(112) 『小芝居の思い出』再考

以前、劇評家・三宅三郎の『小芝居の思い出』に描かれた旧杉田劇場の様子について、このブログに書きました(→こちら)。

同書には

「私は終戦後、間もないころであったが、横浜市外の杉田劇場に行ったことがある」(国立劇場調査養成部芸能調査室編/歌舞伎資料選書5『小芝居の思い出』三宅三郎著 / 1981, p.126)

とあり、そこでは市川門三郎一座の芝居を見たのだと書かれています。「終戦後、間もないころ」の記述から、その時期を昭和21年か22年頃と推定していました。

杉田劇場での市川門三郎一座の新聞広告は昭和21年6月1日付のものが最初で、そこには三宅が挙げている演目が見当たらないばかりか、それ以降、昭和23年までの広告にも同じ演目がなかったので、逆に昭和21年1月から3月の、新聞広告をほとんど出していなかった時期に門三郎が杉田劇場に来演していて、それを三宅が見たのではないか、とも推測したわけです。


ところが、先日、昭和24年の調査をしているうちに、どうもその推測が間違っていたのではないかと思わせる広告に行き当たったのです。

『小芝居の思い出』には彼が見た演目として

「茂々太郎時代の九蔵と市川門三郎などの一座であった。九蔵の牛若丸、門三郎の弁慶で、義太夫の「橋弁慶」や「十六夜清心」などをしていた」(同書, p.126)

と書かれています。

そして、見つけた新聞広告は

1949(昭和24)年7月14日付神奈川新聞より

昭和24年7月14日から17日まで、杉田劇場の昼の部で『十六夜清心』と『橋弁慶』が上演されていたのです。

上の引用には『番町皿屋敷』についての言及がありませんが、これ以外に門三郎一座が杉田劇場で『十六夜清心』『橋弁慶』を上演した記録が見当たらないので、三宅が見たというのはこの舞台のことではないかと思われます。


杉田劇場に来た三宅を驚かせたのが、幕間に観客が潮干狩りをしていたということですが、実は上掲の広告が出る少し前、7月1日付の新聞に、杉田海岸の海の家が営業を始めたという記事があって、その中に

「梅雨もあがつたようなお天気つづきに、各海岸は潮干狩の人々でにぎわつているが、横浜杉田海岸も潮流異変で押し寄せたサバの子が逃げ場を失い、小さな子供でも手づかみで取れるので、思わぬ漁獲に人々は大よろこび」(下線筆者)

とあることから、三宅三郎が杉田劇場へ来た頃もまだ杉田海岸で潮干狩りをしていた可能性は高く、記述内容と合致するのです。

1949(昭和24)年7月1日付神奈川新聞より

やはり彼が杉田劇場に来たのは、昭和24年7月ということで間違いなさそうです。


ところが、推定していたより時期がかなり後ろにズレたことで、新たな疑問が湧いてきました。

前回も引用しましたが、三宅によれば当時の杉田劇場の客席は

「見物席は土の上に腰を下すのだが、後方の席は坐れるようになり」(同書, p.127)

となっていたそうです。

当初は昭和21年頃のことだと思っていましたから、開場すぐの杉田劇場には、客席前方に椅子がなかったのかもしれないと考えていましたが、これが昭和24年のこととなると話が変わってきます。

再掲になりますが、現存する昭和25年1月の写真を見る限りでは、後方のみならず前方の席にも椅子があるように思えるのです(背もたれのない長椅子のようなものか)。

旧杉田劇場客席:昭和25年1月19日(杉田劇場所蔵)

旧杉田劇場舞台:昭和25年1月19日(杉田劇場所蔵)

となると、前年夏まで椅子はなかったことになるのでしょうか?

さすがにそれはちょっと考えにくいことで、もしかしたら、夏場のみ暑さ対策で客席を取り払って土間に座ったということなのかもしれませんが、詳しいことはわかりません。

いずれにしても三宅三郎が「土の上に腰を下す」と書いているのだから、少なくともこの時期の市川門三郎一座の公演時には、客席前方の椅子はなかったということになります(旧杉田劇場で市川門三郎の舞台を見たという地元の方がいらっしゃるので、確認してみます)


なお、上掲の広告にある通り、楽日は昼夜で演目を入れ替えたようなので、7月17日の『十六夜清心』『橋弁慶』は午後5時以降の上演ですから、幕間の潮干狩というのは現実的ではありません。つまり、三宅三郎が来場したのは7月14日(木)から16日(土)のいずれかということになりそうです。


これまで、旧杉田劇場は株を発行した昭和23年8月にはすでに経営が傾き始めていたとされてきましたが、新聞広告をもとにプログラムをデータ化してみても、ほとんど絶え間なく興行が続いているし、三宅三郎の文章からも「場末感」は読み取れこそすれ「斜陽」を感じることはできません。

株式会社杉田劇場 株券/昭和23年8月1日発行(杉田劇場所蔵)

