(107) 『今昔十二ヶ月』と近江二郎

暁劇団が素っ気ない名前の「杉田専属劇団」になった頃、昭和24年3月、劇団名や役者の名前なしに、演目だけが書かれた異色の新聞広告が出ます。

その前後にはそれまでと同じスタイルの広告が出ているので、これは単にスペースの問題で、同じ劇団つまり劇団新歌舞伎と杉田専属劇団の合同公演のものだと考えていいでしょう。

ここに記されているのは「名作アルバム 今昔十二ヵ月」という演目です。

昭和24年3月15日神奈川新聞より

1月から12月まで、各月にちなんだ名作舞台作品のさわりを連続上演するというプログラムで、「幕間ナシ 三時間半」とあることから、1作品およそ15分強を12本並べた形だったと思われます。

実はこの演目名、ちょっと珍しいので、見覚えがありました。

資料をひっくり返してみると、昭和17年7月に浅草の松竹座で上演された不二洋子一座の演目がこれと同じなのです(こちらは「名狂言抜粋 今昔十二月」となっていますが)。不二洋子一座の公演資料(新聞広告)をチェックしていたのは、そこに近江二郎が加盟出演していたからです。

昭和17年7月7日付都新聞より

大高一座(暁第一劇団)の支配人・大江三郎が、もともと近江二郎一座の文芸部員であったことは何度か書きました。上掲広告の、不二洋子一座の興行にも大江三郎がいたことは、ほぼ間違いないと思います。『今昔十二月』は二の替りで上演されたもので、その前、七月の御目見得興行では大江三郎の作品(『母子鳥』)も上演されています。ですから、不二洋子一座の七月興行には近江一座の文芸部員として大江三郎がいて、もちろん『今昔』の時もいたはずなのです。

そんなことからも、戦後、杉田専属劇団がこの作品を上演したのは、大江三郎の発案だったのかもしれません。鈴村義二が提案した可能性もありますが、大江三郎の方がこの作品のより近いところにいたわけですから。いずれにしても、戦前の浅草の不二洋子一座の演目が、終戦を挟んで杉田劇場に登場したのが、昭和24年3月の興行なのです。


杉田劇場での『今昔十二ヶ月』の演目は以下の通りです。

1月 『三河万才』
2月 『三人吉三』
3月 『恋の皿屋敷』
4月 『金比羅代参』
5月 『不如帰』
6月 『白浪五人男』
7月 『白虎隊』
8月 『忠治赤城の月』
9月 『■小袖』(晴小袖か?)
10月 『鈴ヶ森』
11月 『秋の踊り』
12月 『清水一角』


一方、戦前の不二洋子一座の方では

1月 所作事『羽根の禿』
2月 湯島の梅『婦系図』
3月 尊王櫻『児島高徳』
4月 不如帰『逗子の海岸』
5月 富士の五月雨『曽我兄弟』
6月 乱舞の牡丹『連獅子』
7月 ■原の夏『乃木将軍』
8月 月の五條橋『辨慶と牛若丸』
9月 悲愴飯盛山『白虎隊』
10月 赤城の紅葉『國定忠治』
11月 青柳硯『小野道風』
12月 雪の曙『清水一角』

重なる演目は『不如帰』『白虎隊』『国定忠治』『清水一角』の4本。さすがに、まったく同じものはできなかったのでしょう。座組の関係はもちろん、版権への配慮などもあったのかもしれません。

杉田劇場の広告には、不二洋子一座にあった「秋元六通 構成脚色」の文言がありません。月毎に名作のさわりを上演するというアイデアだけをもらって、中身は大江三郎が構成したということなのでしょうか。

余談ではありますが、この秋元六通という人、調べてみたら、不二洋子一座の文芸部員・高梨康之のペンネームという記録が出てきました(『著作権者名簿』昭和42年度版, p.391)。ということは、この作品は不二洋子一座のオリジナル作品と言っていいのでしょう。いずれにしても大江三郎にとっては戦前の浅草の、思い出の作品だったと思われます。


ところで、少し前に近江二郎の実弟・近江資朗のご家族からお話を聞いた際、保管されていた写真をお借りしたことがありました。すべてデータ化させてもらいましたが、その中にいくつかの舞台写真があったのです。

それがなんの舞台なのか、わからないものも多くありましたが、今回の調査の中で、改めてその写真を見返してみたら、舞台写真の大半が不二洋子一座の『今昔十二月』のものだとわかりました。

当時の新聞に載った劇評や配役表と写真を対比すると、さらにいろいろなことがわかってきます。

配役一覧:1942(昭和17)年7月10日付都新聞より


というわけで、近江資朗旧蔵写真から。

まず最初に一番わかりやすいのはこれでしょう。


いうまでもなく、10月の『國定忠治』の舞台写真です。

配役を見ると忠治は田中介二。後掲の劇評にも"田中介二の国定忠治の「赤城の山も今宵限り」は余りに気張りすぎて、これは見る方が面映ゆい位"と書かれていましたから、ここに写っている忠治は田中介二で間違いないでしょう。評の通りかなり気合の入った様子が見て取れます。


次にわかりやすいのはこれです。


8月の『辨慶と牛若丸』。これも配役を見ると、弁慶が不二洋子で牛若丸が不二時子。姉妹共演の舞台写真です。


これも比較的わかりやすいもので


4月の『不如帰』です。配役は川島武男が田谷耕一、浪子が中村扇子。


続いてわかりやすいのは

11月の『小野道風』です(『小野道風青柳硯』)。小野道風は濱原義明。


つづいてこちらは


5月の『曽我兄弟』。五郎が澤井五郎、十郎が大島伸也とあります。


この先はちょっとわかりにくいところです。


舞台装置などからして7月の『乃木将軍』だと思われますが、不勉強ではっきりはわかりません。配役を見ると乃木将軍は近江二郎。


そしてこれは、広告で「乱舞の牡丹『連獅子』」とあるものだと思われますが(背景幕も牡丹)、どうも連獅子のようには見えません。劇評を読んでみると、そちらには「勢獅子」と書かれていて、ようやく腑に落ちました。

中央、獅子頭を持っている鳶頭が不二洋子、その左が河村陽子。

と、以上が近江資朗旧蔵写真のうち、不二洋子一座の『今昔十二月』と思われる舞台写真です。


さて、この『今昔十二月』公演については、都新聞に写真入りで比較的長い劇評が掲載されています。

1942(昭和17)年7月16日付都新聞より

実は上掲の五條橋(弁慶と牛若丸)の写真は、新聞の劇評の中に掲載されている写真とまったく同じなのです(対比してみました)。やはりここに挙げた写真は『今昔十二ヵ月』の舞台写真で間違いなさそうです。

