

これは、女役者について報告された土田牧子さんの資料の中にあったもので、坂東音芽の略歴に

「看板女優として新派の近江一郎(※二郎)一座と渡米(昭和五〜六年)」

と記されています。

そんなわけで、今回もまた門外漢ながら、近江二郎と坂東音芽(野島左喜子)について、少しだけ調べてみました。


坂東音芽の経歴については同じ日に配布された『越境する歌舞伎』の著者、浅野久枝さんによる資料の中にもあるとおり、石川県立博物館の広報誌『石川れきはく』No.137(2022.2.24号)に掲載されている「研究ノート『金沢歌舞伎最後の女役者』」(大井理恵)が一番詳細でまとまったものだと思います。

ものすごくざっくりと要約すれば、音芽は金沢(横浜のではなく石川県の)で歌舞伎の舞台に立ってから、東京に出て女役者として活躍したほか、新派の女優として横浜喜楽座の舞台などにも立ち、関東大震災後、郷里に戻って、芝居やレビュー(粟ヶ崎遊園)の舞台で活躍。その後は素人芝居の指導などをした人だそうです。


で、横浜に関係する記述を上掲の論文から引用すると

"音芽には新派女優として自身の幅を広げる意図もあったようで、ここ(註:神田劇場)では新派劇に出演している。しかしまもなく横浜喜楽座に移ると、以後大正12年(1923)まで新派女優として活動した。音芽の横浜時代は華やかだったというが、情報が乏しく、当時の役柄などは分らない"

とあります。

となると、近江二郎と坂東音芽(野島左喜子)の接点は横浜の喜楽座だと断言してもよさそうです。

以前も書いたように(→こちら)、近江二郎は大正9年の2月興行から喜楽座に「新加入」し、大正12年2月まで喜楽座に所属していましたから、坂東音芽(野島左喜子)と同時期に喜楽座で活動していたわけです。

1920(大正9)年1月30日付横浜貿易新報より


実際、田中栄三『明治大正新劇史資料』(演劇出版社,1964)に掲載されている喜楽座『お艶新助』の配役一覧には、近江二郎(次郎)と坂東音芽が共演していることが記録されています。

『明治大正新劇史資料』(147ページ)より

時期が重なりますから、当然、これ以外の舞台でも共演していたはずです。近江二郎は明治26年生まれで、坂東音芽は明治32年頃の生まれ。年齢も近く、同じ喜楽座の新派の役者仲間として親しい関係だったと推測してもおかしくはありません。

*   *   *   *   *

(その後の調査で、坂東音芽は近江二郎より半年以上も早く、1919(大正8)年6月20日の興行から喜楽座に参加していたことがわかりました。

1919(大正8)年6月20日付横浜貿易新報より

この広告の前日、6月19日付の紙面では「演藝だより」欄に

"二十日よりの同座には新に澤村金十郎、永井信哉、阪井保並に神田劇場より坂東音芽といふ女優加入"

との記載もあります。

「演藝だより」には各興行の主な配役も継続的に掲載されているので、横浜貿易新報を丹念にみていけば、喜楽座での坂東音芽の活動の概要がわかりそうです。

この頃の喜楽座では子供芝居(いわゆる"ちんこ芝居"?)、旧劇(歌舞伎)と新派を3本立てか4本立てで上演することが多かったようです。喜楽座の音芽は「新派女優として活動した」とされていますが、実際は主に歌舞伎に出ていた印象です)

*   *   *   *   *

上掲『石川れきはく』によれば、音芽は関東大震災を機に帰郷し、地元に新たにできた能登劇場などに出演しつつ、

"昭和3年(1928)頃から、野島左喜子を名乗り粟ヶ崎遊園の大衆座に出演"

していたのだそうです。

坂東音芽から改名した「野島左喜子」が近江二郎一座に参加したのは1930(昭和5)年のことですから、ちょうど大衆座に出演していた時期だと考えられます。郷里を離れてまで近江一座に参加する理由はどこにあったのか、いささかの謎が残るところですが(アメリカに行ってみたかったということなのかしらん?)、理由はともあれ近江一座に帯同して渡米することとなります。


一座がアメリカに向けて日本郵船の秩父丸で横浜を発つのは昭和5年10月17日。サンフランシスコに着くのが10月30日です。

ですが、出発のほぼひと月前の同年9月、横浜平沼の由村座で近江一座が壮行公演のような興行を1ヶ月間行っていますから(9月1日〜28日)、ここには野島左喜子も出演していたと考えるのが妥当で、9月には横浜に来ていたと考えられます。