ただ、この年(昭和24年)の10月以降、杉田劇場の新聞広告は激減します。「映画演劇情報」欄にも杉田劇場の名が出る頻度が急激に下がります(ほとんどなくなったと言っていいほど)。はっきりとした事情はわかりませんが、この頃から経費削減が顕在化しているようにも思えるのです。

間辺典夫氏が緞帳を寄贈した時期も含め、杉田劇場の経営状況の推移については、もう少し精査した方がよさそうです。


→つづく
(次回は7/11更新予定)



「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(111) 藤村正夫、その後

劇団公演が終わって残務に追われていたため、今回もちょっと余録めいたお話です(スミマセン)。


大高亡き後、紆余曲折を重ねていた暁劇団は藤村正夫のもとで再起を図り、順調に公演を重ねていたことは前にも書きました(→こちら)。それが昭和23年の年末を最後にどういう事情か、藤村との関係が切れてしまったことも、ここでお知らせしたところです(→こちら)。


その後の藤村正夫がどうなったのかはわかりませんでしたが、意外なところでまたその名前を見ることになります。

昭和24年3月19日付の新聞に「河井劇団 大好評再上演」という広告が掲載されますが、ここに藤村の名前が出てくるのです。会場は「港映」。

1949(昭和24)年3月19日付神奈川新聞より

港映(こうえい)とは「港北映画劇場」の略称で、東横線妙蓮寺駅前にあった「菊名池」(いまも半分は残っていますが)のほとりに昭和21年10月開館した映画館です。もっとも、昭和30年代の明細地図では館の存在が確認できないので、旧杉田劇場同様、比較的短命の小屋だったと思われます。

どうやら港映は上掲の広告が出た時期に実演劇場への改装を進めていたらしく、その嚆矢が「河井劇団」だったのかもしれません。4月8日付の新聞広告では「設備完成の本舞台」という惹句が見られます。一般的に実演では入りが悪いので、客を呼びやすい映画館に改装、という流れが推測されがちですが、意外にもその逆の例もあったようですね(のちに「港映」は「妙蓮寺劇場」と改名し、市川門三郎一座の興行なども行なっています)。

1949(昭和24)年4月8日付神奈川新聞より

実はここに書かれている「河井劇団」というものがどういう存在なのか、さっぱりわかりません。この先の調査でわかってくることもあるかもしれませんが、いまのところは港映だけに突然現れた劇団という印象です(わかる方がいたらぜひ教えてください)。

劇団名の横に「横浜(?)歌舞伎直営の」という文言がありますが、この意味もよくわかりません。横浜大空襲で焼失するまで、日吉良太郎一座が根城にしていた劇場が「横浜歌舞伎座」ですから、その流れなのでしょうか。もしかしたらこれもまた銀星座の自由劇団のように日吉劇の残党による劇団だったのかもしれません。


余談になりますが、この日(4月8日)、港映の広告の隣には、横浜国際劇場の「松竹歌劇団」があり、その横には横浜オペラ館での星十郎の「新星座」公演が並んでいます。

1949(昭和24)年4月8日付神奈川新聞より

星十郎は『日本映画俳優全集』(キネマ旬報社刊)にも名前が掲載されている役者で、後年は映画やテレビドラマなどでも大活躍した人ですが、この時期、横浜オペラ館で頻繁に公演をしています。

なぜ横浜なのか、ずっと不思議に思っていましたが、戦前の新聞記事をひもとくと

「前名美崎重郎、甲府の生れ、十七歳の時日吉良太郎一座に初舞臺。昨年より古川ロッパ一座に入り二枚目役を勤む」

とあることから、もともと日吉劇との縁があったために、戦後、横浜での舞台が多かったということなのかもしれません。

1941(昭和16)年5月4日付神奈川県新聞より

手元にある昭和12年の日吉良太郎一座のプログラムにはたしかに「美崎重朗」の名前があります(新聞記事では「重郎」とありますが、実際は「重朗」だったようです)。

星十郎は1917年、甲府生まれなので、17歳で日吉劇に入座したとすれば、単純計算で1934(昭和9)年ですから、1933年に日吉良太郎が横浜に進出する頃、役者の道に進んだということになります。甲信地方で絶大な人気があり「信州の団十郎」の異名をとった日吉良太郎に憧れて、青年時代の星十郎が劇団の門を叩いたと考えられそうです。


さて、話を戻すと、河井劇団に参加した藤村正夫は、どうやらこの劇団との関係も短命だったようで、同年6月29日初日の銀星座・自由劇団の広告に「巨星 藤村正夫」として名前が登場します。出戻りの出戻りみたいな感じで、藤村はこれ以降、再び自由劇団に参加することになるのです(ちなみにその横の「元老 渡辺実」も日吉劇の重鎮)。