左:都新聞/右:近江資朗旧蔵写真

新聞社が撮って劇団員に焼き増ししたのか、劇団側が撮って新聞社に提供したのか。あるいはブロマイドや絵葉書として販売していたものなのか。いずれにしても近江資朗家に長く保管されていた当時の貴重な舞台写真です。


さて、この劇評にはこれらがどんな上演だったのか書かれています。

"歌舞伎、新派、舞踊等の一般に馴染深い場面を月々に因んで並べたもので、要はレビューのヴァラエテイみたいなものだが、ヴァラエテイにしてはそのツナギが暗輾の一點張りの上に、終始変らぬ黒バックに、切出しを押出しての舞薹構成"

だったそうで、

"気が変らず、せめて時には廻舞薹くらい使って、気の利いた輾換ができなかつたかと思ふ"

となかなか手厳しいものの、舞台の様子はよくわかります。大黒幕に書き割りなどのシンプルな舞台装置を出し入れして、舞台転換をしていたようです。

杉田劇場でも同じようなスタイルで上演していたのかもしれませんね。


ところで、これらの写真が一部変色しているのは、昭和30年代に近江資朗の井土ヶ谷の家が火事になった際に焦げてしまったものだそうで、それでもよく残してくださったのはありがたい限り。実はまだほかにも何枚かあったらしいのですが、『四谷怪談』などはあまりにも気味が悪くて処分してしまったのだとか。おそらく近江二郎一座の「グロテスク劇場」時代のものでしょうから、ちょっと惜しい気はします。

とはいえ、これだけの写真が残っていると、これまで確認できていなかった役者たちの姿もよくわかって、当時の舞台が一層身近に感じられるところです。


そんなこんなで、今回は戦後、杉田劇場で上演された『今昔十二ヵ月』から、戦前の不二洋子一座の舞台につながるエピソードでした。

→つづく
(次回は5/2更新予定)
前の投稿



「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(106) 杉田専属劇団

前回書いたように、大高よし男の三回忌追善興行ののち、暁第一劇団(暁劇団)は藤村正夫を迎えて再出発します。昭和23年の年末には杉田劇場に引き続いて、横浜オペラ館でも公演するなど、藤村との蜜月というか、劇団運営の順調ぶりが感じられます。

ところが、翌年、昭和24年に入ると突然、広告から藤村の名前が消えてしまうのです。

何があったのかはわかりませんが、何かあったことは容易に想像できます。

藤村正夫の名前が消えると同時に「暁劇団」「暁第一劇団」「暁座」の名称も姿を消します。その代わりに登場したのが

「杉田専属劇団」

という味も素っ気もない劇団名です。

1949(昭和24)年1月13日付神奈川新聞より

新聞広告しか手がかりのないものですから、これがどんな劇団なのかさっぱりわからないのですが、もともと大高一座(暁第一劇団)が杉田劇場専属の劇団であったことからすると、その流れだろうことは容易に推測できます。


一方で、前年、杉田劇場に「同生座」の名前で華々しく登場した「鳩川すみ子・朝川浩成」のコンビは、これまた華々しく銀星座に登場します。もともと日吉良太郎一座にいた二人ですから、これでめでたく古巣に戻ったということになるのでしょうか。

1949(昭和24)年1月18日付神奈川新聞より

逆にこの時期を境に、かつて杉田の暁第一劇団から銀星座の自由劇団に移った「壽山司郎」の名前が、自由劇団の広告の連名から消えてしまうのです(12月22日から鳩川・浅川が自由劇団に参加するという広告の後、壽山の名前が消える)。

いったい何があったのだろう…

1948(昭和23)年12月14日付神奈川新聞より
この広告まで座員連名の中に「壽山」の名前がある

広告を追うだけでも離合集散の劇団事情が垣間見えるようです(もしかしたら壽山は杉田専属劇団に復帰したのかもしれない)。


さて、上掲のように杉田専属劇団が初登場するのは「劇団新歌舞伎」という劇団との合同公演です。「劇団新歌舞伎」はメンバーからして、おそらく戦前の横浜歌舞伎座の更生劇や金美劇場の「新進座」の流れと考えていいと思います。開館当初の銀星座にもほぼ同じメンバーが「御當地おなじみ 新歌舞伎」として出演しています。

1946(昭和21)年6月12日付神奈川新聞より

大高亡き後の杉田劇場はさまざまな手を打ちますが、歌舞伎だけではダメ、暁劇団の再生も不調、という経験を重ねた結果、歌舞伎と剣劇・新派を組み合わせた番組で勝負しようと考えたのかもしれません。いずれにしても、このあと、しばらくは歌舞伎と専属劇団の合同公演でプログラムが組まれていきます。


杉田専属劇団と劇団新歌舞伎の合同公演は、2月に入ると広告にも惹句が増えて情報量が多くなります。

そしてその中に

「高島小夜里」

という名前が登場します。

1949(昭和24)年2月8日付神奈川新聞より

見覚えのあるこの名前、実は大高一座のポスターの中に出てくる役者の名前と同じなのです。

所蔵:杉田劇場

所蔵:杉田劇場

高島小夜里は大高一座の座員だったわけですから、「杉田専属劇団」はやはり暁第一劇団の残党による団体と考えてよさそうです。

大高の後継者として、さまざまな座長候補をトップに据えて再起を図りますが、いずれもうまくいかず、最終的には自分たちだけでやっていこうと思ったのかもしれません。人気のあった座長の後釜に入るのはなかなか難しかったのかな、なんていう想像も働きます。

(追記:その後、よく見たら広告の「晴小袖」の惹句には「燕之丞尾崎梅川高島」とあります。燕之丞は「片岡燕之丞」で、梅川が不明なものの、「尾崎」はポスターにある「尾崎幸郎」、「高島」は「高島小夜里」でしょう。梅川も「藤川(麗子)」の誤植かもしれません)


2月下旬になると、広告から「杉田専属劇団」の名前が消えてしまいますが、演目からして歌舞伎の一座がやったとは考えにくいものもあることから、広告には記載しないものの、やはり合同公演の形は継続していたと思われます。

1949(昭和24)年2月26日付神奈川新聞より

そしてこの「杉田専属劇団」は4月下旬になると突然「港劇団」という名前を付け加えるようになります。

1949(昭和24)年4月22日付神奈川新聞より

最初これは「暁劇団」の誤植ではないかと思っていましたが、その後、日をおいて何度も登場することから、間違いとは考えにくく、この時期、大高一座はとうとう「暁」の名前を捨て、新しい名前のもと、再スタートを切ったと考えてもよさそうです。