1930(昭和5)年9月26日付横浜貿易新報より

近江二郎、野島左喜子(坂東音芽)とも喜楽座を去ってからすでに7年も経っている上に、かたや郷里の金沢に根を下ろして活動し、かたや浅草や京都、名古屋などを巡業している身ですから、両名の接点がどこにあったのか、さっぱりわかりません。またアメリカ巡業に同行するに至る経緯もまったく不明です。

妄想まじりの可能性としては、近江一座の金沢興行があって、そこで再会、なんていうのがもっとも確からしい推測ですが、いまのところそうした事実確認はできていません(そもそも近江一座は金沢で公演したのだろうか?)


さて、アメリカへの出発前日、横浜の新聞には社を訪れたという近江一座(女優たち)の写真が掲載されます。

その説明文の中に「野島咲子」の名前がありますが、これは左喜子で間違いなさそうです。ただ、写真が不鮮明な上に、順番がわからないので、残念ながらどれが野島左喜子なのかははっきりしません(たぶん左端じゃないかな?)

1930(昭和5)年10月17日付横浜貿易新報より


(まったくの余談ですが、10月17日は喜楽座が映画館として改装オープンした日で、近江一座の上はその喜楽座の写真です)

一方、アメリカ側の邦字新聞『日米』に掲載された秩父丸の船客名簿には、横浜から乗船した客の中に彼女の本名である「島崎きくの」の名前も見ることができます(三面)。また同じ面の記事中には一座の俳優名が載っていて、野島左喜子の名前を確認することもできます(→こちら

さらには、同じ『日米』10月26日付紙面には近江二郎一座の広告が半面いっぱいの大きさで掲載されてますが、ここには野島左喜子の写真も掲載されているのです(→こちら

ただ、ここで気になるのは「小松乙女」とキャプションのついた写真です。この記事を閲覧した当初から、一座の役者に「小松乙女」の名前がなく、ずっと不思議に思っていましたが、「乙女」と「音芽」の近似から調べてみたところ、『七尾町旧話』という本の中に、以下の記述があることを知りました。

"(音芽は)粟ヶ崎遊園に出たり、酒井淳之助一座に入って亜米利加・満洲・朝鮮・九州と旅廻りに出た所属劇団によって、野島左喜子・小松乙女と名のっていた"(『七尾町旧話』248ページ

となると、広告のキャプションには誤りがあって、どちらかの写真が野島左喜子(小松乙女)で、もう一方は別人という可能性が高くなります。はっきりはしませんが『石川れきはく』に載っている写真からすると、近江一座の広告で「小松乙女」とされている方が近いようにも思いますが、よくわかりません(どなたかわかる人がいたら教えてください)。

(酒井淳之助一座は近江二郎一座の誤りだと思うけど、酒井淳之助のところにもいたのだろうか?)


アメリカでの近江一座の公演はとても好評だったそうで、その前に渡米していた遠山満一座を超える人気だったとも言われています。

そのために期間が延長されたのかどうかはわかりませんが、西海岸での巡業は年を跨いで翌1931(昭和6)年2月いっぱいまで続き、さらに一行はハワイに渡って、4ヶ月にわたる巡業をするわけで、結局、近江一座のアメリカ巡業は1930年11月から1931年6月いっぱいまで、7ヶ月にも及ぶものになりました(行き帰りの移動を含めると都合8ヶ月)

『越境する歌舞伎』にも言及がありますが、戦前に海外巡業するバイタリティーには驚かされますし、その数の多さと期間の長さにもあらためて目を見張るものがあります。

ただ、古い新聞を見ていると「小笠原巡業」などという言葉も出てくるし、満州巡業もそんなに珍しいものでもなかったようなので、そもそも巡業が当たり前のような劇団にとっては、ハワイも西海岸も国内巡業の延長線上だったのかもしれません。


さて、近江一座のアメリカ興行については邦字新聞に頻繁に記事が掲載されますが、劇評という性格の記事はそれほど多くありません。調べた中では唯一、3月16日付、ハワイの『日布時事』に前日の公演について比較的長文の評が出ています。

