そんなわけで、かすかな手がかりも手がかりと呼べるかどうかわからないレベルですし、ハードルも高いので、ひとまず次の謎へ。
「どんな劇団だったの?」
この謎には比較的多くの手がかりがあります。まず、少ないとはいえ演目がわかっていること。もうひとつは現存している2種類のポスターから、役者の名前が判明していること。
とはいうものの「團十郎が助六をやりました」みたいなわかりやすさは皆無ですから、学者でも研究者でもない演劇人(ボク)にはやはりなかなかの難題。
ひとまず、演目だけを抜粋して列記してみます。
- 明朗時代劇「奴も人間」
- 「嫌われた伊太郎」
- 時代劇「涙雨五阡両」五場
- 明朗劇「応援団長」二景
- 新舞踊「野崎村」
- 喜劇「見會」
- 時代劇「花吹雪 武士道仁義」
- 社劇?「家族」四場
- 時代劇股旅十八番「浮き名の銀平」
- 「森の石松」
- 「妻恋道中」
- 「鼠小僧」
- 「春雨街道」
- 現代劇「発車」
- じゃがいもコンビ 明朗劇「生きてゐる幽霊」
- 股旅もの 時代劇「いろは仁義」
- 「滝の白糸」法廷迄全通し
- 「娘?アイドントノー」
- 「荒神山」吉良仁吉
ちなみにリンクを貼ったコトバンクの定義から一部を引用すれば、
だし
と、これだけでもだいぶ進んだ感はあるものの、実はこれだけわかったところで大問題が発生。なんとこの劇団がやっていた演劇ジャンル、
ボクはまったく詳しくない…
うう、弱った…
でも、まがりなりにも大学の文学部、演劇専修を卒業した身でありますから、この調査を通じてあらたに知識を得るつもりで奮闘するまで!
(ガンバラネバ)
さて、最後の謎、「それまで何をやっていたの?」についてですが、これまた手がかりがまったくありません。
ただ、大した知識もない演劇関係者であるボクでも、終戦直後のメチャクチャな時代とはいえ、まったく舞台経験のない素人が杉田劇場の専属劇団になるなんてことは、まずないだろうとは思います。少なくとも座長の大高ヨシヲはどこかで何かやっていたはず。杉田劇場に売り込みに来る前になんらかの舞台経験(プロとしての)はあったはずです。ひょっとするともっと大きな劇団に所属していたのかもしれません。
それを証明するためには、当時の小芝居の有名な劇団のプログラムなどを調べて、その中に「大高ヨシヲ」やそれに類する名前がないかどうか探る必要がありますが、大芝居(歌舞伎)ならばまだしも、小芝居の情報はなかなか表に出てこない(研究者も少ないようです)。というわけで、これも少々難航しそうなところです(詳しくないジャンルだから余計に、というのもあります)。
そんな中、戦後の劇場のことを調べるのにとても有効なサイト「消えた映画館の記憶」(このサイトの情報量はホントにすごいです!)の「横浜市南区」エリアにある「金美映画劇場/金美東映劇場」の項目にこういう記述があるのを見つけました。
“戦時中には洋画の上映が禁じられ、地回りの歌舞伎を上演する芝居小屋「金美劇場」となった”(『横濱南区 昭和むかし話』南区役所・南区制60周年記念事業実行委員会 からの引用)
この劇場(映画館)は吉野町にあったらしいので、杉田からはそんなに遠くない(当時は市電があったことを思うと、感覚的には今よりもっと近かったのかもしれない)。
もしかしたら戦中の新聞広告に何か出ているかもしれません(盲点でした!)。
そこに金美劇場での「暁第一劇団」ないし「大高ヨシヲ一座」の公演があったら…
ビンゴ!
なんですが、はたして、そうウマく行くかどうか。
ともあれ「大高ヨシヲ」調査の、最初の手がかりが見つかったような気がします。
(ガンバリマス!)
そんなこんなで、ブログ初っ端の4連続投稿でしたが、ここで一旦小休止。
続きはまた来週末。乞うご期待!!
※今後も週末ごとに投稿する予定です。
0 件のコメント:
コメントを投稿