ここまでの流れを見ると、三回忌を機に、さまざまなやり方で大高の影響からは決別して、独り立ちしようという劇団の決意みたいなものも感じるところです。


ところで、杉田劇場は昭和23年8月に株券を発行して資金集めをはかっていることや、片山さんの証言などからも、この頃には劇場が経営不振に陥っていた、というのがこれまでの定説でしたが、新聞広告から一年を通じての番組をデータ化してみたところ、昭和23年はほとんど休みなく公演が入っていることがわかりました。

1948(昭和23)年の杉田劇場スケジュール(抄)

とても経営不振には見えないし、賑わいが失われたようにも見えません。個々の興行の入りがどうだったかはわかりませんが、少なくとも劇場は連日オープンしていて、ほぼ毎日なんらかの公演が行われていたことは間違いありません。

昭和23年には、一時的にエロに傾斜して「りべらるショウ」などを上演したり、集客が見込まれる映画も何度か開催されていますが、年間を通じたプログラムを眺めると、やはり歌舞伎や剣劇などの興行が圧倒的に多く、年の後半になるとエロもほとんど消え、完全に実演劇場として経営していたことがわかります。

今後の調査によりますが、杉田劇場の経営難が表立ってわかるようになるのは、昭和24年以降なのではないかと思われます。


杉田劇場に限らず、近隣の劇場も名前を変えたり、プログラムを工夫したり、試行錯誤している時期ですから、苦境は杉田に限ったことではなく、むしろ先行していた上に、市のはずれという立地ながら、杉田劇場は健闘していた方なんじゃないかとさえ思えるところです。



「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(105) 藤村正夫と新生暁劇団

昭和23年9月に大高よし男三回忌追善興行を終えた暁第一劇団は、その後、精力的に活動を再開します。三回忌追善に特別出演した藤村正夫を迎えて「新生暁座」の名前で次々と公演を打っているのです。

杉田劇場では

10月6日〜27日
11月22日〜12月13日

が「藤村正夫外三十数名」の「新生暁座」の公演日程で、それまで歌舞伎の市川門三郎一座や大衆演劇の市川雀之助一座に頼りきっていた杉田劇場に、ふたたび暁第一劇団の灯がともったような印象を受けます。

ちなみに10月9日からの興行では『涙雨五千両』が上演されます。

1948(昭和23)年10月9日付神奈川新聞より

これは現杉田劇場に残されているポスターにも載っている演目で、大高一座の得意なレパートリーのひとつだったのかもしれません。

所蔵:杉田劇場


以前も書いたように、藤村正夫はもともと日吉良太郎一座にいた人で、昭和11年にいろいろあって独立し、自分の一座を由村座で旗揚げしますが、どうやらその後は日吉劇時代ほどの人気にはならなかったようです。

とはいえ、初代大江美智子が倒れた時(昭和14年1月)には一座に参加していたようですし、役者としてはやはり特筆すべき人気と実力を兼ね備えていたのでしょう、銀星座の自由劇団(この時は「自由座」)の旗揚げ公演(事実上、戦後の日吉劇団の再出発と考えていいと思う)にも特別出演の形で出ています。

1946(昭和21)年8月15日付神奈川新聞より

そんな藤村がどういう経緯で大高の三回忌追善興行に出演し、その後の暁劇団を事実上率いるようになったのかは不明ですが、元・日吉劇の鳩川すみ子と朝川浩成による劇団が杉田劇場で公演していることからも(詳細はこちら)、銀星座と杉田劇場、あるいは鈴村義二と日吉良太郎の間にはなんらかの関わりがあり、その中でこういった流れになったのかもしれません。


11月1日からは「中村喜昇一座」が杉田劇場に出演しますが、中村喜昇といえば日吉劇にも「少年歌舞伎」の一座として出演していた人ですから、このあたりにも杉田劇場における日吉劇の影響が垣間見られます(杉田劇場に出た時には「青年歌舞伎」になっているのが面白い)。

1944(昭和19)年2月24日付神奈川新聞より

1948(昭和23)年11月2日付神奈川新聞より

〜余談〜

尾上芙雀の話によると、大高一座には日吉劇の子役たちがいたとあるので、中村喜昇も戦後は名前を変えて一座に参加していたのが、ここで元の名前に戻り一座を復活させたという可能性も否定できません(調べてみると映画『明治一代女』(1955)の劇中劇出演者に中村喜昇の名前がある)。

閑話休題

いずれにしても、三回忌追善興行以降、暁第一劇団は藤村正夫を事実上の座長として、再出発を図ったようです(この時期は「新生暁座」となっている)。

新生暁第一劇団の活動は、杉田劇場にとどまらず、南区高根町の横浜オペラ館(元「オリエンタル劇場」)にも広がっています。11月13日から17日までのスケジュールで興行が行われているのです。

上述の2つの期間の合間に、別の劇場にも出るほどですから、活動が充実していた印象を受けます。さらには驚くことに、この広告にあの「大江三郎」の名前が出てくるのです。

1948(昭和23)年11月13日付神奈川新聞より

いうまでもなく大江三郎は大高一座の支配人で、近江二郎一座でも作・演出などを担当した文芸部員です。大高調査における最重要人物のひとりとも言っていいでしょう。

おそらく大高亡き後、大江三郎の名前が新聞紙面などに出るのはこれが初めてではないでしょうか。座長の没後も活動を続けていたことがわかりましたし、このことからも藤村正夫率いる新生暁劇団が、大高一座の残党によって成り立っていたことがわかります。

なお、この広告では「藤村正夫と新生劇團 第一回公演」となっていますが、大江三郎がいることからしても、またスケジュール的にも、この新生劇団は杉田劇場の新生暁座と同じものと考えていいと思います。

