(16) 大高ヨシヲをめぐる人々(3) 〜伏見澄子〜

窪田精『夜明けの時』は、著者の自伝的小説です。あとがきには「いわゆる自分史といったものではない。小説である」と書かれていますが、経歴と照らし合わせてみると、自伝とフィクションの割合は8:2くらいじゃないかと思われます。

簡単にまとめれば、昭和13年から15年までの、青年の成長と挫折の物語、ということになるのかもしれませんが、舞台の多くが大衆演劇の劇団で展開するので、かなり異色な小説と言えそうです。

しかもその劇団が、伏見澄子一座であり、小説の本編が伊勢佐木町の敷島座から始まるのですから、伏見澄子一座に助演していた大高ヨシヲを探すプロジェクトとしては、渡りに船のような絶好の資料となるわけです。

もっとも、大高ヨシヲ(大高よし男)が伏見澄子一座の舞台に出ていたのは、昭和17年から18年にかけてですから、この小説の時代より数年後のこと。実際、読み終えてみると大高らしき人物は登場しませんし、ヒントもあまり見つからなかったというのが正直なところです。

とはいえ、もともと資料の少ない伏見澄子の人物像や周囲の人々の姿、また、当時の劇団の活動状況などが、まさにその場に居合わせた当事者の視点で詳細に書かれているので、小説ながらとても貴重な記録だと言えます。


さて、まずは伏見澄子についての基本情報。

たびたび引用する『演劇年鑑』(昭和18年版)によれば

伏見澄子(大場タミヨ)
明治43年 広島出身
昭和演劇所属
大阪市港区東田中町*ノ***

という経歴。

以前((10)大高よし男の軌跡)にも引用した、森秀男『夢まぼろし女剣劇』(筑摩書房, 1992)によれば

"大阪新世界の小さな劇場に出ていたのを籠寅演芸部の保良浅之助が見つけ、大江美智子、不二洋子につづく女剣劇のスターとして売り出しを図った。まず道頓堀の弁天座、浪花座あたりで人気を集め、横浜の敷島座を経て浅草に進出してきたのである"

ということですから、浅草で売れる前の伏見一座の姿が小説『夜明けの時』に描かれていることになります。

同書(『夢まぼろし女剣劇』)では

"伏見澄子は(昭和)十五年八月に公園劇場、十六年七月、八月に松竹座へ出たが、わたしはみていない。そしてそれ以後、東京の舞台から姿を消してしまった。結婚して家庭に入ったらしいが、くわしいことは不明である"

と書かれていますが、小説の時代背景は昭和13年から15年で、そこには大場章二郎という一座の大夫元(運営を担う興行責任者)がいて、伏見澄子の夫とありますから、昭和16年以降「結婚して家庭に入ったらしい」という情報は誤りでしょう(伏見の本名からして「大場タミヨ」だし、昭和17年と18年にも公演記録があります)。

ところで伏見澄子の所属が「昭和演劇」となっていますが、これは保良浅之助の籠寅興行と松竹が合同で作った会社で、経営陣は籠寅が占めていたので、伏見澄子も籠寅興行部の所属と言っていいでしょう。当時の剣劇や女剣劇の劇団は大半が籠寅の傘下にありました。特に女剣劇は籠寅の独壇場で、保良浅之助は大江美智子(初代・二代目)、不二洋子、伏見澄子の三人を「女剣劇三羽烏」と称して売り出していました。

三羽烏にはそれぞれ、キャッチフレーズがあって

大江美智子→美剣の名花
不二洋子→剣の女王
伏見澄子→怪力女剣士

なんだとか。

初代大江美智子は宝塚の娘役出身で、それに似ているという理由で二代目が抜擢されたという経緯からしても、大江美智子は美貌を売りにしていたのでしょう。不二洋子は立ち回りが売りの王道、伏見澄子は男まさりの腕力が売りだったのかもしれません。実際、『近代歌舞伎年表:京都篇』で引用されている京都日出新聞の記事には「五尺の男子を手玉にとっての大乱闘は見ものである」とありますから、伏見の舞台はさぞかし胸のすく舞台だったことでしょうね。


小説『夜明けの時』には、伏見とその夫、大場章二郎の姿がこう書かれています。

「大夫元の大場章二郎は、背が高く美貌の座長とならぶと、世間でいうノミの夫婦であった。だれがみても、どうしてこんな男が座長とーと思うような、腹だけが突き出した四十すぎの小男だった。いつも前がはだけた梳毛(セル)の着物のあいだから、ラクダ色の毛糸の腹巻きがはみ出し、部厚い札束を入れた財布が顔をのぞかせていた(中略)そんな大場章二郎の姿に、座長の伏見澄子はいつも顔をしかめた」