1949(昭和24)年6月28日付神奈川新聞より

どうも藤村正夫という人は、ひとつ所に落ち着いて、というよりは、あちこちを渡り歩く性癖(?)がある役者だったのかもしれませんね。

それはそれとして、藤村正夫、星十郎、自由劇団…戦後まで続く影響を思うと、あらためて日吉良太郎一座の横浜演劇界での存在の大きさを感じるところでもあります。


そんなこんなで、今回もまたちょっと余談めいたお話でした。




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(110) 杉田劇場のロビー掲出資料

自分の劇団の公演が近いので、十分な調査時間が取れず、今回はちょっと余録みたいなお話。


現杉田劇場(横浜市磯子区民文化センター)のロビーには、片山茂さんから寄贈された資料が掲出されています。旧杉田劇場の舞台に美空ひばりが立った際のポスターなど、大変貴重なものです。しかし、以前、このブログで「大高の遺児」とされてきた写真が、実はまったくの誤解だったと書いたように(こちら)、掲出されている資料のキャプションにはいささかあやしいものがあります。

現杉田劇場も、開館からすでに20年を越えましたので、寄贈された当初(開館当時)の職員はおらず、キャプションの根拠となる証言(資料)や、そもそも誰がこれを書いたのかもよくわからないのだそうです。


その中で、ずっと気になっていたのは、杉田劇場が出した株券と一緒に展示されている市川門三郎一座のチラシ(?)です。

市川門三郎一座チラシ(寄贈:片山茂氏)

ここには演目と配役一覧と日程が書かれていますが、年号の記載がありません。いつのものだったのかがはっきりしなかったのです。

と、戦後の杉田劇場の新聞広告をずっと追いかけていたら、先日、ようやくこのチラシとの照合ができました。

これは昭和23年12月の「歳末特別興行」と題された公演のものだったのです。

1948(昭和23)年12月21日付神奈川新聞より

1948(昭和23)12月25日付神奈川新聞より


チラシには「御好評に依り 市川門三郎 日延べ」とだけありますが、12月25日の広告には演目も書かれています。逆に新聞では日延べの正確な日程がわかりませんでしたが、チラシにははっきりと

「廿四日 廿五日(二日間)」

と書かれています。


21日から23日までが本来の「歳末特別興行」、好評を受けて2日間の日延べをし、24日と25日に『重の井子別れ』『新皿屋敷』を上演したということのようです。

好評だったから大入袋が出て、それも一緒に展示されているということなのでしょうね。

ちなみにこの年、門三郎一座の日延べ興行の後は、12月26日〜29日が「湊川みさよ歌劇団」のグランドレビュー『吉田御殿』。30日は休館で、大晦日から市川雀之助一座の初春興行が始まります。


さて、ロビー掲出資料でもうひとつ気になっていたのは、杉田劇場の緞帳とそれを描いた間辺典夫氏の写真です(ご本人の寄贈)。

キャプションにもありますが、緞帳が完成・寄贈されたは昭和23年で、その際にこの写真を撮ったと伝わっています。

これも正確な時期を裏付ける証拠がなかなかありませんが、写真の右隅に演目の書かれたボードがわずかに見えるので、これを手がかりに調べてみれば撮影時期が判明しそうです。


そこで例によって新聞記事を追ってみたら、昭和25年1月13日付の神奈川新聞の「映画演劇情報欄」にこれと思われる演目があったのです。

そこに記載されていたのは

「肉欲」(新派)
「天保白浪」(剣劇)
「日本晴れ」(喜劇)

の3本(13日〜16日興行)。

杉田劇場のウェブサイトにも出ている上掲の写真では右端が切れていてよくわかりませんが、ロビーに掲出されている写真をよく見ると、その部分がはっきり写っています。

上記広告の演目で間違いなさそうですね。

しかし、これが緞帳寄贈の際に撮影された写真だとすると、時期は昭和25年1月ということになります。これまで「昭和23年」と書かれていたキャプションとは1年以上の誤差が出てしまいます。

もちろん寄贈時ではなく、後年に記念撮影したものとも考えられますが、これほかに正面からの緞帳写真もあることからして、寄贈時に同時に撮ったと考えるのが妥当かなという気はします(キャプションの修正が必要かもしれません)。

これらの資料は旧杉田劇場や大高よし男のことを調べる上で、重要な一次資料になりますから、これからも細かく調べていきたいところです。


そんなこんなで、今回は杉田劇場のロビー資料をめぐる、ちょっと余談めいたお話でした。



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(109) 大高は蒲田にいたのか?

「東京新聞・中日新聞記事データベース」で、過去記事が閲覧できるようになったので、横浜からでも名古屋圏の新聞が見られるようになったのと、都新聞が東京新聞になって以降の記事も確認できるようになりました。

(嬉しい)

もっとも名古屋については、情報のほとんどが『近代歌舞伎年表』の名古屋篇に収録されているので、新たな発見はありませんでしたし、大高よし男の記述も見つかりませんでした。

ただ、文字情報だけではなく、実際の記事や広告を見ることで、その公演の性格がわかることもあって、意義深いものはあります。今後、小さなネタを重ねて、いずれこの場で報告できればと思います。


一方の東京新聞ですが「都新聞」は新聞事業令により強制的に「國民新聞」と統合され、昭和17年10月から「東京新聞」となったので、都新聞の縮刷版やマイクロフィルムでは、それ以降のデータが閲覧できない状態でした。