その後、11月下旬からの興行では、広告でも「藤村正夫」が前面に出て、新生暁劇団はさながら「藤村正夫一座」の様相を呈してきます。

1948(昭和23)年11月22日付神奈川新聞より

さらに年末の12月14日からはふたたびオペラ館での興行が始まります(おそらく19日まで)。そして、ここにも「大江三郎」の名前が登場しています。

1948(昭和23)年12月14日付神奈川新聞より

杉田劇場とオペラ館のスケジュールを合わせると、大高の三回忌追善興行以降、藤村正夫をトップに据えた暁劇団の公演は

10月6日〜27日 杉田劇場
11月13日〜17日 オペラ館
11月22日〜12月13日 杉田劇場
12月14日〜19日 オペラ館

となり、ほぼ休みなく、といってもいいほどの興行が続いていたわけです。

これですっかり軌道に乗ったかに思えたこの関係は、しかしそう長くは続かず、年明け1月から劇団はまた新たな展開を見せることになるのです。




「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(104) グロテスク劇場の内幕

近江二郎はアメリカ巡業から帰国して一年後の昭和7年夏「グロテスク劇場」というシリーズをスタートさせ、人気を博します。一時期は「グロの近江」とも言われ、近江一座の代名詞とも言われるシリーズだったようです。

このグロテスク劇場については、以前も書いたことがありましたが、メイエルホリドとの関係など頓珍漢なことを書いていて恥ずかしくなるばかりで、これがどんな意図で始まったのかなど、これまで詳細はよくわかっていませんでした。


先日、旧杉田劇場の総合プロデューサーというべき、鈴村義二の書いた『浅草昔話』(南北社事業部, 1964)という本を手に入れました。なんと、そこに「グロテスク劇場」の内幕が書かれていたのです。




それによると

"劇場の正面全体を、岩窟のこしらえにして、近江二郎一座に伴淳三郎、長田健が加入、映画から浅香新八郎、衣笠淳子特出、出し物は全部怪談劇で、グロテスク劇場と看板をあげて、昭和七年八月の公演劇場のフタをあけた。"(同書,p.65)

要するに怪談劇を「グロテスク劇場」と呼んでいただけのことらしいです。

1932(昭和7)年8月20日付都新聞より

もっともこの広告には伴淳三郎などの名前がないので、当初は近江一座だけの企画だったのかもしれません。その後、8月30日付の新聞に伴淳らが日活の争議を嫌ってグロテスク劇場に参加したという記事が出ます。

1932(昭和7)年8月30日付読売新聞より

鈴村によれば、前年の7月に大谷友三郎・遠山満・近江二郎・酒井淳之助を集めたお盆の興行が不入りだったことから、この怪談劇も期待薄で、興行主の木内興行部としては「まあやってみれば」という程度の思い入れだったそうです(それまで正月と盆は稼ぎ時だったのに、この頃から夏は海や山への旅行に客を取られてしまったということらしい)。

ただ、これまで調べた範囲では前年つまり昭和6年夏の近江二郎は、7月7日に帰国したばかりで、合同公演をやっているような記録がないので(むしろ凱旋公演のように近江二郎一座で興行している)、不入りだった興行とは、以下の広告にある昭和7年正月の合同公演(剣劇大合同)のことを指しているのかもしれません。

1931(昭和6)年12月29日付読売新聞より


さて、そんな期待薄だった「グロテスク劇場」ですが、これが予想外に当たって

"連日の大入り、八月一ヶ月だと、開場前に宣告されたのが、今度は劇場側からの頼みで、九月十月と打ち続け、相変わらずの大入り"(同書,p.66)

になったのだそうです(鈴村は木内興行の相談役だったようなので、グロテスク劇場は木内が公園劇場を借りて興行していたのだと思います)。

とはいっても、そもそもがそんなに入るとは思っていなかった興行なので、さすがにロングランとなると演目も底をつき、

"これまで客を引き寄せたのだから、大丈夫という事で、十一月に忠臣蔵通しをやった"(同書,p.66)

ということですから、行き当たりばったりというか、いい加減というか。

それが10月31日初日を告げるこの興行のようです。

1932(昭和7)年10月31日付都新聞より


"舞台稽古に一日休場して、大張り切りで初日をあけた。
序幕、二場目と進んで松の廊下、伴淳の師直、浅香の判官、
(中略)
判官が刀に手をかけようとしたが、腰に小刀がない、これを袖で見た茶坊主が、小刀を持って舞台へ飛んで出て
「判官殿」
と小刀を差し出す。ドッと客席は大笑い。それを引ったくって師直に斬りつける。その時師直の長袴を踏んづけていたので、逃げる師直は、舞台へつんのめる。客席は爆笑、爆笑"(同書)

 

というのだから、「今秋劇界震撼の帝王篇」などと大仰なキャッチコピーが書かれた立派な広告からは想像もできない、かなりハチャメチャな舞台だったようです。

こんなこともあってか、浅草での「グロテスク劇場」はこれで幕引きということになったようですが、近江一座は人気にあやかって、名古屋などの旅公演ではその後も「グロテスク劇場」の看板でしばらく興行を続けていたようです。

『近代歌舞伎年表』名古屋篇 第16巻(八木書店, 2022)より

ちなみに、鈴村によればこの『忠臣蔵』の

"失敗の爆笑が、ヒントになったのか、松竹爆笑隊が生れ、翌月笑いの王国と改めて常盤座に数年続演する全盛を築いた"(同書,p.67)

とのことだそうです。


ともあれ、このエピソードからも、鈴村義二と近江二郎はもともとかなり近い関係にあったことがわかります。旧知の仲といってもいいでしょう。本田靖春の『戦後 美空ひばりとその時代』には、杉田劇場オーナーの高田菊弥が、戦前、浅草松竹座で役者の後援会長をやっていたと書かれていますが、鈴村義二と高田菊弥だけでなく、近江二郎も含めた三者は、浅草時代から何らかの関わりがあったと考えてもおかしくない気がします。

つまり、杉田劇場の開場直後、昭和21年1月下旬から、近江二郎一座が来演しているのは、単に近江二郎が横浜に住んでいて、人気があったからというだけではなく、鈴村や高田と昔からの関係があったからだと考えても間違いはない気がするのです。

そして、やはり大高よし男が杉田劇場の専属となった経緯にも、この三者の縁が絡んでいたという推測も、そんなに大きく的外れだとは言えない気もするのです。

さらには、何度も引用しているように、近江二郎の養女だった元子さんの手記にある

"二代目を名乗るべき人が交通事故で他界"(George Omi "FIFTH BORN SON"より)

という文言が、大高を指しているような気がしてならないのです。

つづく

前の投稿


「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(103) 近江二郎の戦後

昭和23年11月16日に横浜国際劇場不二洋子一座公演の広告が出ます。ここに興味深い名前が登場するのです。

近江二郎です。

1948(昭和23)年11月16日付神奈川新聞より

印刷が不鮮明ではっきりしませんが、右に大きく書かれた「不二洋子一座」の下に、かすれた「近江二郎加盟」の文字を読み取ることができます。

戦時中、近江二郎はやはり「加盟」の立場で、不二洋子一座にしばしば参加していましたが、戦後もその流れは継続していたようです。

不二洋子一座が初めて横浜国際劇場に来演したのは前年の昭和22年9月26日で、二度目が同年12月17日。これが三度目の登場ということになります。

1947(昭和22)年9月27日付神奈川新聞より

1947(昭和22)年12月2日付神奈川新聞より

ですが、最初の公演も二度目の公演も、近江二郎が参加していたかどうかはいまのところ不明です。


以前も書いたように、近江二郎の戦後の活動は

昭和21年
 1月 杉田劇場
 3月〜5月 銀星座(弘明寺)・杉田劇場
 7月〜8月 宝生座(名古屋)

昭和22年
 3月 堀田劇場(名古屋)
 5月 宝生座(名古屋)
 8月 観音劇場(名古屋)

がわかっています。断続的ながら精力的に活動している様子がわかります。

その後の調査で、不二洋子の評伝『夢まぼろし女剣劇』(森秀男著)に掲載されている、昭和23年2月の京都南座での不二洋子一座公演のパンフレットにも近江二郎の名前があることがわかりました(同書, P.181)。

森秀男『夢まぼろし女剣劇』(筑摩書房,1992/ P.181)より

となると、時期的に近い不二洋子の二度目の横浜国際劇場(昭和22年12月)にも近江二郎が参加していた可能性は否定できませんし、最初の来演である9月興行もスケジュール的にはあり得ない話ではなくなってきます。

『夢まぼろし女剣劇』によれば、戦後の不二洋子はライバルである大江美智子に比べると活躍の場が少なくなっていて、かつてあんなにも人気を誇った浅草に復帰するのも、昭和21年12月の松竹座からで、昭和20年2月以来、実に1年10ヶ月ぶりだったそうです。

不二洋子が浅草の舞台に復帰した昭和21年の年末、近江二郎がどこにいたのかははっきりしません。『松竹七十年史』の記録には、不二洋子一座に近江二郎の名前はありませんが、8月の宝生座(名古屋)と翌年3月の堀田劇場(同)までの間ですから、ここでも近江二郎が出演していた可能性もまた否定できません。

話が前後するので、時系列を整理するために、まず『夢まぼろし女剣劇』と『松竹七十年史』から、戦後、昭和24年までの不二洋子一座の公演をまとめてみます。

昭和21年
 12月 浅草・松竹座  
 
昭和23年
 2月 京都・京都座
 5月 浅草・花月劇場
 10月 京都・京都座

昭和24年
 2月 京都・京都座
 11月 浅草・常盤座

となります。

ここに横浜での興行と近江二郎の足跡を加えてみると(※黒文字:近江二郎、赤文字:不二洋子、緑文字:不二洋子一座に近江二郎が参加)

昭和21年
 1月 横浜・杉田劇場
 3月〜5月 横浜・銀星座
 7月〜8月 名古屋・宝生座
 12月 浅草・松竹座
 
昭和22年
 3月 名古屋・堀田劇場
 5月 名古屋・宝生座
 8月 名古屋・観音劇場
 9月 横浜国際劇場
 12月 横浜国際劇場
 
昭和23年
 2月 京都・京都座
 5月 浅草・花月劇場
 10月 京都・京都座
 11月 横浜国際劇場
 
昭和24年
 2月 京都・京都座
 11月 浅草・常盤座


こうして時系列で見ていくと、いささか強引かもしれませんが、昭和21年の浅草は別として、昭和22年の秋以降、近江二郎はずっと不二洋子一座に帯同していたと考えてもいいような気がしてきます。

妄想を逞しくすると、昭和22年9月、横浜国際劇場にやってきた不二洋子の楽屋を近江二郎が訪ね、久々の再会に意気投合して、そこからまた不二洋子一座に近江二郎が参加するようになった、というストーリーも成り立ちそうですが、あくまでも悪癖の妄想ということで…

ただ、昭和24年5月29日に近江二郎は急逝してしまいますから、上記、昭和24年11月の常盤座公演には近江二郎の姿はなかったわけで、両者の戦後の共演は短期間で終わってしまったということになります。


こうしてみると、いまのところ近江二郎の記録として残っている一番新しいものが、冒頭にあげた横浜国際劇場の広告になります(最後が横浜というのも、なんとなく妄想を掻き立てられるところですし、亡くなったのが、横浜大空襲と同じ日という事実にも運命的な何かを感じてしまうのは…やはり悪い癖のようです)。

戦前・戦中、大衆演劇の世界で剣劇や新派の一座をなし、人気を誇っていた役者たちが、戦後はワキに回るなどして映画や舞台で活躍していたことを思うと、近江二郎もあと10年生きていたら、いまでもスクリーンの中にその姿を見ることができたのかもしれません。運命とはいえ、残念でなりません。


そんなこんなで、ここまで調べてきて、ざっくりとではありますが、明治の末に川上音二郎や藤沢浅二郎の俳優学校を出た後から、昭和24年に亡くなるまで、大正時代の前半を除けば、近江二郎の足跡の全容がうっすらとわかってきました。大正時代に東京で新派の舞台に出ていた時期を精査すれば、近江二郎についてはある程度の年譜ができそうな気がします。

その精査の中で大高との接点、出会いの時期を確定することができればいいのですが、果たしてそううまくいくかどうか。やはり近江二郎の足跡という線も、大高調査の重要なポイントになりそうです。



「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(102) 市川雀之助のこと

前回の投稿で、昭和23年は杉田劇場にとっても横浜の興行界にとっても、変化の年だったと書きました。

これ以降、たびたび名前の出てくる「市川雀之助」が杉田劇場に登場したのもこの年で、新聞広告をたどると2月1日が初のお目見得のようです。

1948(昭和23)年1月31日付神奈川新聞より

大高亡き後、杉田劇場は歌舞伎興行で起死回生をはかりますが、地域性や劇場規模などもあったのでしょうか、昭和22年いっぱいまでは歌舞伎を主軸としつつ、翌年になると大衆演劇の割合がぐっと増えてきます。方針転換が明らかです。