「大場章二郎は十数年前、マキノ映画の時代劇部にいたというのが自慢であった。その後、旅回りの劇団で、まだ二十歳前の娘だった伏見澄子と知り合い、自分はもっぱら敵役をひき受けながら、十年がかりで彼女を女剣劇の座長に仕立てあげてきたのであった。いまは役者はやめて、一座の支配人、大夫元という仕事に専念している」

別の場面では伏見のこんな発言が書かれています。

「お前も一年ほどのあいだに、すっかり大人になったのう。もうどこへ出しても通る、一人前の青年部員じゃ」

出身が広島ということもあって、普段は広島弁で話していたのでしょうね。

さて、伏見澄子一座は、横浜での成功を経て、浅草に進出し、全国的な知名度を得ます。ですから、昭和17年と18年に浅草と京都で大高よし男が参加するのは、そんな人気劇団に成長した伏見澄子一座ということになります。

しかし戦後は、大江美智子・不二洋子・中野弘子・浅香光代が「女剣劇四天王」となり、伏見澄子の名前は消えてしまいます。もしかしたら、当時から大江美智子や不二洋子に比べると少し格が落ちる感じだったのでしょうか。大高よし男や三桝清が参加したのは、伏見一座の弱さを補強する意味もあったのかもしれません。


伏見澄子についてわかったことは、実はこの程度です。興行の記録は残っていますが、大江美智子や不二洋子に比べて格段に少なく、詳細もよくよかりません。大高よし男と伏見澄子との関係も、昭和18年の初夏以降は見当たらないので、この線からの大高探しはそろそろ限界に達したような気がします。

事実、3年後、昭和21年には杉田劇場が開場し、大高よし男が一座を率いて興行を始める一方、杉田劇場で伏見澄子が公演をした記録はないので、昭和18年あたりが大高と伏見の人生の分岐点になるのでしょう。とはいえ、伏見澄子のおかげで、大高の記録が残ったのですから、僕にとって伏見澄子は忘れることのできない恩人、ということになります。


さて、大高探しではこれ以上の手掛かりが見つかりそうもありませんが、小説『夜明けの時』には横浜の敷島座に出ていた伏見澄子一座の座員の生活ぶりがかなり詳細に描かれています。時期的には少し間がありますが、戦争や空襲というブランクがあることを思うと、終戦直後の劇場も戦前の習慣を踏襲しているように思われます。だから、小説の描写を通じて、杉田劇場での役者たちの生活も、こんな感じだったんじゃないかと、想像をかきたてられるところです。

いくつか引用してみます。

「その頃の伊勢佐木町の一角は、東京浅草の六区のような盛り場、大衆娯楽街であった。三丁目から四丁目にかけて、石畳を敷きつめた通りの両側に、電気館、オデオン座、日活館、朝日座、花月、敷島座といった映画館、寄席、芝居小屋などが立ちならんでいた」

「敷島座は(中略)オデオン座のすこし先、四丁目の左側の角にあった。古い木造の二階建てで、客席五、六百ぐらいのちいさな小屋だった。劇場前の歩道に(中略)一座の主な男女優たちの名を染めぬいた、ひいきすじから贈られる色とりどりの幟がはためき、開演前の時間になるといわゆる表方、劇場従業員たちの威勢のよい呼び込みの声で賑わった」

「その頃の剣劇団の多くは、九州や関西地方などで地歩を固め、それから名古屋、横浜をへて、東上するというコースをとった」

「(伏見澄子)一座は男女優四十数名、それに囃子方、衣装方、床山、頭取り、文芸部員、座長伏見澄子の亭主で大夫元の大場章二郎まで入れて、総勢六十名ほどの劇団だった」

「敷島座は三本立てで、昼夜二回興行だった。演し物は十日目替りであった。一番目に地元出身の瀬山緑郎という二枚目俳優が特別出演で、長谷川伸の股旅物などを上演していた。つぎが一幕物の現代劇で、若手俳優が中心である。最後が座長主演の物だった」

「客席も舞台もせまい敷島座には、回り舞台もなく、楽屋もせまかった。舞台の真下、奈落にある細長い畳敷きの大部屋が楽屋になっていて、両側に壁際にそって二列に分かれて(中略)男女優が化粧前(台)をならべていた。奥のほうが上座で、入口のほうが下座である。すわる順番も決めっていた。が、一部屋に幹部も準幹部も青年部もいっしょであった。座長部屋だけが別に、舞台の下手の中二階のようなところにあった。大道具がごたごたならぶ舞台裏から、木造の梯子が垂直にかかっていた(中略)座長部屋は六畳ほどの畳の部屋で、正面に座長の三面鏡や紫地の大座布団がおかれ、西側の窓際にそって(中略)弟子たちの、ちいさな鏡をおいた化粧前がならんでいた」

「幹部や准幹部の男女優たちは、伊勢佐木町裏の旅館に分宿していた。常打ちが長くなるにつれ、市内に間借りをして、そこから通うようにしている夫婦ものの座員もいた。座長夫妻が泊まっていたのは、小屋からすぐの若葉館という旅館であった」

「やはり小屋の近くに雑用(食事)付の寮があり、青年部のものはそこに寝泊まりしていた(中略)敷島座の寮は古い木造の二階建てで、下宿屋のようなつくりであった。玄関の格子戸を開けて入ったすぐの部屋が食事所で、チャブ台がならび、炊事係のおばさんや女中たちがいた」

「敷島座の青年部の寮には、丸い軒燈の下に春秋寮という看板がかかっていた。玄関の格子戸の錠は、一晩じゅうあいたままだった。二十数名いる独身の青年部員たちは、午後十時頃に小屋がはねてから、寮で風呂に入り、夕食をすませると、二人、三人と連れだって、みんな夜の街に出て行った」

「その頃の伊勢佐木町は、映画館や芝居小屋がはねる夜の十時頃から十二時までが、いちばん賑やかな時間であった。汁粉屋やミルクホールも、裏通りの飲み屋も客でいっぱいになる。街の灯が消えて、通りがようやく静かになるのは午前二時か三時頃である。それまでは人通りがあった。それに伊勢佐木町のすぐ裏に曙町の私娼窟があり、川向こうは数十軒の妓楼が立ちならぶ真金町の遊郭だった。もっとも、一ヶ月の出演料、給金が宿舎雑用付で二十円か三十円といったていどの大部屋俳優たちなので、多くは素見、冷やかしである。毎晩、そういう夜の街を、一まわりするのが習慣になっているようなものもいた。そこの女性たちも、敷島座に芝居をみにくる。それで、彼女たちと親しくなり、私的な交流をつづけているものもいた」

「舞台のほうで、一番太鼓が鳴り始める。開幕一時間前である。開幕は午前十一時だ(中略)やがて、二番太鼓が鳴る。一番太鼓は大太鼓だけだが、二番太鼓は大太鼓と締太鼓とが混じりあって、調子をとりながら鳴りつづける。一番目ものに出る俳優たちや、頭取り、狂言方、大道具方など、楽屋じゅうが開幕の仕度にとりかかる時間である。引き幕がひかれたままの舞台のうえでは、鬘やからみの衣装をつけた二十数名の青年部員が勢揃いし(中略)立ち回りのけいこが行われている」

「そして、笛の入った着到の大太鼓、締太鼓の音が響き渡る。開幕準備完了の合図であった。客席は平土間も二階も観客でいっぱいだ。着到の太鼓の打ちどめと同時に、狂言方が拍子木を打つ「二丁」が入る。引き幕の向こうでは、開幕をうながす観客のどよめきや拍手がきこえ、奈落にある楽屋から序幕の板付の俳優たちが舞台へ急ぐ。楽屋じゅうが一番緊張する時間であった。こうして三本立て、昼夜二回興行の敷島座の一日が始まるのだった」

杉田劇場での大高一座もこんな感じだったのかもしれません。

戦争中、すぐ近くに日本飛行機や石川島航空工業などの大きな軍需工場があった杉田には、寮やアパートも多くあったことでしょう。戦争が終わって、かなりな空室が出たとも考えられます。それを劇場の寮に転用した可能性は低くありません。劇場の近くには梅乃湯という銭湯もありました。吐月館という料亭(旅館?)もあったそうです。夜、一日の芝居が終わると、座長は吐月館へ、座員は劇場が借り上げたアパート(寮)に戻り、梅乃湯で風呂に入り、杉田の街で一杯ひっかける。夜遅くに寮へ戻って眠り、翌朝はまた劇場に出勤して、昼の興行に備える。ひょっとすると、そんな生活が一座の面々の日々だったのかもしれませんね。


そんなこんなで、今回は伏見澄子の活動を振り返るとともに、横浜における劇場での生活と興行の実態にも触れてみました。

次回は杉田劇場との関係が深いと思われる、弘明寺の銀星座について再考してみます。


→つづく

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