旧杉田劇場のプロデューサーとでもいうべき鈴村義二は、戦前、浅草の興行界で活躍した人ですが、戦後、高田菊弥に招かれて横浜に転居します。
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| 鈴村義二 |
調べてみると、最初は磯子町の小字「峰」というところにいたようです。その後、杉田町の杉田八幡宮近くに移って、そこを拠点にさまざまな活動をしていたと思われます。
鈴村には浅草の芸能史を振り返るような著作がいくつかあって、その中でも『浅草昔話』は芸能界の裏話的な話が多く興味深いものですが、不思議なことに横浜や杉田劇場についてはまったく言及していません。そのため、一時は鈴村が本当に杉田劇場に関わっていたのか、疑問に思っていたほどです。
前にも紹介しましたが『浅草昔話』には鈴村の略歴が載っていて、その最後には
「大麻博之殿主の詩吟道場日本放光殿剣吟舞踊並びに舞踊田毎流宗家田毎一平と号す」
と書かれています。
大麻博之という人は詩吟の人のようで、調べてみると昭和10年、横浜八聖殿で行われた「第一回全国詩吟大会」にも参加しているとのことです(→こちら)
詩吟のことについてはまったくの門外漢なのでよくわからないところですが、会場が本牧の八聖殿ですから横浜との縁も浅からぬものがあるのでしょう。
さらに調べると剣舞の世界では「日本放光殿田毎流」というのは鈴村義二が始めた流派とされていて、拠点は横浜市。昭和43年には『剣舞踊(剣舞踊振付集)』という本も出しています。
この本の奥付を見ると、編者が鈴村義二で、発行者は小川長治、発行所が「田毎会」となっています。どうやら「日本放光殿田毎流」の運営団体あるいは道場として「田毎会」が存在し、そのトップが小川長治という人だったようなのです。
ここにも末尾に鈴村の略歴が書いてありますが、やはり杉田劇場との関わりについてはまったく記載がありません。そして、田毎流については『浅草昔話』とは少し内容が変わっていて
「(昭和)二十九年 詩吟道場詩吟道場日本放光殿主大麻博之氏の要望で日本放光殿の剣舞踊宗家となる」
と書かれています。変化の要諦は「要望」の一言ですが、このあたりの事情はよくわかりません。眉唾の印象も拭いきれませんが、やはりよくわかりません。
田毎会の代表者(理事長)である「小川長治」についてもよくわかっていません。手がかりはこの本しかありませんが、鈴村の手になるあとがきには、彼について
「明治三十六年二月千葉県君津町に生まれ(中略)戦后七・八年して、同志百数人を得て小生と民主革新同志会を組織して活動しましたが政治運動より大切な事のある事を感じて解散して、三十五年親睦と相互扶助心身鍛錬を目的に一灯クラブを組織、その会長となって今日に至っている」
と書かれており、さらに
「親和一灯クラブに芸能部を設けたのをきっかけで白鳳氏(註:小川長治のこと)は五十二才の年齢を超越して剣舞踊の稽古に入り(中略)その熱心さは指導の小生も驚嘆著しい心境で三十年名取昇進高島屋ホールで披露白鳳と号し(以下略)」
とされています。田毎会の理事長である「田毎白鳳」が小川長治その人というわけです。
鈴村義二は戦前、芸能とともに政治活動も行なっていたようですから、戦後、横浜に転居した後も、芸能と政治の双方でいろいろな活動をしていたように思われます。
鈴村の書いていることが正しければ、昭和27〜28年ごろに小川長治と政治活動を始めたとのことですから、杉田劇場が閉場して具体的な活動の場がなくなった鈴村が新たな展開として、小川とともに政治運動と剣舞の活動を始めたということなのかもしれません。
小川長治についてさらに調べると、面白いことに杉田駅前で「大阪屋不動産」という会社を経営していたことがわかりました。『剣舞踊』の奥付にある電話番号と、大阪屋不動産の電話番号が同一でしたから、同じ人物であることは間違いなさそうです。
杉田劇場のオーナーであった高田菊弥もまた後年、「菊や不動産」を経営していたことと合わせると、鈴村義二をめぐっては、政治と芸能と不動産というのが不思議なリンクをしているように感じますが、具体的な調査が進んでいませんから、これも想像(妄想)の域を出ません。
さて、前置きがかなり長くなりましたが、実は先日の調査で1952(昭和27)年5月の新聞に以下の広告を見つけたのです。
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| 1952(昭和27)年5月10日付神奈川新聞より |
川崎花月座という劇場での「劇団前衛座」の公演案内ですが、二番目の演目に「田毎一平・作」の文字が見られます。
もちろん同姓同名の可能性は否定できないものの、常識的に考えてこれは鈴村の異名・筆名であるとするのが妥当でしょう。
昭和27年といえば杉田劇場が閉場となったとされる時期で、小川長治とともに政治運動および田毎会を始めた時期にも近く、それにあわせて「田毎一平」としての芸能活動(作家活動)を始めていたとも考えられそうです。杉田劇場の次の場所を探していたのかもしれません。
この「川崎花月座」というのは劇場名からして吉本傘下のように見えますが、1947年版『映画芸能年鑑』によれば経営者は「美須鐄」とありますから、現在のチネチッタにつながる「美須興行」の劇場ということになります。
演目からして剣劇などの大衆演劇とストリップを上演していた劇場のようで、横浜でいえば横浜セントラル劇場のようなものだったのでしょうか。いずれにしても杉田劇場のように、やはり戦前からの流れを組む大衆演劇の世界で、鈴村は活動をしていたと言えそうです。
現段階でわかっていることはこれだけです。
戦後、横浜に転居したあとの鈴村義二についてはわからないことばかりです。ただ、高田菊弥と鈴村は旧知の仲だったことからも、横浜での鈴村の足跡をたどることは杉田劇場の謎を解明することにもつながりそうですから、地道に情報を拾い集めていきたいと思います。
そんなこんなで、今回は川崎花月座の広告に名前の出た「田毎一平」こと鈴村義二のその後についてのお話でした。
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