(47) 薔薇座の謎

前回の投稿、昭和21年2月中旬に旧杉田劇場で「劇団薔薇座」が公演を行なったと書きました。そして、Wikipediaには薔薇座の結成が昭和21年5月とあって、矛盾があるとも。

その後、追加で調べてみると、昭和21年1月の新聞に新劇の新しい劇団、「白鳥座」と「薔薇座」が3月に旗揚げする、という記事を見つけました。

昭和21年1月26日付読売新聞より

5月よりは前倒しになりましたが、それでもまだ2月の杉田劇場に出演するには時期がズレています。

真相を探るべく、図書館で千秋実・佐々木踏絵共著による『わが青春の薔薇座』(リヨン社, 1989)を借りて読んでみたところ、なんとそこには、彼らが杉田劇場の舞台に立っていたことがはっきりと書かれていたのです。

ようやく謎が解けました!


著書によると、劇団薔薇座は終戦後、千秋夫妻が仲間に声をかけて、昭和21年1月に発足したそうです。実際の旗揚げ公演は5月(神田共立講堂)ですが、この頃は3月には公演をするつもりだったのかもしれません。それが新聞記事の「陽春三月に旗揚げ」になったとも推測できます。


劇団発足の1月から旗揚げ公演の5月までは、演劇論などの勉強を重ねつつ、臨時公演をいくつかやったと著書にはあります。

実はその中に杉田劇場についての記載が出てくるのです。

千秋実・佐々木踏絵『わが青春の薔薇座』より

引用すると 

「横浜杉田劇場では、金子洋文作・演出『生きている幽霊』。死んだと思った兵隊が南方の島から故郷へ帰ってくる話。伊藤貞助作『日本の河童』。阿部正雄翻案『隣聟』。これはゴーゴリの喜劇『結婚申込み』を日本の農村の話にしたもの、などをやった」(『わが青春の薔薇座』より)

演目のうち、『生きている幽霊』(『生きてゐる幽霊』)と『日本の河童』は新聞広告と同じです。

昭和21年2月16日付読売新聞神奈川版より

広告には2番目の演目として『ローズショウ』とありますが、もしかしたらこれが『隣聟』なのかもしれません。同書に「千秋と里がとんだりはねたり、客席をわかせ、舞台の袖で見ている座員たちをも抱腹絶倒させた」とあり、また杉田劇場の舞台に立ったのと同じ時期に、吉祥寺駅前の井の頭劇場で「『姫君千夜一夜』というバラエティーショー、今でいうミュージカル」をやったという記述もあるからです。

以上の事実から、杉田劇場で公演を打った「劇団薔薇座」は、千秋実主宰の「薔薇座」であると考えて間違いないでしょう。


千秋実といえば黒澤映画の常連。『七人の侍』で平八という飄々とした愛すべき浪人を演じたほか、『隠し砦の三悪人』では藤原釜足との凸凹コンビが、『スターウォーズ』のC-3POとR2-D2のキャラクタに影響しているというくらいですから、世界的な俳優と言っても過言ではありません。

また、後年、薔薇座が上演した菊田一夫の『堕胎医』が『静かなる決闘』の原作となっていることからも、黒澤明と千秋実の関係の強さを感じさせます。

そんな千秋実が旧杉田劇場の舞台に立っていたのです!


現在の杉田劇場のウェブサイトには、「旧杉田劇場に出演した主な人々」として以下の方々が挙げられています。

大高ヨシヲ
市川門三郎
五世市川新之助一座
五世市川染五郎(後の初世松本白鸚)
浅香光代
渥美清
美空ひばり
杉山正子
劇団葡萄座
浜中学校1-2期生
ほか多数

この中に千秋実が加わることになります(加えてください)。


余談ではありますが、終戦後、復員してきた三船敏郎は一時期、磯子で進駐軍関連の仕事をしていたそうです。杉田の隣町、中原に下宿していて、地元の古老の中には、杉田商店街を歩く三船の姿を見たという人もいます。

つまり、終戦後の杉田には、『七人の侍』のうちの二人がいた、ということになるわけです。

ちょっと強引ではありますが、地元の人間としては妙に誇らしい気持ちになります。


さて、新聞広告によれば、薔薇座の公演は昭和21年2月16日から5日間(20日まで)とあります。この公演期間の真っ最中、社会に大きなショックを与えた政策が実施されます。

新円切替えです(昭和21年2月17日)。

それは薔薇座の公演にもかなり影響したそうで、著書にはこうあります。

「二月の杉田劇場では、初日・二日目と満員で喜んだが、三日目、二月十七日モラトリアム発令。いわゆる新円切りかえ、預金は封鎖され、今までの金は使えなくなった。せっかく見にきたお客がすごすごと帰ってしまう」(『わが青春の薔薇座』より)

広告の公演日程と1日のズレがあって、記憶違いなのか広告の誤植なのかはっきりしませんが、いずれにしても数十年後の回顧録にも書かれるくらいですから、初日の翌日(か翌々日)に起きた「新円切替え」のインパクトがどれだけ大きかったかがわかります。

しかし夢あふれる若い役者たちです。

「普通ならがっくり落ちこむところだが、彼らは落ちこまない。宝物を抱えていたからだ」(同書)


ところで、薔薇座がどういう経緯で杉田劇場にやってきたのか、そのことについてはよくわかりません。プロデューサーの鈴村義二が薔薇座の評判をどこかで耳にしたのか。それとも千秋らが直接売り込みに行ったのか。

北海道出身の千秋実は、昭和8年、10代半ばで上京した際、横浜・本牧に住んでいた長兄宅に身を寄せたそうです。上掲書には「昭和二十年五月の大空襲で焼け出された」との記載もありますから、10年以上、ずっと横浜に住んでいたことになります。

もしかしたら、杉田あたりに知り合いがいたのかもしれませんし、劇場ができたという話を耳にする機会があったのかもしれません。

ともあれ、地元横浜の葡萄座だけでなく、千秋実のようなプロの若い演劇人にとっても、一種の「揺り籠」のような場所が、旧杉田劇場だったのでしょう。

ちょうど大高よし男が杉田にやってきた頃の話です。薔薇座の舞台を大高が見ていた可能性もあります。

そう思うと、なかなか感慨深いものがあります。

→つづく


追記:ライター・編集者の濱田研吾さんのブログに、千秋実の岳父である佐々木孝丸の弟子、嶋田親一氏への聞き書きが、とんでもない情報量で詳細に書かれています。この中には佐々木孝丸のことはもちろん、薔薇座のことも出てきますし、新国劇の話も出ます。中原生まれの映画スター、黒川弥太郎は新国劇出身で、秋月正夫が師匠だったそうです(劇団若獅子の笠原章さんから聞いた話)。杉田劇場と磯子の芸能人の後年の姿が見え隠れするようです。

 

3 件のコメント:

うめちゃん さんのコメント...

ホームページに加えます。だんだん増えていくかな。

管理者 さんのコメント...

ありがとうございます。増えるといいですよね。渥美清の件も、わずかですが手がかりが見つかりました。

うめちゃん さんのコメント...

市川雀之介も加えなければなりません。入れてもらいます。