(101) 三船敏郎と美空ひばりと忠臣蔵と

大高よし男の三回忌追善興行が行われた昭和23年は、横浜でかなりエポックメイキングな公演が続いた年です。

今回は少し余談めきますが、そんなお話。


以前書いたように、杉田劇場でデビューした加藤和枝は3月に「美空ヒバリ」、5月に「美空ひばり」として横浜国際劇場の舞台に立ちます。

1948(昭和23)年3月8日付神奈川新聞より

大高よし男一座の幕間で唄っていた少女は、2年という短期間で、この舞台から全国区のスターになる第一歩を踏み出すわけです。


一方、杉田(中原)にゆかりのあるもう一人の大スターが、この年の9月、同じ横浜国際劇場の舞台に立ちます。

三船敏郎です。

同年4月に公開された黒澤明監督『酔いどれ天使』の実演版(!)が横浜国際劇場で上演されたのです。この舞台は三船敏郎の生涯唯一の実演だとも言われていて、かなり珍しい公演です(9月7日〜13日)。

1948(昭和23)年9月7日付神奈川新聞より

出演者がほぼ映画と同じメンバーというのも驚きですが、それよりも驚愕なのが「演出 黒沢明」の文字です。文字通りに受け取れば、黒澤明が実演の演出もやったということになります。詳しいことはわかりませんが、これも黒澤唯一の舞台演出なんじゃないでしょうか。

この舞台についてネットで調べてみたところ詳しい情報に行き当たりました(こちら)。

追加で調べますと、当時、東宝争議(第3次)があって映画の撮影がままならぬ環境だったようです。その影響と言っていいのでしょう、こうした実演の企画が持ち上がったと思われます。9月4日に静岡歌舞伎座で初日を開け(4日・5日の二日間)、全国巡業の予定だったのが、不入りのせいか、ほかの理由でか、2番目の巡業地である横浜国際劇場での公演をもって打ち切りになったのだとか。

Wikipediaの三船敏郎の項では

「デビュー3作目・黒澤明監督『醉いどれ天使』に、主役の一人として破滅的な生き方をするヤクザ役で登場した。この作品により三船はスターとなる。しかし、東宝争議が激化したため撮影部転属を諦め、黒澤、志村と共に『酔いどれ天使』の舞台実演で全国を巡業する(下線引用者)

と書かれています。ちなみに『酔いどれ天使』の項では、舞台版として2021年の明治座と大阪歌舞伎座のものしか書かれていませんから、昭和23年の舞台は知る人ぞ知る幻の公演だったのかもしれません。

なお、三船敏郎と磯子の関わりについては、郷土史研究家、葛城峻さんの本に詳しく書かれていますが、戦後、復員してきたのが磯子で、杉田の隣町の中原に下宿して、進駐軍関係の仕事をしていたそうです。

"国道十六号線のバス停「境橋」の山側の入口に熊野神社の御神木が残っています。ここを百メートル入った先の四筋に別れる中央道路左側に池田邸がありますが(引用者註:今はマンションになっている)、ここに敗戦直後満州から引き揚げて来た三船敏郎が住んでいました"(葛城峻『やぶにらみ磯子郷土誌』/磯子区郷土研究ネットワーク, 2015より) 

別の資料から三船自身の発言など、ふたつほど引用してみます。

“そのうち兵隊仲間で、数年前に除隊したやつが横浜に住んでいたんです。弟も帰ってきて、連絡とりあって、それで横浜に一緒に住んでいたんです(中略)近所に池田組という、横浜の輸送のほうを引き受けていたおやじさんがいたわけです。磯子の奥の方に発動機、エンジンつくっていた石川島というのがあったんですよ。爆撃でめちゃくちゃになっていましたけど(中略)そこへ米軍が入ってきて、アメリカの兵隊たちにコカ・コーラを飲ますから、ここへ機械を据えるということで(中略)三船君手伝ってくれということでそれを手伝っていたんですよ”講座日本映画5『戦後映画の展開』/岩波書店, 1987より)

“三船は九州の駅から蒸気機関車に乗り、熱い釜の近くに掴まって、横浜へ向かった。そこに、自分の弟と妹がいることが分かったからだ。「兄妹が数年ぶりに再会できたんですが、しばらくは、横浜の磯子に住み、下宿しながら、肉体労働をしていたそうです(中略)その工場にしばらくいてから、大山さんを訪ねたんです。そのときは、横浜の磯子から、(世田谷区)砧の東宝撮影所まで歩いていったと話してました」(史郎)」”(松田美智子『サムライ 評伝三船敏郎』/文藝春秋,2014より)

のちに黒沢映画でたびたび共演する三船敏郎と千秋実が杉田にいた奇縁については、以前このブログにも書きました→こちら

両者のいた時期はズレていると思っていましたが、三船が東宝撮影所を訪れるのが昭和21年5月で、上記引用によればまだ磯子に下宿していたようなので、昭和21年2月、千秋実の薔薇座の公演時、三船敏郎も杉田にいたことになります。となると、街ですれ違うようなこともあったかもしれません(中原から石川島の工場へ行く途中に杉田劇場があった)。つくづく不思議な縁です。

それにしても三船はよほど印象の強い人だったのでしょう、まだ一般人だった彼が商店街を歩いていたのを見た、なんていう人が地元に結構いらっしゃいます。有名人でもないのになぜわかったのかが不思議でしたが、一種のオーラみたいなものがあったのでしょうし、数年後には銀幕に登場したのですから、すぐにピンときたのでしょうね。

美空ひばり・三船敏郎とも、杉田(中原)の街で過ごしてから2年あまり、この年を境に一気にスターダムを駆け上がるのですから、「ゆりかご」としての杉田、「ステップ」としての横浜国際劇場とも考えられ、戦後の大スターを育てた街として、いささか誇らしくも感じます。

ちょっと身贔屓が過ぎますが…


さて、この年、杉田劇場に限って言えば、5月20日から女剣戟・浅香光代一座の興行が特筆すべき舞台です(5月20日〜28日)。

浅香光代といえば、晩年まで歯に衣せぬ発言で人気を集めたタレントとして有名でしたが、そもそもは女剣劇の役者で、浅香新八郎森静子夫妻の一座(新生国民座)に入団したのち、自分の一座を立ち上げた人です。

戦前の女剣劇「三羽烏」(大江美智子・不二洋子・伏見澄子)は、戦後「四天王」(大江美智子・不二洋子・中野弘子・浅香光代)へと変わり、彼女こそ戦後のブームの一翼を担った第一人者です。殺陣の最中に、着物の裾がめくれて内股がチラリと見える「チラリズム」でも人気が高かったそうです。

1948(昭和23)年5月22日付神奈川新聞より

残念ながら、彼女が杉田劇場に来演したのはこれが最初で最後だったと思われます。

公演の内容は実演に映画の併映で、映画も後半は「裸体映画」ですから、剣劇のチラリズムと相まって、杉田劇場としては「エロ」を売りにした興行だったのかもしれません。

1948(昭和23)年5月28日付神奈川新聞より

余談の余談ですが、浅香光代一座の興行は5月28日までで、その翌日、5月29日からは横浜のアマチュア劇団「葡萄座」の公演が3日間続きます。葡萄座の千秋楽(31日)の夜は「浪曲の夕」だし、翌日からは『りべらるショウ』が始まるので、なかなか混沌としたプログラムの合間に葡萄座の公演が行われていたことがわかります。

1948(昭和23)年6月1日付神奈川新聞より

この年の杉田劇場におけるもう一つの大きなトピックは、6月10日から14日までの「通し狂言『仮名手本忠臣蔵』」です。この興行は『神奈川県史』の年表にも記載されているほどのもので、戦後初の忠臣蔵通し上演として名高い舞台です。広告も大きく、劇場側もかなり力を入れていた印象です。

1948(昭和23)年6月12日付神奈川新聞より

広告だけでなく記事にもなるほどの話題だったようですが、記事中「横浜では終戦後最初の」と書かれているので、実際にどこまでのレベル(範囲)で「戦後初」なのかは、もう少し検証した方がよさそうですね。

1948(昭和23)年6月10日付神奈川新聞より

これだけ話題性のある忠臣蔵の通し上演ですし、広告にも「連日満員」とあることから、さぞかし客入りも良かったのだろうと想像しますが、4日目(5月13日)と千秋楽の「映画演劇情報欄」には前日までの情報に追記するような形で「当日賣有り」と書かれているので、集客自体はそれほど芳しくなかったのかもしれません。杉田のような街では、もう少しわかりやすいものが好まれたのかな、なんて想像するところです。

1948(昭和23)年6月14日付神奈川新聞より

以前にも書いた「朝川浩成・鳩川すみ子の同生座」が登場したのもこの年ですし、歌舞伎オペレッタの看板を掲げる「市川雀之助一座」が登場するのもこの年からです(市川雀之助についてはまた改めて)。

1948(昭和23)年1月31日付神奈川新聞より

さらには、杉田劇場で(おそらく)初めてエロを前面に出した公演(新世紀座の『肉体の街』。ですが、この劇団や作品の詳細はよくわかりません)があったり(2月)、映画の上映が多くなるのもこの年。

1948(昭和23)年2月24日付神奈川新聞より

また新しい緞帳(引幕)が寄贈されたのもこの年とされています(その経緯は杉田劇場のブログに詳しく書かれています)。


大高よし男の三回忌に当たる昭和23年は、杉田劇場でもその他の劇場でも激動の時期で、戦後の興行が大きな転換期を迎えた年だともいえそうです。


そんなこんなで、今回は昭和23年の横浜興行界について少し考えてみました。


→つづく


「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。

(100) 大高ヨシ男三回忌追善興行

昭和23年9月21日、新聞紙上に「故大坂ヨシ男追善興行」の広告が出ます。

1948(昭和23)年9月21日付神奈川新聞より

以前にも少し触れましたが、これは「大高ヨシ男」の誤りです。翌日からの三行広告(「映画演劇情報」欄)ではちゃんと「故大高ヨシ男」に修正されています。

1948(昭和23)年9月22日神奈川新聞より

前年の一周忌にはこのような公演はなく、三回忌に合わせて追善興行が行われたようです。

大高の名前表記がブレるのは没後も相変わらずですが(今回は「ヨシ男」)、大高一座の劇団名の方も座長の没後、「暁第一劇団」だったり「暁劇団」になったりと、表記は毎度ブレブレです。しかし、昭和22年の夏頃からは「暁劇団」が定着し、昭和23年以降はこの名前になったようで、これも「暁劇團公演」と銘打たれています。


ここで、三回忌追善興行に至るまでの劇団の活動を少し振り返ってみます。

昭和21年10月22日、中野かほるが出演した追善興行の後、11月は公演がなかったようですが(立て直しを図っていたのかも)、昭和21年12月にほぼ1ヶ月の興行が杉田劇場で行われています。研究生募集の文言も見られるので、劇団継続の意思ははっきりしていて、片山さんの証言や尾上芙雀の発言などに見られる、解散・消滅といった兆候は感じられません。

1946(昭和21)年12月17日付神奈川新聞より

さらに翌年、昭和22年の前半は阪東亀久之丞一座との合同公演(1月)、単独興行(3月)、市川門三郎一座との合同公演(7月)など比較的順調に興行を重ねています。

1947(昭和22)年1月7日付神奈川新聞より

1947(昭和22)年7月5日付神奈川新聞より
※右の「湘南映画」の広告には「美空和枝」の名前が見える

ですが、8月1日〜3日の「お名残興行」(門三郎一座との合同公演から暁劇団が抜けた形)のあとは、新聞広告に名前が載らず、しばらく活動がなかったようです(夏巡業でもあったのかな?)

1947(昭和22)年7月29日付神奈川新聞より


ところが、「お名残」からほぼ3ヶ月後、降って湧いたように、杉田劇場ではなく「オリエンタル劇場」に「暁第一劇団」の名が登場するのです。

1947(昭和22)年10月28日付神奈川新聞より

オリエンタル劇場はその半年ほど前、昭和22年5月15日、南区高根町四丁目にオープンした劇場です。その後、東宝の傘下に入って「横浜東宝劇場」となりますが、やがて「横浜オペラ館」「横浜日劇」と名前を変え、最後は「横浜セントラル劇場」となって、横浜の伝説的なストリップ劇場となります。


この興行の後、しばらく新聞紙上で暁劇団(暁第一劇団)の名前を見ることはなくなります。

そしてオリエンタル劇場の公演からほぼ一年後、冒頭に紹介した大高よし男の三回忌追善興行となるのです。


実はこの興行の少し前から、追善興行へ向けての助走のように「暁劇団」の興行が始まっていました。8月26日から「ヴィナスショウ」の中で『魔人空を行く』というちょっと興味をそそるタイトルの「スリラー劇」を上演しているのです(その後の調査で、6月に「市川雀之助一座」との合同公演ありましたが、ごく短期間だったようです)