演目は「悪剣村正」と「金色夜叉」の2本立て。野島左喜子の配役は「悪剣村正」では銀造女房お瀧、「金色夜叉」では赤樫満枝。その演技について

"お宮(深山百合子)は一座のピカ一女優だけ容姿もよく藝も流石に甘い(うまい)、赤樫満枝に扮した野島左喜子のハツキリした䑓詞、こなれた藝風が目立つた"
(『日布時事』1931(昭和6)年3月16日付・三面)

と評されています。

勝手な推測で、近江一座に野島左喜子が参加した理由は、女役者の経験を買われて、アメリカ受けを狙った歌舞伎(や歌舞伎風の芝居)を上演するためなのかなと思っていましたが、こうした劇評を見ると、やはり新派の女優としての役割を期待されていたのだろうし、その期待に応える舞台をつとめていたことがわかります(そもそも近江一座の演目からして新派・剣劇がメインだし)


1931(昭和6)年7月6日、近江一座一行は横浜に帰ってきます。翌日の新聞には凱旋将軍のような誇らしげな近江二郎の写真が掲載されますし(1931(昭和5)年7月7日付横浜貿易新報)、『日布時事』には近江二郎からのお礼状が掲載されたりもします(1931年8月1日付・四面)

その後、一座は浅草などで帰朝公演のようなものをやっていますが、そこに野島左喜子が参加していた記録は見つかっていません。さらには帰国から一年後、近江一座は「グロテスク劇場」と銘打った興行で評判になりますが、そこにも野島左喜子の名前はみられません。

どうやら彼女はアメリカから帰国後、すぐに金沢に戻ったと考えられそうです。渡米の前年(昭和4年)に粟ヶ崎遊園は火事に見舞われ、再建したばかりでしたから、郷里の劇場が気がかりだったのかもしれません。

またまた余談のようですが、アメリカ巡業の役者一覧にある「戸田史郎」は本名を「近江資朗」といい、近江二郎の実弟です。また春日早苗という人は本名(旧姓)井口九女子で、のちに近江資朗と結婚します。

その夫妻の娘にあたる方から話を聞いた際、一座のメンバーはアメリカでチャップリンの家を訪問したり(トイレの床が水槽になっていて金魚が泳いでいたとか)、撮影所見学などもしていたらしいので、アメリカのエンターテイメント業界にダイレクトに接する機会も多かったのではないかと推測できます。

そんなアメリカでの経験が野島左喜子(坂東音芽)の芸にどんな影響を与えたのかというのは興味深いところではありますが、私の調査範疇からは大きくはみ出すことで、どなたかが詳しく調査研究してくれないかしらん、とひそかに期待しています。


そんなこんなで、今回は近江二郎と野島左喜子(坂東音芽)の関係について少し調べてみました。

大高よし男とはあまり縁がない話ですが、関東大震災後の横浜の演劇を考える上では、これまでスルー気味にしていた喜楽座についても、もう少し調べてみた方がいいのかもしれません(思いもかけないところから大高との関係が出てくるかもしれないし…)。

(とはいえ、さすがに付け焼き刃のネタも尽きてきましたので、たぶん次回はまた別の話…)


追記:
さらに追加で調べて、坂東音芽が神田劇場に移ったのが1918(大正7)年7月1日の興行からだとわかりました(同年7月1日付「都新聞」より)。金沢から赤坂演伎座に来た時期は大正7年だそうですが、上京時に頼った坂東彦十郎が大正7年6月9日に亡くなっていますから、年初から上京していたとしても半年あまりで演伎座を去ったことになります。『石川れきはく』の記述は『七尾町旧話』をもとにしているように思えますが、そこでは彦十郎が亡くなり、翌年に息子の竹三郎も亡くなった(大正8年2月18日)ため後ろ盾を失って神田劇場に移ったように書かれています。ところが実際は彦十郎が亡くなって1ヶ月もしないうちに神田劇場に移り、そこで1年を過ごしてから横浜喜楽座に移ったようです。喜楽座には丸4年いて、郷里に戻った理由が関東大震災というのですから、震災がなければ横浜に居続けた可能性もあります。音芽には横浜の水があっていたのかもしれませんね。
ちなみに、音芽が神田劇場の舞台に立っていた頃、近江二郎は本郷座の舞台に立っていました。近江二郎が本郷座に来た時期は今後精査しますが、坂東音芽と近江二郎の動きは重なるところが多いように思います(喜楽座に来るまでの近江二郎の動きがわかれば、彼の生涯が大まかではあるものの判明しそうです)。



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