その第一弾というべき存在が「市川雀之助」なのです。

6月には「新生暁劇団」との合同公演も行なっていることから、劇場側としては雀之助を大高の後釜として考えていたのかもしれません。

1948(昭和23)年6月29日付神奈川新聞より

市川雀之助がどういう経緯で杉田劇場にやってきたのかはよくわかりません。普通に考えればプロデューサーの鈴村義二が目をつけて呼んだということなのでしょう。

この後、杉田劇場のプログラムに頻繁に名前が出ることからしても、その目論見は当たり、かなりな人気を博していたことがわかります。

杉田劇場が閉鎖された後は、後述の通り、横浜の小屋掛け芝居に出ていたようです。今につながる「大衆演劇」のはしりとも言っていい存在だったと思われます。


ところで、現杉田劇場の自主事業に「いそご文化資源発掘隊」というものがあります。講座や街あるきなど、地元の歴史や地理をネタにした人気シリーズです。

数年前の発掘隊で、旧杉田劇場についての座談会(トークショー)がありましたが、その際、雀之助の孫という方が新潟からわざわざ杉田劇場に来られ、貴重なお話をされました(幸運にも私もその場にいました。座談会の内容はアーカイブとしてウェブサイトに残されています→こちら)。

それによると雀之助はファン(追っかけ)の女性と結婚した後、福島〜新潟と転居し、お孫さんが1歳半くらいの頃に亡くなったそうです。しかしながら、資料は失われてしまったそうで、ご家族でも雀之助の経歴の詳細はよくわからないご様子でした。


そんな雀之助ですが、彼の名前は意外なところに登場します。

横浜演劇研究所が発行していた機関誌『よこはま演劇』No.4(昭和29年3月1日発行)に「庶民演劇の表情 −小屋掛芝居の現状と将来ー」と題した珍しい対談が掲載されているのですが、ここに出てくるのが「市川雀之助」なのです。

『横浜演劇研究所の30年 : 1952~1982』(横浜演劇研究所刊, 1982)より

『よこはま演劇』N0.4(1954)より

対談のメンバーは雀之助の他に、同座の幹部・松平長八郎と横浜演劇研究所の加藤衛所長という顔ぶれで、1953(昭和28)年12月26日、雀之助らの出演していた南座(南区にあった芝居小屋)の楽屋で行われたものです。

これによれば

"市川雀之助氏は新演舞座の座長であり、神奈川縣實演興行組合の副組合長を勤め"

ており、この実演興行組合というのは

"一昨年(引用者註:1951(昭和26)年)に出来、組合員は縣下で六百名程で。相互の連絡と当局との交渉が大きな仕事になっています"

とあります。

横浜演劇研究所の機関誌に、大衆演劇の記事が載るのはとても珍しいことで、おそらくこれが最初で最後だと思われますが、こういう企画が実現したのは、その年(1954(昭和29)年)の1月31日をもって、小屋掛芝居(仮設劇場)が禁止されるという事態を受けてのことのようです。記事をまとめた所員の神笠さんが強く推しての企画だと考えれられます。

余談ながら、神笠(神笠起康)さんとは直接お会いしたことはないものの、僕の友人の叔父(伯父?)でもあるので、しばしば名前を聞いていましたし、とても近いところにいた方ではあります。

神笠さんの本業は測量士で(僕の友人はその下で測量助手みたいな仕事をしていた)、記憶が正しければ事務所は吉野町にあったはずです。戦前からの横浜の大衆文化に詳しい方でもあり、三吉演芸場創立五十年記念誌『三吉橋界隈のこと』(疾風怒濤社, 1979)に「横浜の芝居・つれづれの記」を、また横浜市の『調査季報60号』特集/横浜の盛り場(1978年12月発行)に「盛り場であった伊勢佐木町-横浜盛り場小史」を寄稿しています。

横浜演劇研究所は主に戦後の新劇との関わりが強く、またアマチュア演劇の拠点としての活動をしていたわけですから、彼の存在はかなり異色だったと思われます。


『三吉橋界隈のこと』(疾風怒濤社, 1979)より

対談記事に戻ると、記事の後記に雀之助らが活動していた当時の、横浜の小屋掛芝居の劇場が列記されています。貴重な記録でもありますので、まずはここに引用して並べてみます。

三吉劇場(南、万世町二の三七)
南座(南、庚台)
友樂座(南、堀ノ内)
横浜劇場(西、浅間町)
戸部劇場(西、西戸部)
伊勢町劇場(西、伊勢町)
山元劇場(中、山元町)
ホームラン劇場(神、六角橋)
入江劇場(神、入江町)
佛向劇場(保、佛向町)
京浜座(鶴、末吉町)
市場劇場(鶴、市場町)
旭劇場(戸、旭町)
寿劇場(金、六浦町)

当然ながら、ほとんどが聞いたこともない芝居小屋で、所在地も含めかなり驚かされます。上述の通り、昭和29年1月31日をもって法令(建築基準法・消防法)によりこれらの劇場は三吉劇場(三吉演芸場)を除いてすべて閉鎖となったそうです(ただし、昭和31年の明細地図には浅間町の「横浜劇場」が掲載されているので、すべてが閉鎖というわけではなかったようです)。

神笠さんは、こうした大衆演劇の小屋が失われていくことを惜しみ、戦前からの大衆文化が一掃されるような風潮を懸念していたのだと思います。それがこの記事となったのでしょう。

またまた余談ではありますが、以前、横浜演劇研究所の事務所(福富町)から演劇資料室へ荷物を運ぶお手伝いをした際、資料の中に聞いたことのない名前の劇場図面(青写真)が数枚あったのを思い出しました。あれはきっと神笠さんが作成したものなのでしょう(資料室の未整理の段ボール箱のどこかに入っているはず)。


話を戻します。

この対談が行われたのは昭和28年の年末ですから、すでに杉田劇場は閉場となっていたはずです。残念ながら雀之助の発言の中に杉田劇場の名前は出ませんが

"大体、此ういう小屋(引用者註:仮設劇場)が建つたのは終戦後で、当時は何を演つてももうかりましたから何處でも素人が建てたんです(中略)小屋主にしても、野天で板囲いの頃はもうかり、金をかけて劇場らしく、屋根を造つた頃からもうけが薄くなり"

と言っているのは、いささか文脈が違うものの、杉田劇場や銀星座のような劇場が経営難で閉鎖されていったことも、多少は念頭にあったのかもしれません。

一方、雀之助自身や劇団については

"私と長八郎さんとは幼馴染なんで、それで二人で新国劇の島田辰巳の少し小規模なものをと話し合って一座をつくり"

"私は大体歌舞伎畑なんですが、あそこはノレンが無いと…"

"ですから種々な試みもしました。何人か楽士を入れてオペレッタもやりましたし、新舞踊を始めたのも横浜では私達が最初なんです"