1948(昭和23)年8月26日付神奈川新聞より

「ヴィナスショウ」がどんなものだったのか、詳しくはわかりませんが、広告の絵や文言からして、おそらくストリップのようなものと歌謡曲、芝居を連ねたバラエティショーだったと思われます。

「ヴィナスショウ」と暁劇団の芝居は8月31日まで。その後、別の一座(市川雀之助一座)を挟んで、9月15日から再び暁劇団の興行が始まります。大高の生前には四日替り(4日ごとに演目を替える)のスタイルでしたが、この時期は三日替りだったようで

9月15日〜17日 軽演劇「愛は踊る川端柳」、新劇「港の朝」
9月18日〜20日 「天使と悪魔」、「應援團長の恋」

というプログラム。内容は映画と実演の組み合わせで、前半は「金語楼の親馬鹿大将」、後半は「千恵蔵のおしどり笠」が同時上映されています。

1948(昭和23)年9月14日付神奈川新聞よ

1947(昭和23)年9月18日付神奈川新聞より

杉田劇場はオープン前の新聞記事で「映画劇場」と紹介されていたくらいですから、最初から映写設備はあったのかもしれません。ですが、映画が杉田劇場の新聞広告に登場することはほぼなく、よく載るようになるのはこの年(昭和23年)からなので、それまでは実演劇場としてのスジを通していたのかもしれません。

もっとも、映写設備を後年になってから導入した可能性も否定できません。実演劇場としての経営が厳しく、映画で劇場の立て直しを図ったのかもしれないからです。この頃(昭和23年8月1日)、杉田劇場は株券を発行して資金を集めており、経営はかなり苦しくなっていたのです。

杉田劇場株券(磯子区民文化センター所蔵)


さて、大高よし男の追善興行(三回忌)は9月22日に始まり、広告によれば24日までとなっています。ですが「映画演劇情報」欄には26日も同じ公演が掲載されているので、掲載ミスでなければ、好評を受けて2日間延長したのかもしれません。

「好評」には根拠がないわけではありません。この三回忌の後、追善興行にも特別出演した藤村正夫を座長に迎え「新生暁劇団」として活動を再開しているからです。しばらく休んでいたのが、追善興行の好評を受けて復活の狼煙をあげたと考えても、あながち間違いではないように思います(新生暁劇団については別途)。

藤村正夫は、もともと日吉良太郎一座に参加していましたが、のちに独立して自分の一座を立ち上げた役者です。戦後は、弘明寺銀星座の自由劇団にも参加しており、そんな縁もあって暁劇団の再生に力を貸したのでしょう。後年、昭和30年代には大江美智子一座の公演にも参加するなど、俳優として実力も知名度も兼ね備えた人だったようです。


三回忌追善の前後、暁劇団(暁第一劇団)は紆余曲折を経ながらも、再興を図って活動を続けていました。しかしながら「大高よし男」についていえば、杉田劇場はもちろん神奈川県内の劇場でも、その名前を見ることは、もはやなくなるのです。

人気を誇った座長もこの時期を最後に歴史の闇に消えてしまったわけです。

それから40年後、1980年代になってから美空ひばりのデビューについての調査・研究の中で、大高の名前はふたたび日の目を見ることになるのです。


→つづく


「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。

(99) 美空ひばりのデビュー再考・その2

美空ひばりが杉田劇場で幕間に唄っていたと話す澤村鐡之助は、1930(昭和5)年生まれだそうです。

上記リンク先(『歌舞伎俳優名鑑』)によれば「実家は横浜の青果商」となっていますが、『演劇界』(1997年1月号「星霜抄」)のインタビュー記事ではより詳しく「金沢八景」と書かれています(はっきりと八景出身とはなっていないけれど)。

ちなみに、昭和5年に湘南電気鉄道(黄金町〜浦賀間)が開通しているので、杉田と八景の往来はそれ以前よりずっと楽になっていたはずです。

鐡之助は幼少時に両親を亡くしたそうで

「おじとおばが私達姉弟の後見人になって、毎月の生活費をくれたのでしょう。母が存命中は畑がいっぱいあったのに、おばあさんが言いました。お松が死んだら何も無くなってしまった、って」

