(34) 横浜の大高よし男

やっとこさ昭和13年1月から昭和17年12月までの新聞記事(横浜貿易新報/神奈川新聞)の閲覧が終わりました。1日ずつ、娯楽ページをじっくりと、他のページもさらりと、すべてをチェックしたわけです(見落としはあると思うけど)。

これだけの労力を使ってわかったのは、結局

大高よし男は横浜に縁があった

ということだけです(生年、出身地などはあいかわらずまったく不明)。

これを労多くして功少なしとするか、労力に見合うものが得られたとするか、なんとも言えないところですが、個人的には達成感を感じています。

もっとも、その前後がやはり不明なので、昭和12年以前と昭和18年以降は、継続して調べなくてはなりません。


これまでの調査で大高(実際には前名の高杉彌太郎だけど)が横浜に初めて登場するのは、昭和15年3月、敷島座での「近江二郎一座」の興行で、それ以前の2年間、横浜の芝居興行に彼の名前は見られないことがわかりました。以上の結果から大高よし男は

1、その時期に他地域で活動していた
2、もともと近江二郎一座の座員だった

という2つの可能性が考えられます。

「1」の場合、東京以外の地域だとなかなか調べが難しいところですが、少なくとも『近代歌舞伎年表』を調べた結果、昭和14年以前と昭和18年以降の京都と大阪には、彼の痕跡は発見できなかったので、あるとしてもそれ以外の地域だろうと考えられます。

よって、何度も述べていますが、この先は『年表』の「名古屋篇」最新刊を待つことと、『都新聞』を精査して「東京にいたかもしれない大高」を探す作業に注力したいと思います。

「2」の場合も調べは難しいところですが、近江二郎一座が横浜に来たのは、籠寅演芸部に所属したことがきっかけですから、そこで大高が注目されて、近江一座以外の籠寅系劇団の座組に参加するようになった、という可能性は否定できません。

昭和14年以前の近江二郎一座に高杉彌太郎の名前があればビンゴですが、前述の『年表』から、昭和13年まで年に二度くらいのペースで、名古屋・宝生座に近江一座が出演していたことはわかっているものの、座員連名などは不明なので、なんとも言えないところです。

仮に大高が近江二郎一座のメンバーだったとしたら、戦後、杉田劇場や銀星座への彼らの出演は、事前に近江二郎と大高よし男と日吉良太郎あたりが相談して売り込んだ話、という風にも思えてきます。

日吉良太郎は井土ヶ谷中町に住み、近江二郎の横浜の家も井土ヶ谷にありました。大高もそのあたりに住んでいた可能性は低くありません。その三者が相談して、横浜で自分たちの活動を続けるための方策を考えていたかもしれません。


ところで、以前も書いたように、近江二郎一座の座員に「高田光彌」という人がいました。

昭和15年12月29日付神奈川県新聞より

旧杉田劇場の経営者は「高田菊弥」で、一文字違い。

そして本多靖春の『戦後 −美空ひばりとその時代−』によれば、高田菊弥は「若いころから芝居好きで、戦前は浅草松竹座に出入りして、役者の後援会長を引き受けたりしていた」とあります。

近江二郎が後年、不二洋子一座の助演として松竹座に出ていることを考えると、高田が近江二郎の後援会長だったのかもしれないし、「高田光彌=高田菊弥」の可能性も出てきます(戦後、「宮田菊弥」の名前で大高一座の舞台に出ていたのではという推論もあるし)。

となると

高田菊弥−近江二郎−大高よし男

のラインも見え隠れします。

どうやら近江二郎を軸に調査を見直す必要がありそうです。


一方の日吉良太郎は戦後、演劇界からは引退したと言われています。「愛国劇」なんていうものを掲げていた以上、表立った活動はしにくかったろうと思いますが、僕には銀星座や杉田劇場との関わりの中で、カゲのプロデューサーとして仕事をしていたようにも感じられます。

銀星座の専属「自由劇団」はメンバーを見る限り、日吉一座の残党による劇団といって間違いはないし、大高よし男が亡くなった後、その劇団(暁劇団)の再生に、かつて日吉一座のメンバーだった藤村正夫が関与していることも、そんな印象を強くするところです。