など、興味深い発言をしています。

昭和23年、杉田劇場に登場した際、市川雀之助一座は「歌舞伎オペレッタ」を掲げていましたし、演目の中に「舞踊劇」もたびたび登場することから、この雀之助の発言は杉田劇場で興行していた頃の話だと思われます。

1948(昭和23)年4月20日付神奈川新聞より

さらに国会図書館のデジタルコレクションで検索してみると、雀之助のことが比較的詳しく書かれている雑誌記事が見つかりました(『新婦人』1961年6月号(文化実業社))。

それによると、市川雀之助は

"その昔浅草に宮戸座という芝居小屋があつたころ立ちまわりがうまいので人気のあつた市川市十郎の一座にいた二代目市川雀之助の息子で、十四の年に初舞台をふんでから約二十四年間、剣劇ひと筋に生きてきた男"

とあるので、上に引用した「私は大体歌舞伎畑なんですが」というのは、このことだと思われます。

1961年の段階で24年前が14歳ということは当時38歳。逆算すると1923(大正12)年頃の生まれということになります。旧杉田劇場に登場した時はまだ25歳くらいの若い座長だったわけですね。

別の本(『風流乗りあいバス : 浮世粋談寄せ書帖 酔筆名人集』(あまとりあ社編集部, 1956))では「居守うらない」という小文を雀之助自身が寄稿していて、内容からすると戦時中は出征し、南方戦線にいたようです。1923年生まれであれば、年齢的にもおかしくはありません。

『新婦人』に戻ると

"今年の正月(引用者註:1961年1月)、思いがけないチャンスから立ちまわりのうまさを買われて新宿コマ劇場の春日八郎ショウに特別出演。これが認められてこんど念願の常盤座出演がかなつたもの"

ともありますから、横浜での活動時期を終えてからの雀之助は、東京でもかなりな人気を得ていたようです(浅香光代一座などとも合同公演を行っています)。掲載されている写真からも、また記事の「大川橋蔵と川路竜子をまぜ合わせたような男つぷり」という一文からしても、いかにも人気の出そうな男前です。


さて、『よこはま演劇』では、対談の最後に加藤所長が自身のテリトリーでもある新劇について尋ねています。それに対して雀之助は

"もっと積極的に大衆に溶け込まなければどうしようも無いんぢゃないですか。大衆より偉い、大衆を引張つてやる、という態度が一番良くないと思います。新劇の人にはそういう点が共通していますね"

"以前「火山灰地」を観に行きましたがダラダラしてて退屈しましたよ。新劇の人はそれに自己満足しているんぢゃないですか。そういう陶酔感を少なくしてもう少し観せる芝居を演るようにしなければ…"

と答えていますが、加藤所長への言葉と考えると、なかなか遠慮のない辛辣な批判で、よく掲載したものだと驚かされます。

そんな対談の後記を、神笠さんはこんな指摘で締めくくります。

"(仮設劇場の閉鎖)の代償に、多くの人々が自分の家の近くの劇場を、芝居を、失つたのである。今はそれしかいうことが出来ない"

この時期、戦後復興の名のもとに、さまざまなものが急速に失われていったわけです。状況は違うものの、ここ数十年の横浜でも、スカイ劇場、電業会館、相鉄本多劇場、教育文化センター…と、なくなった劇場・会館は少なくなく、同じような傾向は、いまなお続いているような気もします。


そんなこんなで、今回は昭和23年に初登場した「市川雀之助」についての考察から、戦後横浜演劇などについても考えてみました。



「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(101) 三船敏郎と美空ひばりと忠臣蔵と

大高よし男の三回忌追善興行が行われた昭和23年は、横浜でかなりエポックメイキングな公演が続いた年です。

今回は少し余談めきますが、そんなお話。


以前書いたように、杉田劇場でデビューした加藤和枝は3月に「美空ヒバリ」、5月に「美空ひばり」として横浜国際劇場の舞台に立ちます。

1948(昭和23)年3月8日付神奈川新聞より

大高よし男一座の幕間で唄っていた少女は、2年という短期間で、この舞台から全国区のスターになる第一歩を踏み出すわけです。


一方、杉田(中原)にゆかりのあるもう一人の大スターが、この年の9月、同じ横浜国際劇場の舞台に立ちます。

三船敏郎です。

同年4月に公開された黒澤明監督『酔いどれ天使』の実演版(!)が横浜国際劇場で上演されたのです。この舞台は三船敏郎の生涯唯一の実演だとも言われていて、かなり珍しい公演です(9月7日〜13日)。

1948(昭和23)年9月7日付神奈川新聞より

出演者がほぼ映画と同じメンバーというのも驚きですが、それよりも驚愕なのが「演出 黒沢明」の文字です。文字通りに受け取れば、黒澤明が実演の演出もやったということになります。詳しいことはわかりませんが、これも黒澤唯一の舞台演出なんじゃないでしょうか。

この舞台についてネットで調べてみたところ詳しい情報に行き当たりました(こちら)。

追加で調べますと、当時、東宝争議(第3次)があって映画の撮影がままならぬ環境だったようです。その影響と言っていいのでしょう、こうした実演の企画が持ち上がったと思われます。9月4日に静岡歌舞伎座で初日を開け(4日・5日の二日間)、全国巡業の予定だったのが、不入りのせいか、ほかの理由でか、2番目の巡業地である横浜国際劇場での公演をもって打ち切りになったのだとか。

Wikipediaの三船敏郎の項では

「デビュー3作目・黒澤明監督『醉いどれ天使』に、主役の一人として破滅的な生き方をするヤクザ役で登場した。この作品により三船はスターとなる。しかし、東宝争議が激化したため撮影部転属を諦め、黒澤、志村と共に『酔いどれ天使』の舞台実演で全国を巡業する(下線引用者)

と書かれています。ちなみに『酔いどれ天使』の項では、舞台版として2021年の明治座と大阪歌舞伎座のものしか書かれていませんから、昭和23年の舞台は知る人ぞ知る幻の公演だったのかもしれません。

なお、三船敏郎と磯子の関わりについては、郷土史研究家、葛城峻さんの本に詳しく書かれていますが、戦後、復員してきたのが磯子で、杉田の隣町の中原に下宿して、進駐軍関係の仕事をしていたそうです。

"国道十六号線のバス停「境橋」の山側の入口に熊野神社の御神木が残っています。ここを百メートル入った先の四筋に別れる中央道路左側に池田邸がありますが(引用者註:今はマンションになっている)、ここに敗戦直後満州から引き揚げて来た三船敏郎が住んでいました"(葛城峻『やぶにらみ磯子郷土誌』/磯子区郷土研究ネットワーク, 2015より) 

別の資料から三船自身の発言など、ふたつほど引用してみます。

“そのうち兵隊仲間で、数年前に除隊したやつが横浜に住んでいたんです。弟も帰ってきて、連絡とりあって、それで横浜に一緒に住んでいたんです(中略)近所に池田組という、横浜の輸送のほうを引き受けていたおやじさんがいたわけです。磯子の奥の方に発動機、エンジンつくっていた石川島というのがあったんですよ。爆撃でめちゃくちゃになっていましたけど(中略)そこへ米軍が入ってきて、アメリカの兵隊たちにコカ・コーラを飲ますから、ここへ機械を据えるということで(中略)三船君手伝ってくれということでそれを手伝っていたんですよ”講座日本映画5『戦後映画の展開』/岩波書店, 1987より)

“三船は九州の駅から蒸気機関車に乗り、熱い釜の近くに掴まって、横浜へ向かった。そこに、自分の弟と妹がいることが分かったからだ。「兄妹が数年ぶりに再会できたんですが、しばらくは、横浜の磯子に住み、下宿しながら、肉体労働をしていたそうです(中略)その工場にしばらくいてから、大山さんを訪ねたんです。そのときは、横浜の磯子から、(世田谷区)砧の東宝撮影所まで歩いていったと話してました」(史郎)”(松田美智子『サムライ 評伝三船敏郎』/文藝春秋,2014より)

のちに黒沢映画でたびたび共演する三船敏郎と千秋実が杉田にいた奇縁については、以前このブログにも書きました→こちら

両者のいた時期はズレていると思っていましたが、三船が東宝撮影所を訪れるのが昭和21年5月で、上記引用によればまだ磯子に下宿していたようなので、昭和21年2月、千秋実の薔薇座の公演時、三船敏郎も杉田にいた可能性が高くなります。街ですれ違うようなこともあったかもしれません(中原から石川島の工場へ行く途中に杉田劇場があった)。つくづく不思議な縁です。

それにしても三船はよほど印象の強い人だったのでしょう、まだ一般人だった彼が商店街を歩いていたのを見た、なんていう人が地元に結構いらっしゃいます。有名人でもないのになぜわかったのかが不思議でしたが、一種のオーラみたいなものがあったのでしょうし、数年後には銀幕に登場したのですから、すぐにピンときたのでしょうね。

美空ひばり・三船敏郎とも、杉田(中原)の街で過ごしてから2年あまり、この年を境に一気にスターダムを駆け上がります。「ゆりかご」としての杉田、「ステップ」としての横浜国際劇場とも考えられ、戦後の大スターを育てた街として、いささか誇らしくも感じます。

ちょっと身贔屓が過ぎますが…


さて、この年、杉田劇場に限って言えば、5月20日からの女剣戟・浅香光代一座の興行が特筆すべき舞台です(5月20日〜28日)。

浅香光代といえば、晩年まで歯に衣せぬ発言で人気を集めたタレントとして有名でしたが、そもそもは女剣劇の役者で、浅香新八郎森静子夫妻の一座(新生国民座)に入団したのち、自分の一座を立ち上げた人です。

戦前の女剣劇「三羽烏」(大江美智子・不二洋子・伏見澄子)は、戦後「四天王」(大江美智子・不二洋子・中野弘子・浅香光代)へと変わり、彼女が戦後のブームの一翼を担った立役者ともいえます。殺陣の最中に、着物の裾がめくれて内股がチラリと見える「チラリズム」でも人気が高かったそうです。

1948(昭和23)年5月22日付神奈川新聞より

残念ながら、彼女が杉田劇場に来演したのはこれが最初で最後だったと思われます。

公演の内容は実演に映画の併映で、後半は「裸体映画」ですから、剣劇のチラリズムと相まって、杉田劇場としては「エロ」を売りにした興行だったのかもしれません。

1948(昭和23)年5月28日付神奈川新聞より

余談の余談ですが、浅香光代一座の興行は5月28日までで、その翌日、5月29日からは横浜のアマチュア劇団「葡萄座」の公演が3日間続きます。葡萄座の千秋楽(31日)の夜は「浪曲の夕」だし、翌日からは『りべらるショウ』が始まるので、なかなか混沌としたプログラムの合間に葡萄座の公演が行われていたことがわかります。

1948(昭和23)年6月1日付神奈川新聞より

この年の杉田劇場におけるもう一つの大きなトピックは、6月10日から14日までの「通し狂言『仮名手本忠臣蔵』」です。この興行は『神奈川県史』の年表にも記載されているもので、戦後初の忠臣蔵通し上演として名高い舞台です。広告も大きく、劇場側もかなり力を入れていた印象です。

1948(昭和23)年6月12日付神奈川新聞より

広告だけでなく記事にもなるほどの話題だったようですが、記事中「横浜では終戦後最初の」と書かれているので、実際にどこまでのレベル(範囲)で「戦後初」なのかは、もう少し検証した方がよさそうですね。

1948(昭和23)年6月10日付神奈川新聞より

これだけ話題性のある忠臣蔵の通し上演ですし、広告にも「連日満員」とあることから、さぞかし客入りも良かったのだろうと想像しますが、4日目(5月13日)と千秋楽の「映画演劇情報欄」では前日までの情報に追記するような形で「当日賣有り」と書かれているので、集客自体はそれほど芳しくなかったのかもしれません。杉田のような街では、もう少しわかりやすいものが好まれたのかな、なんて想像するところです。

1948(昭和23)年6月14日付神奈川新聞より

以前に書いた「朝川浩成・鳩川すみ子の同生座」が登場したのもこの年ですし、歌舞伎オペレッタの看板を掲げる「市川雀之助一座」が登場するのもこの年からです(市川雀之助についてはまた改めて)。

1948(昭和23)年1月31日付神奈川新聞より

さらには、杉田劇場で(おそらく)初めてエロを前面に出した公演(新世紀座の『肉体の街』。ですが、この劇団や作品の詳細はよくわかりません)があったり(2月)、映画の上映が多くなるのもこの年。

1948(昭和23)年2月24日付神奈川新聞より

また新しい緞帳(引幕)が寄贈されたのもこの年です(その経緯は杉田劇場のブログに詳しく書かれています)。


大高よし男の三回忌に当たる昭和23年は、杉田劇場もその他の劇場も激動の時期で、戦後の興行が大きな転換期を迎えた年だともいえそうです。


そんなこんなで、今回は昭和23年の横浜興行界について少し考えてみました。



「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。