また彼の本名は北見良重といい、インタビューでは

「本家の北見は八つあった村の豪族で」

と述べています。

北見家は上大岡や港南台あたりの有名な旧家です(後述)。金沢文庫・八景では「泥亀(でいき)」という地名の由来でも知られる「永島家」が有名で、北見家については聞いたことがありません。今後、詳しく調査が必要な事項です。

「本家」とあることから、上大岡が本家で八景にあった分家の出身ということなのかもしれませんが、いずれにしても鐡之助の幼少期は金沢八景に住まいがあったということのようです。

「お寺の和尚さんのところで小坊主の修行もしたのですよ。竜源寺って真言宗です」

竜源寺は龍華寺のことです。もともと龍華寺だったのを、来訪した徳川家康に寺号を伝える際「りゅうげんじ」と言い間違えたことから龍源寺とも呼ばれていたようで、『新編武蔵風土記稿』にも「龍源寺」の項目でその旨が記載されています。金沢文庫で有名な称名寺に至る道沿いにいくつかある寺社のひとつです。

また役者を志すにあたって

「うちのそばに第六天という女の神様があって、そこへ私願をかけました。立派にこの道でやっていけるように」

とも話しています。「第六天」というのは『新編武蔵風土記稿』に「第六天社」と記載されたものだと考えられますが、調べると現在の「洲崎神社」のようで、これもまた龍華寺に隣接する神社ですから、どうやら鐡之助(北見良重)は洲崎村(金沢区洲崎町)の出身と言えそうです。

『新編武蔵風土記稿』より


そんな鐡之助が芝居に魅せられたのは

「小学校三年の時に、姉さんからお小づかいをもらって、お芝居を見に行ったの。初めは敷島座に入ったら剣劇をやっていて、いやだなァと思い、次に黄金座(こがねざ)に行くと『鏡山』をやっていて、さあたちまちとりこになっちゃった」

のがキッカケだそうです。前述の通り、すでに湘南電気鉄道が開通していますから、金沢八景から伊勢佐木町あたりへ行くのも容易だったはずで、劇場の位置からして黄金町(こがねちょう)駅で下車したのではないかと思います。

小学校3年生といえば8歳か9歳ですから、昭和13年か14年頃ということになります。大高よし男や近江二郎が敷島座に出た少し前、伏見澄子(昭和13年2月〜7月・昭和14年10月〜12月)、酒井淳之助(昭和14年2月〜6月)、巴玲子(昭和14年7月〜9月)などが興行をしていた時期に当たると考えられます。彼が見た「剣劇」というのはこうした一座だったのでしょう。

一方で「黄金座」というのはよくわかりません。その頃に歌舞伎をやっていたことからすると、横浜歌舞伎座か金美劇場だと思われますが、金美劇場が映画館から実演に移行するのは昭和16年10月ですから、時期的には横浜歌舞伎座とそこで公演を続けていた「更生劇」を指していると考えるのが妥当です(ちなみに横浜歌舞伎座は黄金町駅のすぐ近く)。

「二度目の時は一円持って行くと、横浜歌舞伎座の子供の値段(観劇料)が上がって四十五銭、往復の電車賃のほかにクリームコーヒーを飲んで、いくらか残りました」

ともあるので、やはり鐡之助は横浜歌舞伎座のことを「黄金座」と称しているのかもしれません。

横浜歌舞伎座だとすると、昭和13年6月からは日吉良太郎一座の連続興行が始まるので、鐡之助が剣劇や歌舞伎(更生劇)を見たのはその前、昭和12年の後半から13年の初旬と考えられそうです(このあたりも記事中にある役者名と演目を照合すればはっきりするかもしれません)。


さて、前述の通り、澤村鐡之助の本名は「北見良重」で、旧家北見家の人。横浜の北見家といえば、一般には上大岡の北見家が有名で、横浜市歴史博物館に収蔵されている古文書が『北見家文書』として出版もされています。

現在の北見家は、屋敷の一部を和風レンタルスペース「水車屋」として貸し出すなどの事業をやっておられるようですが、同サイトから同家の歴史をみれば、明治以降も数々の事業を展開していて、上大岡をはじめとする近隣の開発に大きく貢献していることがわかります。

