(62) 杉田劇場の栄枯盛衰

大高よし男の手がかりを求めて、戦後の杉田劇場から逆算しようという作戦も、とうとう昭和22年の春先にまで達し、新聞広告などからも大高の存在感がどんどん薄れていく様子しかわからなくなりつつあります。


杉田劇場は開場からしばらくはそこそこの人気を得ていたようですが、数年で斜陽となりやがて閉館に追い込まれます。娯楽の多様化や競合他劇場の誕生が原因と考えられますが、たとえば弘明寺の銀星座や磯子のアテネ劇場ができたことがそれほど大きなダメージになったかというと、番組や稼働率からはそんな印象はありません。

映画と実演も戦時中から共存していたし、いまなお「映画スターを生で見る」という価値は失われておらず、劇場公演もまだまだ勢いを保っているわけですから、多様化だけで説明できるものでもありません。


そんな中、ここまで調べてきて、杉田劇場に最初の強烈なダメージを与えたのは、昭和22年3月4日にオープンした野毛のマックアーサー劇場(マッカーサー劇場)ではないかと思い始めています。

マッカーサー劇場は野毛(正確にいうと宮川町)にオープンした映画館で、すぐ隣にはほどなく実演を中心とした横浜国際劇場が開場することになります(いま両劇場の跡地にはJRAウィンズ横浜が建っています)。


マッカーサー劇場の柿落としは映画と実演でしたが、実演の方には元宝塚の男役で、戦前からスターであった小夜福子と、タンゴ楽団を率いてこれも人気のあった櫻井潔が特別出演しています。

1947(昭和22)年3月1日付神奈川新聞より

この櫻井潔は前年の昭和21年7月27日に杉田劇場でも公演をしているのです。

1946(昭和21)年7月25日付神奈川新聞より

あくまでも想像ですが、まだ横浜の中心部が焼け野原で復興が進んでいない時期に、他に先駆けて開場した杉田劇場は、アクセス面などからすると「場末」と言ってもいい立地にも関わらず、横浜でやるならそこしかない、という希少価値によって、櫻井潔のようなかなり有名な人たちもやってきていたのだと思われます。

しかし野毛にマッカーサー劇場と横浜国際劇場が開場した後は、タレントたちもわざわざ杉田にまで来て公演する必要性がなくなってきたのでしょう。

杉田劇場でデビューを果たした美空ひばりからして、横浜国際劇場を足がかりとして、全国区のスターダムを駆け上り、ふたたび杉田劇場の舞台に立つことはなかったわけですから、他は推して知るべし。

人気を誇っていた専属劇団の座長、大高よし男はすでに故人。そんな経緯もあって、開場から1年を経た早春に、杉田劇場の実質的な斜陽が始まった、というのが僕の推論です。


一方で、ほぼ同時期(3ヶ月弱の差)で開場した弘明寺の銀星座は、専属の「自由劇団」が連続公演を続けていて、広告などを見る限りでは、先々まで安定した経営状況が続いていたように見えます。

以前にも書いたように、自由劇団の母体は戦前・戦中と横浜で大きな人気を誇った「日吉良太郎一座」と言って間違いないだろうと思われます。

理由の第一は、自由劇団の座員の大半が日吉一座の出身だということです。また後年、自由劇団は何度か大岡警察署との協働で防犯劇のようなものを上演しますが、その際、新聞広告に「日吉良太郎 脚色」の文言が見られることも、自由劇団と日吉劇の関係を想像させる理由のひとつです(いずれ詳細に報告します)。

終戦間際に活動を休止し、演劇界の表舞台からは姿を消したはずの日吉良太郎ですが、上記の理由から自由劇団の背後でさまざまな活動をしていたのではないかと推測されるところです。


杉田劇場の専属・暁第一劇団は、大高よし男の没後も活動を続けますが、この時期、かつてのように、また自由劇団のように連続興行を打つようなことはできなくなっています。大高の人気が劇団を支えていた要素が強いのでしょう。

杉田劇場側も手をこまねいていたわけではなく、あの手この手で専属劇団を延命させようとします(このこともいずれ詳細に書きます)。

自由劇団(日吉劇でも)で人気のあった朝川浩成や鳩川すみ子と共演させたり、同じく藤村正夫に座長のようなことをさせようと画策した様子もうかがえますが、いずれも大高の穴を埋め、劇団を再興させる起爆剤にはならなかったようです。

さらには「じゃがいもコンビ」として人気のあった壽山司郎も、しばらくは暁第一劇団で活動を続けていましたが、やがて自由劇団に移籍します。

これもまた大高一座の凋落に拍車をかけることになったのでしょう。

専属劇団の苦境をきっかけにというのは皮肉な話ではありますが、大高の没後、暁第一劇団と自由劇団の人的交流(支援や移籍など)が盛んになった印象があります。


銀星座や杉田劇場は、当初、近江二郎の影響下にあったのではないかと僕は考えています。銀星座の柿落としが近江二郎一座だし、大高が杉田の専属劇団の座長になったのもそうした影響だろうと思われますが、大高の死後、近江二郎に代わって、自由劇団(日吉良太郎)の影響の方が圧倒的に強くなり、近江の影はすっかり消えてしまう印象です。

このあたりの経緯は、終戦直後の全国の興行状況についてつぶさに調べてみないと全体像が見えないようにも思いますが、やはり横浜といえば日吉劇。彼らの勢いが優っていたと考えるのが妥当なのかもしれません。

もし大高が生きていたら、杉田劇場は近江二郎の影響下で、戦時中の伊勢佐木町・敷島座の系譜を引き継ぎ、銀星座は日吉良太郎の影響下で同じく横浜歌舞伎座の系譜を引き継ぐ、といった形の棲み分けがなされたのかもしれません。それが実現していたら、横浜のこの地域の演劇界も違うものになっていた気もします。


余談ですが、自由劇団という劇団名について、かねてから、戦後すぐの創設とはいえ大衆演劇の劇団としてはちょっとわざとらしい名前だなと感じていました。

そんな中、今回、銀星座と杉田劇場を比較しているうちに、もしかしたらこの劇団名の「自由」には別の意味が含まれているのではないかと思い始めたのです。

完全な妄想(悪いクセ)ですが、自由の「自」には「日」という文字が含まれていて、「由」は「よし」とも読める。つまり判じ物のように「自由劇団」の裏には「日吉劇」が隠れているのではないかという推論です。

戦前・戦中と「愛国劇」を標榜した日吉一座ですから、戦後は戦犯として訴追される恐れだってあったはずです。大っぴらに「日吉劇」を名乗ることは難しかったことでしょう。でも座員たちはかつての日吉劇の隆盛に思い入れがある。そこで時流を踏まえた判じ物として団体名の冠に「自由」を据えた…(やはりおかしなモウソウかな)。

いずれにしても銀星座の自由劇団が日吉一座の後継団体だということは間違いないのです。

大高の没後、横浜で近江二郎の名前が見られなくなるのには、近江と日吉の関係など何らかの事情や背景があるのかもしれません。このあたりの調査を深めることで、新たな展開が生まれる気もします。

地道な調査は続きます。


→つづく


〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問い合わせフォームからお知らせください。

いまで言う「大高よし男のおっかけ」みたいな人が藤沢から来ていたという話も伝わります。藤沢の旧家から大高の写真がでてきたら、なんていう妄想もふくらんできます。


0 件のコメント: