(39) 横浜敷島座と川崎大勝座

大高よし男を調べる上で、横浜の敷島座、川崎の大勝座はとても重要な劇場なのですが、昭和18年いっぱいで、なぜか敷島座の広告が新聞紙上から消えてしまいます。

といって劇場そのものがなくなったわけではなく、昭和19年の暮れまで営業を続けていたようです。他の劇場(横浜歌舞伎座や横浜花月など)の広告はそのまま残っているので、消えた理由はよくわかりません。

籠寅演芸部(昭和演劇株式会社)の方針なのかなとも考えましたが、同じ系列の川崎・大勝座の広告は依然残っているので、やはりちょっと不可解です。

東京の劇場ならば、朝日や読売といった全国紙のほかにも、都新聞(東京新聞)や『演芸画報』のような雑誌もあるし、神奈川新聞でもたまに劇評が出たりするので、調査の幅がありますが、横浜の敷島座となると、神奈川新聞以外に情報源がありませんから、昭和19年の敷島座はまったくもって闇の中、となっているのが現状です。

(もっとも昭和19年12月に敷島座に大江美智子一座がやってきて興行していることは判明しています。小柴俊雄さんの『横浜演劇百四十年』によれば、「実質的にはこれが敷島座の最終公演(中略)以後は休場したらしい」とのことです)

昭和18年5月いっぱいまで京都にいた大高が、横浜に戻っているとしたら敷島座なのですが、そんなこんなで敷島座とともに「横浜の」大高よし男も闇の中となります。


ところで前述の通り、敷島座と並んで重要な芝居小屋が川崎の大勝座です。大勝座は川崎駅近く、堀ノ内(堀ノ内42番地)にあった劇場で、籠寅演芸部と松竹が共同で設立した「昭和演劇株式会社」の直営館です。

(この会社、劇団や芸人を抱えながら劇場を持たなかった籠寅と、劇場はもっていたけれど劇団や芸人のマネジメントはやっていなかった松竹の思惑が一致して、両者が手を組んでできたということらしいです)

大高よし男は昭和17年の正月に伏見澄子一座への助演として大勝座に初お目見えします。その後、同年の6月に海江田譲二・中野かほる・大内弘といった映画スターによる実演の舞台にも立ちますが、判明している記録では、川崎での活動はこの2回のみです。


その大勝座は昭和18年6月29日から大規模な改装に着手します。劇場としての機能を高めて、敷島座とならぶ京浜地区の拠点にしようと考えていたのかもしれません。

昭和18年6月30日付神奈川新聞より

広告の文面には、改装後は「絶賛なる人氣百パーセントの専屬劇團を迎へまして」とあります。籠寅専属の人気劇団を呼ぶのでお楽しみに、という意味にも受け取れますが、その後の大勝座には近江二郎一座を基本とした座組が続くので、もしかしたら近江一座を大勝座の専属劇団にしたということなのかもしれません。

となると、改装後の川崎・大勝座の舞台に、京都から戻った大高よし男が立っていた可能性も出てきます。

そもそも大高と近江二郎は縁がありますし、実力派の近江一座に、人気者の大高を加えて専属劇団とすることは、籠寅の興行的見地からすると、至極妥当な気はします(ただ、人気者であるはずの大高よし男の名前が広告に出ないのがちょっとおかしい)。

この観点からの調査も大高探しの手がかりを知る上で、重要な作業になりそうです。

(しかし、大勝座の詳細な興行記録はどこで調べればいいのだろう)


そんな大勝座ですが、不運なことに改装から1年後、昭和19年7月10日、火災に見舞われます。どうやらタバコの不始末が原因のようですが、出火が午前2時半で発見が遅れたこともあってか、全焼という憂き目にあっています。

昭和19年7月11日付神奈川新聞より

この時は5月末から近江二郎と松本榮三郎の合同一座が興行を続けていました。

昭和19年7月9日神奈川新聞より(火災の前日)

火災を報じる新聞には劇団員が罹災したというようなことは書いてありませんので、大勝座では小屋泊まりではなく、座員は近隣の寮や旅館に宿泊していたか、近江二郎などは毎日、井土ヶ谷の家に戻っていたのかもしれません。まさに不幸中の幸いです。

とはいえ、劇場が全焼ということは、大道具や衣装・小道具、鬘なんかも焼けてしまったことでしょうから、一座にとっては大打撃だったと想像されます。


実は近江二郎、この8年前、昭和11年2月にも劇場火災に遭遇しているのです。

場所は名古屋。宝生座で公演していた際に火災に見舞われ、やはり衣装や小道具を焼失してしまいましたが、周囲の協力で、すぐに同じ名古屋の帝国座へ移って興行を続けたそうです。

新派劇についての寄稿でもそうでしたが、近江二郎という人はなかなか熱い男で、不屈の魂すら感じるところです(川上音二郎の弟子というだけのことはあります)。

大勝座の火災から2年後、終戦の混乱を乗り越えて、弘明寺の銀星座で開場記念興行(柿落とし)をやるわけですから、その情熱というか意地というか、肝の据わり具合には頭が下がります。


江戸時代から劇場と火災はつきものだったようです(だから劇場だけは瓦葺の屋根が許されていたと聞いたことがあります)。

昭和に入っても同じようなことは繰り返されたのですね。たしか、昭和15年に映画スターの澤田清が、横浜・敷島座に続いて興行した静岡の常盤劇場も、もともとは若竹座という芝居小屋で、火災の後に再建された劇場でした。


さて、その後、大勝座の新聞広告には「火災の為 休館中」の文言が連日掲載されることとなります。が、しばらくして広告欄から川崎大勝座の枠そのものが消えてしまうのです。再建は難しかったのかもしれません。

昭和19年7月12日付神奈川新聞より(火災の翌々日)

もっとも、仮に再建されていたとしても、昭和20年4月15日の空襲で市の中心部は壊滅状態となりましたから、いずれにしても大勝座の歴史は、悲しいかな戦争とともに消える運命にあったのです。


→つづく


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