地元民に馴染みの深いレジャー施設「赤い風船(現・アカフーパーク)」の創業も北見家です。


一方、このブログに関係することでいえば、戦後、銭湯「大見湯」を改装してできた「大見劇場」です。

実のところ、大見劇場のことはよくわかっていませんが、大見劇場(正確には大見湯)が美空ひばりのデビューしたところという話があるので、無視できません。

水車屋のサイトにある「先祖の事業」の中に「大見湯」の項目があって、それによれば劇場に改装したのは昭和20年で

「8才の少女だった美空ひばり(当時は美空和枝)がこの銭湯で歌ったと云うエピソードがありました。それによると終戦後、父親が復員して「美空楽団」を結成し、戦後最初に人前で美空和枝が歌ったのがこの「大見湯」だった様です」

とされています。

「おそらく当時横浜の市街地は空襲により焼け野原となって銭湯も焼け、住んでいた滝頭から一番近くにあって焼け残っていた銭湯がこの「大見湯」だったのでしょう。小さな美空和枝は浴槽のフタを舞台替わりにして歌ったそうです。その盛況ぶりもあり劇場に改装されたそうです」

ともありますが、磯子区は空襲の被害が小さかった地域なので、"焼け野原となって銭湯も焼け"というは誤解ではないかと思います。上大岡まで行かずとも、もっと近くに銭湯はあったはずです。

ですが、それはそれとして、ここでは大見湯で美空ひばりが唄い、それが初舞台とされていることに注目したいと思います。


ところで、その美空ひばりは、1948(昭和23)年6月1日から7日まで横浜国際劇場の「グランドショウ」に出演します。新聞広告には、はっきりと芸名の最終形「美空ひばり」が記録されていています。

1948(昭和23)年6月1日付神奈川新聞より


で、その折に取材を受けた記事が神奈川新聞に掲載されているのです。

1948(昭和23)年6月7日付神奈川新聞より

この記事は比較的有名なものですが、よく読んでみると「ひばりちゃんは商賣熱心だね」やら「大きくなつたらハダカレビューにでる?」など、まだ11歳になったばかりの少女になかなか失礼な質問もある上に、そもそも名前からして「青空ひばり」と書かれているのですから、かなりいい加減な記事という気もします。

一方のひばりも

「男は女の子を誘惑する魔物だつてお母さんがいつたわ」
「女の子だから年はいえないの」
「商賣じやないわ、藝術よ」

など大人顔負けの返答で、すでに大スターの片鱗がうかがえます。

実はこの記事では、ひばりのデビューについて

「八ツの時に南太田のお風呂屋で唄つたのが初舞台」

と書かれているのです。

「お風呂屋」というのはひばりデビューのキーワードで、上掲の「大見湯」のほか、アテネ劇場が銭湯を改装してできたという話(誤解)も、ここから出ているように思います(アテネ劇場の前身は日用品市場で間違いないと考えています→こちらを参照)。

記事が「上大岡のお風呂屋」なら大見湯で確定ですが、「南太田の」とあるのが悩ましいところです。「みなみおおた」と「かみおおおか」は、どことなく語感も字面も似ているので、上大岡を南太田と聞き違えたかのかもしれませんし、上述のとおり記事の精度からして取材メモの誤記なんていうのもありそうです。

いずれにしても記事中に「杉田劇場」の名前は出てこないので、ひばりの意識の中では銭湯で唄ったことが「デビュー」という感覚だったのかもしれません。ですが、銭湯で唄ったことを「デビュー」とはなかなか言い難いところで、やはり一応ちゃんとしたステージのある杉田劇場での歌唱を「デビュー」とする方が妥当な気はします。


なお、大見湯を改装した大見劇場については、これまでに3つの新聞広告を確認しています。

ひとつ目は杉田劇場や銀星座にも来演した「森野五郎一座」で、昭和21年6月5日から15日。森野五郎といえば澤村鐡之助が見たかもしれない横浜歌舞伎座の「更生劇」のメンバーで、広告にも「お馴(染?)深き」とあるように、横浜に所縁のある役者です。