大高よし男に限っていえば、昭和18年3月に浅草金龍館で、伏見澄子一座に加盟参加していることから、この広告や劇評を確認することが、調査の重要ポイントでしたが、横浜ではこれが閲覧できず、もどかしい思いをしていたところです(国会図書館に行けばいいだけの話なんですけどね…)。

データベースの閲覧ができたことで、新規の情報が得られると期待はしたものの、実際は既知の公演のいくつかの広告に「大高よし男」の名前を確認したことと、演目が判明したことくらいで、大高のプロフィールや活動内容に関わる新しい発見は、残念ながらありませんでした。


ところで、関東圏における大高調査の、最後の「未踏の地」だったのは、神奈川新聞で時折短文の記載があった蒲田「愛国劇場」です。ここはもともと映画館だったのが昭和17年7月1日から籠寅興行が経営する実演劇場となった小屋で、お隣の川崎大勝座、横浜の敷島座と並んで、籠寅の興行戦略上、京浜地区の重要拠点になっていたようです。実際、出演する役者の顔ぶれは、多くが大勝座、敷島座と重なっていて、近江二郎、伏見澄子など、大高と縁の深い座長もたびたび舞台に立っていました。

1942(昭和17)年6月25日付都新聞より

大高よし男は、昭和18年5月いっぱいまで京都三友劇場の舞台に立っていましたが、それ以降の消息がわからなくなります。これまでの調査で神奈川県内では足跡がまったく見つからない上に『近代歌舞伎年表』を精査しても、大阪・京都・名古屋のいずれの地にも彼の名前は登場しませんから、可能性としてもっともありそうなのは東京(浅草)ということになります。

しかしながら、もし浅草の舞台に立っていたなら、新聞を精読するなんていうことをせずとも、もう少し早く情報が掴めそうなものです。実際、東京新聞のデータベースから浅草の劇場を調べてみても、昭和18年初夏以降、大高の名前を確認することはできません。つまり京都の後、大高が浅草の劇場に出ていたとは考えにくいのです。

わかっている範囲での活動履歴から、彼が籠寅の所属俳優だったことは想像できますので、浅草以外と考えると、ありそうなのが蒲田。つまり上述の愛国劇場ということになります。そしてその愛国劇場の全貌を知る上で、期待すべきは東京新聞ということになるわけです。

もっとも、姉妹劇場ともいうべき大勝座や敷島座に大高の名前が出てこないことから、そもそもが愛国劇場も期待薄ではあるばかりか、蒲田は東京の中心部から離れているということで、内容は情報欄に載るだけで、広告はほぼ出ません。ハナから情報は限られています。

1944(昭和19)年3月1日付東京新聞より


そんなこんなで、結局、蒲田にも大高の名前を見つけることはできませんでした(経験上、もう一度見落としがないか確認した方がよさそうだけど)。やはり昭和18年6月以降に出征したという可能性が一番高そうです。


ただ、かすかな可能性があるとしたら、以下の新聞記事です。

1943(昭和18)年7月17日付東京新聞より

松竹が青年俳優を集めて合同公演をするというものです。

基本的には歌舞伎や新派の役者のことを想定しているのでしょうが、同年2月に松竹と籠寅が提携して「昭和演劇株式会社」を作っていることを思えば、大高のような役者がここに参加していたとしてもおかしくない気はします(ちょうど大高が三友劇場での公演を終えたすぐ後という時期でもあるし)

また、翌年1月にはこんな記事も出ます。

1944(昭和19)年1月27日付東京新聞より

昭和演劇(事実上「籠寅」)の所属劇団が一年を通じて移動演劇に注力するという内容です。ここにも大高が何らかの形で参加していそうな気がしてきます。

どうやら、この線を調べていくのが、次のステップになるのでしょうか。とはいえ、移動演劇については具体的な資料が少ないので難航しそうです。


そんなこともあって、戦前の調査は暗中模索で停滞しがち。この先ひとまずは、またしばらく戦後に戻って、暁劇団のその後を調べ、その中から大高の生前の姿を逆算していきたいと思います。

なお、愛国劇場の広告には「京浜出村駅前」とありますが、これは現在の京浜急行・京急蒲田と雑色の間にあった駅で、1945年戦災の影響で休止、1949年に廃止となったそうです。




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(108) 人間ポンプ、ふたたび

何かと話題の大阪万博にちなんでというわけではありませんが、今回は博覧会ネタ。


戦後の横浜では、戦災からの復興を期して、3ヶ月にわたる「日本貿易博覧会」が開催されました(1949(昭和24)年3月15日〜6月15日)

1949(昭和24)年3月16日付神奈川新聞より

会場は野毛山と神奈川(反町)の二カ所。

博覧会ですから、今でいうパビリオンがさまざまな展示を行っていたわけですが、そのほかに、野毛山には「野毛山ホール(小劇場)」「野外劇場」「水中レビュー館」、反町には「演芸館(芸能館)」などがあって、レビューやら見世物やらお化け屋敷やら素人芸能大会やら、連日盛りだくさんのイベントが行われていたそうです。

