さて、アメリカに渡った近江二郎一座は、現地で想像以上の大歓迎を受けます。
実は興行主はそれほどの歓迎を予想していたわけではなかったようです。以前にも引用した帰国直後の横浜貿易新報は、渡米当初の状況を語る近江の言葉を掲載しています。
昭和6年7月7日付 横浜貿易新報より |
「昨年十月4秩父丸にて桑港に到着した時は丁度不景気風が同地に襲来して居た時であつてアチラの興行主は此不景気に斯く多數の男女優を連れて來ては困つたものだとて顔を渋めて居た」
考えてみると、近江一座の渡米した1930年といえば、1929年に始まった世界恐慌の真っ只中で、日本でも昭和恐慌と呼ばれる経済暗黒の時代。ほんの数人でやってくると思ったところが、20人以上の大所帯に興行主の顔が曇ったのもわからないではありません。
ところが蓋を開けてみると、一座の舞台は大評判で、同じ記事には
「一ヶ月の後に早くも一万圓と云ふ金を日本に送つて渡航費その他の債務を返済した」
ともありますから、興行主もさぞかしほくほくだったろうと想像できます。
そんなこともあって、おそらく本来はもっと短かったであろう渡米の期間は、好評に合わせて延長されていったのではないかと、僕は推測していますが、詳しい裏付けはとれていません。今後の調査が必要です。
結局、一座の興行は太平洋沿岸の諸都市を三巡するほどだったそうで、帰途にハワイ公演が実現したのも西海岸での成功を受けてのことだと思われます。
ところで、昭和5年の一万円がどのくらいの金額か調べてみると、当時、公務員(高等官)の初任給が75円で(『値段史年表 明治・大正・昭和 週刊朝日編』/朝日新聞社刊,1988 より)、2022年が大卒総合職で約19万円弱だそうですから(人事院『国家公務員の初任給の変遷(行政職俸給表(一))』より)、約2,500倍。単純計算すると、近江二郎一座は渡米1ヶ月にして、2,500万円も日本に送金できるほど稼いだ、ということになります。
もっとも20数名を渡米させるには渡航費も相当なものだったでしょうから、その大半は返済に充てられたとしても、さらに興行が続くので近江一座の儲けもかなりなものだったはずです。
前にも引用した帰国後の読売新聞には
昭和6年7月7日付読売新聞より |
「非常な人気を博し十万圓許り儲け」
ともありますから、渡米していた8ヶ月の間、コンスタントに稼ぎを上げていたのでしょう。新聞記事の通りであれば、これまた単純計算するとアメリカ公演で2億5000万円も儲けたということになります。
好評を受けて、翌年4月に再渡米する契約を結んだというのは、以前にも書きましたが、それが本当に実現したかどうかはまだ調査ができていません。
ただ、彼らの帰国から約2ヶ月後、1931(昭和6)年9月18日に満州事変が起こり、翌年3月にはリットン調査団が派遣され、1933年には日本が国際連盟から脱退するという時期に当たるわけですから、何らかの支障があったとしてもおかしくはありません。
とはいえ、この海外公演の成功を足がかりに、近江一座は浅草や名古屋あたりで剣劇の劇団として人気を博すようになり、そして、彼らがアメリカから横浜港へ戻ってきて9年後、昭和15年になってようやく横浜での興行が実現、その舞台に大高よし男(前名の高杉彌太郎)が立っていたというわけです。
→つづく
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