1946(昭和21)年6月6日付神奈川新聞より

もうひとつはこれも杉田劇場に来演している松本榮三郎一座と元大都映画のスター・大岡怪童一座の共演。昭和21年6月29日から7月9日までの興行です。

1946(昭和21)年6月29日付神奈川新聞より

大都映画の怪優として、大山デブ子とのコンビでも人気の高かった大岡怪童ですが、戦後は映画に数本出たのみで、最期は1951(昭和26)年1月3日、秦野の劇場に出演中、心臓麻痺で亡くなったそうです。

そして三つ目が昭和21年10月23日の天勝大一座と10月25日の玉川勝太郎。

1946(昭和21)年10月23日付神奈川新聞より

初代松旭斎天勝は昭和19年に亡くなっているので、この天勝は二代目でしょう。玉川勝太郎も二代目。

この頃の大見劇場には結構な大物スターが来演していたことがわかります(大見劇場跡の現在は→こちら(中央の4階建てのビル))。


そんなこんなで、結局のところひばりのデビューについては謎が深まるばかりではありますが、仮に澤村鐡之助が上大岡の北見家の縁者だとすると、北見家の大見湯で唄ったひばりを、後日、鐡之助が杉田劇場で見たという、三者の不思議な縁を感じたりもします。

杉田に杉田劇場、磯子にアテネ劇場(映画館)、上大岡に大見劇場、弘明寺に銀星座と、終戦直後のこの地域(横浜南部)には大衆演劇の劇場や映画館が続々と誕生しており、そんな環境下で国民的歌手・美空ひばりの胎動が始まったのですね。


→つづく


「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。

(98) 美空ひばりのデビュー再考・その1

美空ひばりの舞台デビューについては諸説あって、なかなか確定しないところでしたが、横浜の演劇研究家、小柴俊雄さんなどの精緻な調査で、ひとまず昭和21年4月10日の新聞広告をもって、この頃がデビューであろうというのが地元の郷土史家などの間で定説になっています(こちらの記事でも)。

1946(昭和21)年4月10日付神奈川新聞より

でも、ややこしい性格の僕には、それでも気になるところがいくつかあって、なかなか腑に落ちないので困ります。


気になる点の第一は、片山さんの証言にある、3月中旬にひばり親子が杉田劇場を訪れて出演交渉をしたという話です。

証言では「3月中旬から2週間、加藤和枝は「織帳の前」で唄った」とされ、それが大高一座の幕間ということになっていますが、大高一座の3月興行の記録がないのではっきりしません。残念ながら3月の杉田劇場の新聞広告は、松本榮三郎と坂本武の実演のほかは見当たらないので、それを確認する術がないのです…

1946(昭和21)年3月23日付読売新聞より

それにしたところで、上掲の広告のように3月23日には坂本武・松本榮三郎の公演が「上演中」となっているし、その前々日、3月21日の広告でも「上演中」となっているので、「3月中旬から2週間」大高一座の幕間で唄ったというのがどうにも腑に落ちないのです(3月21日の広告には「松竹大船スター坂本武実演」とあり、「松本榮三郎一座に加盟出演」となっているので、この時期に大高一座の興行があったとは考えにくい)。


そんな中、またぞろ『演劇界』のバックナンバーを調べていたら、1997年2月号に掲載されている「星霜抄」澤村鐵之助の項の第二回にこんなことが書かれていたのです。

"で、戦後二十歳くらいだったかしら、市川門三郎さんのところへ私顔を出して、何か(舞台へ)出してくれって頼んで(中略)門三郎さんは杉田劇場へ出ていて、お弓(どんどろ)や与三郎や朝顔をなさって(中略)美空ひばりがね、出ていたのよ。芝居と芝居の間にうす汚れたドレスを着て、『マリネラ』を唄っていたわ"

記憶にもとづく話ですから、はっきりしないところがありますが、ここに挙げられている演目、どんどろ(傾城阿波鳴門)、与三郎(与話情浮名横櫛)、朝顔(生写朝顔日記)の杉田劇場での門三郎一座による上演は、新聞広告に載っている限りで言えば

傾城阿波鳴門 昭和22年5月11日頃〜
与話情浮名横櫛 昭和21年6月1日〜
生写朝顔日記 昭和21年8月9日〜

が最初です。

仮に言及されている演目の時に美空ひばりが出たというなら、いずれの興行も記録のある大高一座でのデビュー(4月9日)よりずっと後になりますから、デビュー日の特定には大きな影響はありません(ちなみに唄っていたという『マリネラ』はこんな曲)。


