(58) 没後二年目の追善興行

 大高よし男は昭和21年10月1日の夜、旅公演に向かう途中の長野県西筑摩郡大桑村須原で、乗っていたトラックが横転して崖下に転落し、下敷きとなって圧死してしまいます。


大高の追善興行は、前回も書いたように元映画スターの中野かほるが参加したものも含め、その年に何度か行われていますが、別件を調べているうちに没後2年目にも追善興行が開催されていたことがわかりました(三回忌追善ということなのかな)。

昭和23年9月22日から24日まで、「暁劇団」の名前で公演が行われています。

1948(昭和23)年9月21日付神奈川新聞より

1948(昭和23)年9月22日付神奈川新聞より

最初の広告には「故大坂ヨシ男追善興行」とあります。が、これは明らかに「大高」の誤植です。翌日の三行広告ではちゃんと「大高ヨシ男」となっています。

没後2年経っても追善興行が行われるというのは、それだけ大高の人気が高かったという証しでもありますが、逆にいうと2年経ってもまだ大高の人気に頼らなければならなかった杉田劇場側の事情があったのかもしれません。この頃からすで経営は厳しかったのでしょう。


ところで、広告の中で「特別出演」として名前の出ている「藤村正夫」はかつて日吉良太郎一座に所属していた人で、横浜にもゆかりのある役者です。大高没後の暁劇団は、その後、藤村を座長に迎えて「新生暁劇団」となります。
※大高調査は生前の活動履歴をあたっているので、戦後の残された劇団については調査が足りていませんが、こうした追善興行も散見されるので、没後の調査も順次進めていきたいと思います。

その藤村正夫の名前をネットで調べていたら、「テレビドラマデータベース」というサイトがヒットしました。

これは1959(昭和34)年、梅田コマスタジアムにおける「大江美智子一座」の舞台を中継したもののデータで、藤村正夫のほかに「双見浦子」が出ていることが注目点です。

双見浦子は「二見浦子」と同一人物だと思われますが、前名を石川静枝といい、戦前から活躍していた女剣劇の役者です。大高よし男とはかつて伏見澄子一座の舞台で共演している人で、戦後は大江美智子一座の助演としても長く活動していたようです。

ここに藤村と双見の名前があるわけですから、もし大高が生きていたら、人気と実力からして、彼もこの舞台に助演として参加していた可能性は十分に考えられます。

そう思うと、なかなか切ない思いにも駆られてきます。

大高の死は僕らが考えている以上に、演劇界(芸能界)にとっては大きな喪失だったのかもしれません。


→つづく


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