特に神奈川会場の演芸館は東宝の直営で、エノケン一座などの興行も行われました。1,500名収容といいますから、事実上の「大劇場」だったのでしょうね。

その建物はもともと土浦海軍航空隊の格納庫だったのを貿易博のために移築したのだとか。博覧会後は体育館となり、のちには横浜市民に馴染み深い「神奈川スケートリンク」として長く使われていました(2014年閉館・改築)。いまになって思い起こせば、なるほどスケートリンクにしてはちょっと変わった形状の屋根が印象的でした。


上掲のように、当然ながら当時の新聞では、貿易博が大きなニュースとして取り上げられていました。関連記事も連日掲載されましたが、その中にちょっと目をひくものがありました。

貿易博の各施設におけるイベント(余興)に参加する芸人・芸能人たちの座談会です。

1949(昭和24)年3月29日付神奈川新聞より

記事の見出しにもあるように、なんとこの中に「人間ポンプ」こと、あの有光伸男が夫人、マネージャーとともに登場するのです!

同上

同上


人間ポンプ・有光伸男といえば、以前にもこのブログに書きましたが(こちら)、1941(昭和16)年、伊勢佐木町・敷島座の9月興行に松園桃子一座が来演した際、幕間の舞台に出ていた人で、その時の松園一座には高杉弥太郎時代の大高よし男も参加していたので、大きな意味で言えば、大高と共演していたと言ってもいい異色の芸人です(昭和17年1月にも川崎大勝座で大高と共演→こちら)。

鉄の胃を持つ男として浅草はじめ、全国的に人気のあった芸人といえましょう。

1941(昭和16)年9月15日付神奈川県新聞より

人間ポンプ有光伸男
1941(昭和16)年8月25日付神奈川県新聞より

そんな有光が、戦禍を生き延び、ふたたび「人間ポンプ」として横浜の舞台に登場したというわけです。大高の共演者という意味でも、感慨深いものがあります。


さて、戦後のこの記事では、有光の紹介もなされますが、胃の謎については九州帝大で診察(研究調査)をしてもらったことなど、戦前の情報とほぼ同じもので、こんなことがマネージャーの井口一夫氏によって語られます。

"有光は胃の中でも甘い辛いがわかるのです 九州帝大で診てもらった結果、学問的に神経過敏症というのだそうですが、刃物なぞ呑んでも粘液が多く出てくるんでしまうのであぶなくないのです"(原文ママ)

有光本人によれば、こうした芸ができるようになったのは

"七ツ位からですが、親兄弟みんな食べたものは牛みたいに反すうすることが出来ます。子供の時からサーカスが好きで興業に身を投じたのですが、一時教員をやつていた母に勘当されたこともあつた"(原文ママ)

のだそうです。

さらには、このブログとの関わりの中で、興味深い発言もありました。

"戦時中は健全娯楽でないと軍に止められたので、関東では十年振りです"

10年ということは、大高と同じ舞台に立った昭和17年あたりを最後に関東の舞台からは遠ざかっていたということなのでしょうか。

当時は、戦争にともなう大衆の不満が軍に向かないよう、政府がしきりに娯楽を奨励していました。戦時中というと歌舞音曲の禁止、といったイメージですが、むしろ庶民の目を逸らすための娯楽が盛んに行われていたのです。

とはいえ、人間ポンプのような芸は「健全娯楽ではない」と断じられていたことがこの発言からわかります。剣劇なども制限を受けていましたが「健全」を誰が決めるのか、また「不健全」の基準がどこにあるのか、いずれもよくわからないところで、有光もずいぶん悩まされたのだろうと推察します。


発言の中に「関東では」という保留のある通り、『松竹七十年史』によれば、昭和18年8月・弁天座(大阪道頓堀)、昭和18年9月・松竹劇場(京都新京極)に人間ポンプの記録がありますので、関西方面ではまだ活躍の場があったようです。

地方都市での興行もあったのだろうと推測されますが、浅草や横浜の興行が禁じられたのですから、苦しい時代だったことでしょう。

(その後の調査で、昭和18年7月16日付の東京新聞「八月の大衆劇壇」の欄にも有光の名前がありましたが、「警視廳が許可すれば人間ポンプ有光伸男が加はる」とあることからも、彼の置かれた状況が垣間見えます)


ところで、戦後のインタビュー記事によると有光伸男は「非常に立派な体格をしている」のだそうです。対談に同席していた夫人は

"舞台が終つて鶴見の花月園に帰るときは坂道を私を背負つて帰つてくれますわよ"

と、惚気話のようなことも話しています。

上掲、昭和16年の新聞記事には、敷島座に来演した有光が「殊の外、横濱が好きになつて朝早くから市中の名勝を探つてゐる」とありますので、そんなのもあって鶴見の花月園あたりに居を構えたのでしょうか。

いずれにしても、大高がらみで注目していた有光伸男が横浜に再登場したというのは、身内でも関係者でもないのに、なんだかとても嬉しくなってしまいます。


さて、華々しく開幕した日本貿易博覧会ですが、収支でいうと大きな赤字で、その後の横浜市の財政をかなり苦しめる結果となったようです。

しかし、閉幕後、貿易博の施設が「野毛山動物園」や「野毛山プール」(2010年解体)、前述の「神奈川スケートリンク」(2014年閉館)など、数々の市民利用施設に転用されたことを思うと、長い目で見れば、横浜市民にとっては意味のある博覧会だったのかもしれません。