澤村鐡之助は昭和5年生まれだそうなので、引用文にある「二十歳くらいだったかしら」をそのまま受け取れば昭和25年になりますが、杉田劇場はすでに斜陽で経営が苦しく、美空ひばりも全国的な知名度を得ていた頃なので、時期としてはもっと早いと考えられます。

鐡之助自身、学校を出て磯子区役所金沢出張所に勤めていた頃に門三郎のもとを訪ねたそうですから、昭和21年から22年くらいではないかと思われます。そもそも金沢区が磯子区から分区したのが昭和23年5月なので、それ以前であることは間違いありません。


引用文のうち「出ていたのよ。芝居と芝居の間に」が、誰の何の芝居を指しているのかがわからないので困ります。門三郎一座に顔を出した頃に大高一座の舞台に出ていたひばりを見た、とも受け取れますが、素直に文脈通りに読めば門三郎一座の芝居の間に出たとする方が自然です。

以前にも書いたように、1月から3月末までの広告のない時期に門三郎一座が杉田劇場に出ていた可能性は高いので、その時、ひばりが出ていた可能性も同時に高まります。


『演劇界』の記事は、前段に同じ内容で

"私は門三郎さん(のちの白蔵)の一座に顔を出して、何の役でもいいから出して下さいと頼んだのです。すると澤村長十郎さんが阿古屋をしていらして、誰か後見がいないかしら、ってあたしがやらされました"

とあります。これが鐵之助の門三郎一座との最初の関わりだというのです。

阿古屋』も昭和21年の門三郎一座の広告には出てきません。記憶にもとづく話とはいえ、自身の初舞台についてですから、さすがに演目を間違えるようなことはないと思います。

なので、1月から3月の間に、門三郎一座が杉田劇場で『阿古屋』を含む興行をしていたのではないかと推測されるのです。


その時に美空ひばりが出ていたとなると、片山さんの証言とは異なり、大高一座の幕間より前に、市川門三郎一座の幕間で唄ったというのが最初、という可能性も出てきます。


記事はこう続きます。

"後日ひばりが出世して、ご自分が『男の花道』(註:『女の花道』の誤りか?)をした時に、関三十郎の役に門三郎を呼びましたよ、えらいわよね"

つまり、美空ひばりは杉田劇場での市川門三郎への恩や義理を感じて、後年、自分の出演作に門三郎を呼んだというのです。

もっとも、ざっくりと調べてみた範囲では、美空ひばりが『男の花道』をやったという記録が見当たらないし、『女の花道』には関三十郎は出ないはずです。もしかしたら映画『ひばりの三役 競艶雪之丞変化』に中村菊之丞役で出たことと取り違えているのかもしれません(『男の花道』『女の花道』でのひばりと門三郎の関係をご存知の方がいたらご教示ください)。

ちなみに、市川門三郎一座は杉田劇場で『男の花道』を上演しています。

1946(昭和21)年6月19日付神奈川新聞より

いずれにせよ(多少の誤解はあるにしても)ひばりが後年、門三郎と共演したのは、彼女が義理や恩を感じてのこと、と鐵之助は考えていたわけですから、時期の問題は別として、ひばりは門三郎一座の幕間でも舞台に立っていたと考えていいように思います。

(これまでの調査からすると、両者の接点として一番可能性の高いのは、昭和21年6月の市川門三郎一座の興行の際に、ひばりが幕間で舞台に出たということです。彼女の杉田劇場出演は3ヶ月続いたとされているので、4月から6月というのは時間的には符合します。ただし門三郎一座の新聞広告には加藤和枝の名前もミソラ楽団の名前もまったく出てこないのです)


美空ひばりの舞台デビューは昭和21年3月か4月の大高ヨシヲ一座の幕間、という地元で確定しつつある定説は、また少し揺らいできました。

「アテネ劇場でデビュー」という話は誤りが修正されつつありますが、一方で「大高ヨシヲ一座の幕間でデビュー」が事実として敷衍しつつあります。しかし、上の引用からして「市川門三郎一座の幕間でデビュー」の可能性も否定できなくなってきましたから、このあたりは地元の人間としてもう少し深掘りして調べてみたいところです。(→その2へ)



→つづく


「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真がさらに見つかると嬉しいです。