継続は力なりとはよく言ったもので、戦前・戦中の横浜演劇界のことなどまったく知らなかった僕が、最近は昔の新聞を調べるにつけ、「ああ、この小屋にこの人が来てたんだ」などとわかったふうな口をきけるようになったのも、まさに「継続」のなせる技なのだと思います。
大高の調査はかねてから書いている通り、昭和16年以前は「高杉弥太郎」を、昭和17年以降は「大高よし男」を探すという基本姿勢で進んでいますが、いまのところ先日の川崎での大高の出演を除けば、残念ながら記録に出会うことはできていません。
その代わり、「わかったふう」な情報は日々更新されています。
今日は記事の中に「生島波江」の写真を見つけました。大高一座(暁第一劇団)に出演していた人で顔と名前が明確に一致したのは今回が初めてかもしれません。
生島波江は南吉田町・金美劇場の「横浜新進座」のメンバーであると同時に、末吉町・横浜歌舞伎座で連続公演をしていた日吉良太郎一座のメンバーでもあったようです。当時の神奈川新聞は(前身の横浜貿易新報も)演劇関連記事では、いま風に言うと圧倒的な「日吉劇推し」で、日吉一座の劇評はほぼ毎回載るくらいの勢いでした。何しろ数年にわたって横浜で連続公演していた劇団ですから、他の街では日吉の芝居を見ることはできなかったわけで、地元の新聞が「横浜の劇団」として日吉一座を推すのもわからないではありません。
そんなわけで、生島波江の名前もおのずと頻繁に記事の中に出ることになります。横浜で芝居好きな人ならば生島波江の名前を知らない人はいなかっただろうと思います。
大高ヨシヲがどうやって座員を集めたのかはわかりませんが、生島が日吉一座で活躍していた同じ時期に、横浜や川崎で舞台に立っていた大高はきっと生島の評判を聞いていただろうし、それだけでなく個人的な面識もあったかもしれません。
で、写真。生島波江はこんな女優さんです。
キリッとした顔つきで、なるほど剣劇もやりそうな雰囲気を感じますね。
ところで、顔がわかったとなると、大高の葬儀の写真の中に生島波江がいるかどうが気になるところですが、なにしろ写真の載った記事(昭和14年)から葬儀(昭和21年)まで、7年の時間が経過していますから、判別できるかどうか微妙なところです。
候補として考えられるのは、中央の遺骨を持った男性(おそらく大江三郎)とお坊さん(住職?)の間にいる女性ですが(いかにも女優っぽい雰囲気です)、生島とはちょっと違うような気がするし、どちらかといえば映画スターの「中野かほる」の方が似ているようにも思えます。
(う〜ん、難しい)
ひとまず保留かな。
そんなこんなで、小さな積み上げの毎日ですが、だんだんと大高や旧杉田劇場がとても身近に感じられるようになってきました。
ナニゴトも一歩一歩ですね。
→つづく
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