そういう記憶もすっかり薄れてしまいました…





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(107) 『今昔十二ヶ月』と近江二郎

暁劇団が素っ気ない名前の「杉田専属劇団」になった頃、昭和24年3月、劇団名や役者の名前なしに、演目だけが書かれた異色の新聞広告が出ます。

その前後にはそれまでと同じスタイルの広告が出ているので、これは単にスペースの問題で、同じ劇団つまり劇団新歌舞伎と杉田専属劇団の合同公演のものだと考えていいでしょう。

ここに記されているのは「名作アルバム 今昔十二ヵ月」という演目です。

昭和24年3月15日神奈川新聞より

1月から12月まで、各月にちなんだ名作舞台作品のさわりを連続上演するというプログラムで、「幕間ナシ 三時間半」とあることから、1作品およそ15分強を12本並べた形だったと思われます。

実はこの演目名、ちょっと珍しいので、見覚えがありました。

資料をひっくり返してみると、昭和17年7月に浅草の松竹座で上演された不二洋子一座の演目がこれと同じなのです(こちらは「名狂言抜粋 今昔十二月」となっていますが)。不二洋子一座の公演資料(新聞広告)をチェックしていたのは、そこに近江二郎が加盟出演していたからです。

昭和17年7月7日付都新聞より

大高一座(暁第一劇団)の支配人・大江三郎が、もともと近江二郎一座の文芸部員であったことは何度か書きました。上掲広告の、不二洋子一座の興行にも大江三郎がいたことは、ほぼ間違いないと思います。『今昔十二月』は二の替りで上演されたもので、その前、七月の御目見得興行では大江三郎の作品(『母子鳥』)も上演されています。ですから、不二洋子一座の七月興行には近江一座の文芸部員として大江三郎がいて、もちろん『今昔』の時もいたはずなのです。

そんなことからも、戦後、杉田専属劇団がこの作品を上演したのは、大江三郎の発案だったのかもしれません。鈴村義二が提案した可能性もありますが、大江三郎の方がこの作品のより近いところにいたわけですから。いずれにしても、戦前の浅草の不二洋子一座の演目が、終戦を挟んで杉田劇場に登場したのが、昭和24年3月の興行なのです。


杉田劇場での『今昔十二ヶ月』の演目は以下の通りです。

1月 『三河万才』
2月 『三人吉三』
3月 『恋の皿屋敷』
4月 『金比羅代参』
5月 『不如帰』
6月 『白浪五人男』
7月 『白虎隊』
8月 『忠治赤城の月』
9月 『■小袖』(晴小袖か?)
10月 『鈴ヶ森』
11月 『秋の踊り』
12月 『清水一角』


一方、戦前の不二洋子一座の方では

1月 所作事『羽根の禿』
2月 湯島の梅『婦系図』
3月 尊王櫻『児島高徳』
4月 不如帰『逗子の海岸』
5月 富士の五月雨『曽我兄弟』
6月 乱舞の牡丹『連獅子』
7月 ■原の夏『乃木将軍』
8月 月の五條橋『辨慶と牛若丸』
9月 悲愴飯盛山『白虎隊』
10月 赤城の紅葉『國定忠治』
11月 青柳硯『小野道風』
12月 雪の曙『清水一角』

重なる演目は『不如帰』『白虎隊』『国定忠治』『清水一角』の4本。さすがに、まったく同じものはできなかったのでしょう。座組の関係はもちろん、版権への配慮などもあったのかもしれません。

杉田劇場の広告には、不二洋子一座にあった「秋元六通 構成脚色」の文言がありません。月毎に名作のさわりを上演するというアイデアだけをもらって、中身は大江三郎が構成したということなのでしょうか。

余談ではありますが、この秋元六通という人、調べてみたら、不二洋子一座の文芸部員・高梨康之のペンネームという記録が出てきました(『著作権者名簿』昭和42年度版, p.391)。ということは、この作品は不二洋子一座のオリジナル作品と言っていいのでしょう。いずれにしても大江三郎にとっては戦前の浅草の、思い出の作品だったと思われます。


ところで、少し前に近江二郎の実弟・近江資朗のご家族からお話を聞いた際、保管されていた写真をお借りしたことがありました。すべてデータ化させてもらいましたが、その中にいくつかの舞台写真があったのです。

それがなんの舞台なのか、わからないものも多くありましたが、今回の調査の中で、改めてその写真を見返してみたら、舞台写真の大半が不二洋子一座の『今昔十二月』のものだとわかりました。