それでありながら銀星座の柿落しが近江二郎一座であることを考えると、戦争が終わって、日吉良太郎と近江二郎、高田菊弥が膝突き合わせ、杉田劇場と銀星座の陣容を相談した、なんていうのも、あながちあり得ない話ではないような気がします。

(以下、久しぶりの妄想劇)

高田「日吉先生、横浜の芝居をもう一度盛り上げましょう」
日吉「うむ。しかし、ウチは愛国劇なんていうものをやっていた以上、そのまま復活というのは世間が許さないだろうし、GHQだって黙ってはいないだろう。ほとぼりが冷めるまで私は表に出るのを控えようと思っているんだ」 
高田「そうですか…」
近江「そう落胆なさるな。そこは私がなんとかする」
高田「近江先生にやっていただけるんですか! それは願ったり叶ったりだ」
日吉「いやいや、実を言うと、弘明寺に銀星座という新しい劇場ができるんだが、近江先生にはそちらをお願いしてある」
高田「え? じゃあ、杉田はどうなるんです?」
近江「うちにいた若い役者の大高よし男、覚えているでしょう?」
高田「大高?」
近江「高杉彌太郎ですよ」
高田「ああ、あの高杉! 男前で人気のあった!」
近江「彼に座長をやらせて、専属の一座を立ち上げる。そうだ、日吉先生のところからも役者をお借りできませんか?」
日吉「もちろん。そうだな、生島波江と藤川麗子あたりに声をかけてみます」
近江「そんなベテランを!」 
日吉「彼女らだって、芝居がやりたくてうずうずしているんです」 
高田「大高よし男に日吉一座の名女優! 杉田劇場も安泰だ。ありがとうございます! これで、いよいよ横浜演劇も新しい夜明けを迎えるわけですね!」
近江「暁」 
高田「え?」 
近江「横浜芝居、新時代の暁だな」
高田「暁…そうだ、新しい劇団の名前は暁劇団! どうでしょう?」 
近江「暁劇団か…うん、悪くない」
日吉「いや、ただの暁じゃない。最初の暁です。どうせなら大きく出て、暁第一劇団なんてどうです?」 
高田「暁第一劇団! いい! それで決まりです! ありがとうございます!」

(妄想劇、おわり)

そんなヘタな妄想は別としても、役者たちの顔ぶれを見れば、戦前・戦中の横浜の実演劇場、横浜歌舞伎座の日吉良太郎一座、敷島座の近江二郎一座、金美劇場の横浜新進座、その系譜は杉田劇場と銀星座に確実に受け継がれていたのがよくわかります。

両劇場は戦後の新設劇場ながら、その実、戦前から続く横浜演劇の芝居小屋そのものであり、両者の衰退は明治以降の横浜大衆演劇文化の消滅と同義といってもいいのかもしれません。

日吉良太郎は昭和26年に亡くなりますが、奇しくもそれは杉田劇場の実質的な閉場とほぼ同じ時期です。


さて、毎度の余談。

戦後、葡萄座の立ち上げなどで活躍する梨地四郎さんのことは前にも書きましたが、新しい記事を見つけました。

昭和13年9月23日付横浜貿易新報より

この時の劇団名は「横濱舞臺」、演目は田中千禾夫『おふくろ』と田口竹男『高梁一家』、会場は吉田町の「都南ビル講堂」だそう。

都南ビルは現存しますが、あの中に講堂があったとは知りませんでした(まだあるのかなぁ)。

2022年5月4日撮影

いつまでも残してほしい横浜の古い建築物のひとつです(吉田町もずいぶん雰囲気が変わりました)。


余談2。

戦後横浜のアマチュア演劇にとって重要な拠点のひとつだった、長者町の「電業会館」が解体だそうです。

2014年4月6日撮影

もちろん僕は話に聞くだけで利用したことなどありませんが、かつて「土曜小劇場」という企画で、春秋の2シーズンは毎週土曜にアマチュア演劇の公演が行われていたそうです(→こちら)。

ファザードのモザイクが特徴的なビルでしたが、横浜の歴史はあっという間に壊されてしまいます。残念。


→つづく


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