先日、大高調査の一環で、昭和13年の都新聞をチェックしていたら、こんな記事を見つけました。
| 1938(昭和13)年11月7日付都新聞より |
町田に収蔵されている台本にも名前のあった「尾上大助」についての記事です。
引用すると、この年の5月に横浜歌舞伎座での更生劇が終了した尾上大助は、
"自ら大将になつて横濱笑楽座を開けたところ、今度更生劇の延蔵、新之丞等が俄に横濱日活館出演が極まり、大助の體が必要になつたので、止むなく両方を駈持ちと極め、一日に日活館が三回、笑楽座が二回合計五回の働きに大助ヘトヘト"
なんだとか。
そんなことが本当にあるものかと、横浜貿易新報を確認してみたところ、まずは尾上大助らが笑楽座で興行を始めたという記事が見つかりました。
| 1938(昭和13)年11月2日付横浜貿易新報より |
続いて、日活館(旧喜楽座)でアトラクションとして更生劇による歌舞伎が上演されたという記事もありました。
| 1938(昭和13)年11月8日付横浜貿易新報より |
この記事中にも「大助」の記述がありますから、尾上大助は同時期に笑楽座・日活館のどちらの舞台にも出ていたわけで、どうやら都新聞の記事内容は正確なもののようです。
笑楽座は昭和5年、西前商店街(当時は中区、今は西区)にできた小劇場(定員248)で、現在の位置でいうと、湘南信用金庫藤棚中央支店の裏手あたりにあったそうです(小柴俊雄『横浜演劇百四十年』より)。
西前商店街(正確には西前中央商店街だそう)は、いわゆる「藤棚商店街」の一部らしいので、伊勢佐木町への移動は「藤棚」から市電を乗り継げばそんなに苦ではなかったと思います。とはいえ、移動した上に舞台に立つのですから、なかなかのハードワーク(?)だったことは間違いないでしょう。
笑楽座についての記事は、この劇場の観客は夕方になると晩御飯の支度のために帰ってしまうという「風習」を知らなかった大助らがひどく困惑したという話だし、日活館の記事は更生劇の面々が「大石内蔵助」山科の場を30分という超特急で上演しているのに苦言を呈しているのですから、都新聞の記事同様、どちらも笑い話のような批判(揶揄)のような内容ではあります。
それはそれとして、実は都新聞の記事にはかなり気になることが書かれているのです。
"大助は新國劇の丸茂三郎の實兄"
丸茂三郎という役者は新国劇の二枚目俳優で、残念ながら戦死してしまうのですが、生きていれば戦後の新国劇を支える重要な役者になっただろうと思われる人物です。昭和11年刊の『俳優大鑑』によれば、本名も丸茂三郎で、明治45(1912)年1月29日生まれだそうです。
その兄が尾上大助だというのです。
戦前の映画俳優のことを驚くほど精緻に調べておられる水沢江刺さんのXの投稿で、丸茂三郎の兄は「丸茂一郎」といって、松本時之助の名で映画俳優として活動していたと知りました(→こちら)。
手元にあるキネマ旬報の『日本映画俳優全集』にも「戦前、新国劇の幹部として活躍した丸茂三郎は実弟である」書かれています。また、上掲の投稿にもありますが、映画俳優ののちは本名の丸茂一郎に戻り、すわらじ劇園(一燈会を母体とした劇団)に参加していたそうです。
さすがにこれを尾上大助と同一人物だと考えることはできません。
となると、丸茂三郎には2人(以上)の兄がいて、ひとりは丸茂一郎、もうひとりが尾上大助ということになりそうです。ありうる可能性は、尾上大助は一郎と三郎の間、一郎の弟で三郎の兄ということです(順当に考えれば本名は「丸茂二郎」なのかしらん)。
前掲の『日本映画俳優全集』によれば、丸茂一郎(松本時之助)の生年は1903(明治36)年6月20日なので、尾上大助が次兄であれば、生年は両者の間、1904(明治37)年から1910(明治43)年の間と考えられます。旧杉田劇場に出ていた頃は30代後半から40代前半という感じになるのでしょうか。
さらにこの記事の冒頭には「故幸蔵門下の腕達者尾上大助」ともあります。
幸蔵とは昭和9年に亡くなった二代目尾上幸蔵のことだと思われます。幸蔵の屋号は大橋屋で、本名が大橋幸蔵だそうです。
「大橋」という姓と屋号には見覚えがあります。
町田で閲覧した旧杉田劇場のほとんどの台本には尾上大助の名前が書かれていましたが、その横に肩書きのように「大橋家」と印字されているものがあったのです。しかも台本のほぼすべてを脚色しているのは「大橋繁夫」でした(こちら)。
尾上大助が幸蔵門下だとすると、彼の屋号もまた「大橋屋」であったと考えられそうですし、大橋繁夫という人物も、尾上幸蔵と関わりのある誰か、ということになりそうです。
あの調査からずっと謎だった尾上大助と「大橋」の関係を知る手がかりがやっと見つかった気がします。
旧杉田劇場での歌舞伎公演に関しては、尾上大助がかなり大きな役割を担っていたように感じています。尾上幸蔵と大助の関係、また大橋繁夫の正体を探ることで、旧杉田劇場の動向がさらに詳細にわかってくるかもしれません。来年以降の課題ですが、大高調査と並行して、尾上大助の調査も進めて行きたいと思います。
さて、今年の投稿はこれが最後です。
2025年最初の投稿は1月8日の「美空ひばりのデビュー再考・その1」でした。ほぼ2週間に一度の更新ペースなので、28回の投稿はほぼ予定通りということになります。
結局のところ今年も大高の正体に迫ることはできなかったわけで、普通に考えればこの一年は無為な時間とも言えますが、結果的には、旧杉田劇場や周辺の劇場、はたまた戦後芸能界の動向なども知ることができ、さらには戦後の磯子のことがより具体的にわかるようになったのですから、個人的な思いとしては望外の収穫があった一年でした。
現杉田劇場で「いそご文化資源発掘隊」の講座をやらせてもらったのをきっかけに、歌舞伎(小芝居)のことを少し調べ始めたのもまた新たな展開で、大高だけではない杉田劇場の姿が見えてきたのも得たもののひとつです。
さらには、舘野太朗さんの情報から、町田で旧杉田劇場の台本を閲覧できたのも貴重な体験でした。また小針侑起さんから大事な資料をお借りできたことも、調査を前進させる大きな一歩となりました。
ご協力いただきましたみなさま、ありがとうございました。
基礎知識が不足しているせいでしょうが、調べれば調べるほど謎が深まる沼に陥っております(笑)
調査項目は増えるばかりではありますが、当面、
・大高よし男と近江二郎の最初の接点はどこか・尾上大助と旧杉田劇場はどういう関係なのか・美空ひばりは本当にアテネ劇場に出演したのか
といったあたりを重点項目にして、この先も飽きずにコツコツ調べていきたいと思います。
今年もこの取り留めのないブログをご愛読いただき、ありがとうございました。
来るべき年がみなさまにとって幸せに満ちたものとなりますよう。
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