当時の新聞に載った劇評や配役表と写真を対比すると、さらにいろいろなことがわかってきます。

配役一覧:1942(昭和17)年7月10日付都新聞より


というわけで、近江資朗旧蔵写真から。

まず最初に一番わかりやすいのはこれでしょう。


いうまでもなく、10月の『國定忠治』の舞台写真です。

配役を見ると忠治は田中介二。後掲の劇評にも"田中介二の国定忠治の「赤城の山も今宵限り」は余りに気張りすぎて、これは見る方が面映ゆい位"と書かれていましたから、ここに写っている忠治は田中介二で間違いないでしょう。評の通りかなり気合の入った様子が見て取れます。


次にわかりやすいのはこれです。


8月の『辨慶と牛若丸』。これも配役を見ると、弁慶が不二洋子で牛若丸が不二時子。姉妹共演の舞台写真です。


これも比較的わかりやすいもので


4月の『不如帰』です。配役は川島武男が田谷耕一、浪子が中村扇子。


続いてわかりやすいのは

11月の『小野道風』です(『小野道風青柳硯』)。小野道風は濱原義明。


つづいてこちらは


5月の『曽我兄弟』。五郎が澤井五郎、十郎が大島伸也とあります。


この先はちょっとわかりにくいところです。


舞台装置などからして7月の『乃木将軍』だと思われますが、不勉強ではっきりはわかりません。配役を見ると乃木将軍は近江二郎。


そしてこれは、広告で「乱舞の牡丹『連獅子』」とあるものだと思われますが(背景幕も牡丹)、どうも連獅子のようには見えません。劇評を読んでみると、そちらには「勢獅子」と書かれていて、ようやく腑に落ちました。

中央、獅子頭を持っているのが不二洋子、その左が河村陽子。

と、以上が近江資朗旧蔵写真のうち、不二洋子一座の『今昔十二月』と思われる舞台写真です。


さて、この『今昔十二月』公演については、都新聞に写真入りで比較的長い劇評が掲載されています。

1942(昭和17)年7月16日付都新聞より

実は上掲の五條橋(弁慶と牛若丸)の写真は、新聞の劇評の中に掲載されている写真とまったく同じなのです(対比してみました)。やはりここに挙げた写真は『今昔十二ヵ月』の舞台写真で間違いなさそうです。

左:都新聞/右:近江資朗旧蔵写真

新聞社が撮って劇団員に焼き増ししたのか、劇団側が撮って新聞社に提供したのか。あるいはブロマイドや絵葉書として販売していたものなのか。いずれにしても近江資朗家に長く保管されていた当時の貴重な舞台写真です。


さて、この劇評にはこれらがどんな上演だったのか書かれています。

"歌舞伎、新派、舞踊等の一般に馴染深い場面を月々に因んで並べたもので、要はレビューのヴァラエテイみたいなものだが、ヴァラエテイにしてはそのツナギが暗輾の一點張りの上に、終始変らぬ黒バックに、切出しを押出しての舞薹構成"

だったそうで、

"気が変らず、せめて時には廻舞薹くらい使って、気の利いた輾換ができなかつたかと思ふ"

となかなか手厳しいものの、舞台の様子はよくわかります。大黒幕に書き割りなどのシンプルな舞台装置を出し入れして、舞台転換をしていたようです。

杉田劇場でも同じようなスタイルで上演していたのかもしれませんね。


ところで、これらの写真が一部変色しているのは、昭和30年代に近江資朗の井土ヶ谷の家が火事になった際に焦げてしまったものだそうで、それでもよく残してくださったのはありがたい限り。実はまだほかにも何枚かあったらしいのですが、『四谷怪談』などはあまりにも気味が悪くて処分してしまったのだとか。おそらく近江二郎一座の「グロテスク劇場」時代のものでしょうから、ちょっと惜しい気はします。

とはいえ、これだけの写真が残っていると、これまで確認できていなかった役者たちの姿もよくわかって、当時の舞台が一層身近に感じられるところです。


そんなこんなで、今回は戦後、杉田劇場で上演された『今昔十二ヵ月』から、戦前の不二洋子一座の舞台につながるエピソードでした。



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(106) 杉田専属劇団

前回書いたように、大高よし男の三回忌追善興行ののち、暁第一劇団(暁劇団)は藤村正夫を迎えて再出発します。昭和23年の年末には杉田劇場に引き続いて、横浜オペラ館でも公演するなど、藤村との蜜月というか、劇団運営の順調ぶりが感じられます。

ところが、翌年、昭和24年に入ると突然、広告から藤村の名前が消えてしまうのです。

何があったのかはわかりませんが、何かあったことは容易に想像できます。

藤村正夫の名前が消えると同時に「暁劇団」「暁第一劇団」「暁座」の名称も姿を消します。その代わりに登場したのが

「杉田専属劇団」

という味も素っ気もない劇団名です。

1949(昭和24)年1月13日付神奈川新聞より

新聞広告しか手がかりのないものですから、これがどんな劇団なのかさっぱりわからないのですが、もともと大高一座(暁第一劇団)が杉田劇場専属の劇団であったことからすると、その流れだろうことは容易に推測できます。


一方で、前年、杉田劇場に「同生座」の名前で華々しく登場した「鳩川すみ子・朝川浩成」のコンビは、これまた華々しく銀星座に登場します。もともと日吉良太郎一座にいた二人ですから、これでめでたく古巣に戻ったということになるのでしょうか。

1949(昭和24)年1月18日付神奈川新聞より

逆にこの時期を境に、かつて杉田の暁第一劇団から銀星座の自由劇団に移った「壽山司郎」の名前が、自由劇団の広告の連名から消えてしまうのです(12月22日から鳩川・浅川が自由劇団に参加するという広告の後、壽山の名前が消える)。

いったい何があったのだろう…

1948(昭和23)年12月14日付神奈川新聞より
この広告まで座員連名の中に「壽山」の名前がある

広告を追うだけでも離合集散の劇団事情が垣間見えるようです(もしかしたら壽山は杉田専属劇団に復帰したのかもしれない)。


さて、上掲のように杉田専属劇団が初登場するのは「劇団新歌舞伎」という劇団との合同公演です。「劇団新歌舞伎」はメンバーからして、おそらく戦前の横浜歌舞伎座の更生劇や金美劇場の「新進座」の流れと考えていいと思います。開館当初の銀星座にもほぼ同じメンバーが「御當地おなじみ 新歌舞伎」として出演しています。

1946(昭和21)年6月12日付神奈川新聞より

大高亡き後の杉田劇場はさまざまな手を打ちますが、歌舞伎だけではダメ、暁劇団の再生も不調、という経験を重ねた結果、歌舞伎と剣劇・新派を組み合わせた番組で勝負しようと考えたのかもしれません。いずれにしても、このあと、しばらくは歌舞伎と専属劇団の合同公演でプログラムが組まれていきます。


杉田専属劇団と劇団新歌舞伎の合同公演は、2月に入ると広告にも惹句が増えて情報量が多くなります。

そしてその中に

「高島小夜里」

という名前が登場します。

1949(昭和24)年2月8日付神奈川新聞より

見覚えのあるこの名前、実は大高一座のポスターの中に出てくる役者の名前と同じなのです。

所蔵:杉田劇場

所蔵:杉田劇場

高島小夜里は大高一座の座員だったわけですから、「杉田専属劇団」はやはり暁第一劇団の残党による団体と考えてよさそうです。

大高の後継者として、さまざまな座長候補をトップに据えて再起を図りますが、いずれもうまくいかず、最終的には自分たちだけでやっていこうと思ったのかもしれません。人気のあった座長の後釜に入るのはなかなか難しかったのかな、なんていう想像も働きます。

(追記:その後、よく見たら広告の「晴小袖」の惹句には「燕之丞尾崎梅川高島」とあります。燕之丞は「片岡燕之丞」で、梅川が不明なものの、「尾崎」はポスターにある「尾崎幸郎」、「高島」は「高島小夜里」でしょう。梅川も「藤川(麗子)」の誤植かもしれません)


2月下旬になると、広告から「杉田専属劇団」の名前が消えてしまいますが、演目からして歌舞伎の一座がやったとは考えにくいものもあることから、広告には記載しないものの、やはり合同公演の形は継続していたと思われます。

1949(昭和24)年2月26日付神奈川新聞より

そしてこの「杉田専属劇団」は4月下旬になると突然「港劇団」という名前を付け加えるようになります。

1949(昭和24)年4月22日付神奈川新聞より

最初これは「暁劇団」の誤植ではないかと思っていましたが、その後、日をおいて何度も登場することから、間違いとは考えにくく、この時期、大高一座はとうとう「暁」の名前を捨て、新しい名前のもと、再スタートを切ったと考えてもよさそうです。

ここまでの流れを見ると、三回忌を機に、さまざまなやり方で大高の影響からは決別して、独り立ちしようという劇団の決意みたいなものも感じるところです。


ところで、杉田劇場は昭和23年8月に株券を発行して資金集めをはかっていることや、片山さんの証言などからも、この頃には劇場が経営不振に陥っていた、というのがこれまでの定説でしたが、新聞広告から一年を通じての番組をデータ化してみたところ、昭和23年はほとんど休みなく公演が入っていることがわかりました。

1948(昭和23)年の杉田劇場スケジュール(抄)

とても経営不振には見えないし、賑わいが失われたようにも見えません。個々の興行の入りがどうだったかはわかりませんが、少なくとも劇場は連日オープンしていて、ほぼ毎日なんらかの公演が行われていたことは間違いありません。

昭和23年には、一時的にエロに傾斜して「りべらるショウ」などを上演したり、集客が見込まれる映画も何度か開催されていますが、年間を通じたプログラムを眺めると、やはり歌舞伎や剣劇などの興行が圧倒的に多く、年の後半になるとエロもほとんど消え、完全に実演劇場として経営していたことがわかります。

今後の調査によりますが、杉田劇場の経営難が表立ってわかるようになるのは、昭和24年以降なのではないかと思われます。


杉田劇場に限らず、近隣の劇場も名前を変えたり、プログラムを工夫したり、試行錯誤している時期ですから、苦境は杉田に限ったことではなく、むしろ先行していた上に、市のはずれという立地ながら、杉田劇場は健闘していた方なんじゃないかとさえ思えるところです。



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