(20) やはり彼は横浜にいたのだ

前々回の投稿で「ここに大高の活動がまったく残っていないとしたら、少なくとも横浜や川崎で彼が活動していたことは「ない」と断定していいと思います」などと書いたわけですが、これまで4ヶ月の調査で得た教訓は、僕が断定(もしくは高い確度で推定)することはたいてい間違っている、ということです。

(トホホ…)

そんなこんなで、その後もコツコツと調べ続けた結果、ようやく昭和17年2月9日の新聞に大高ヨシヲ(記事では「義男」)の名前を見つけることができました!

記事は同年2月7日初日、横浜・敷島座(伊勢佐木町四丁目)での伏見澄子一座の興行に大高が出演しているという内容です。

やはり大高ヨシヲは、横浜で芝居をしたことがあったのです!

昭和17年2月9日付神奈川新聞より引用

大高の名前は『近代歌舞伎年表 京都篇』(第10巻:昭和11年〜17年)で、京都・三友劇場での伏見澄子一座の公演記録の中に見つけていましたが(この時は「よし男」)、そこに掲載されていたのは昭和17年2月28日から4月末までと、同年8月31日から10月末までの興行です。また、別の資料から翌18年の3月には浅草・金龍館で伏見澄子一座が参加した合同公演に出演し、4月と5月は再び京都・三友劇場に出ていることも判明していますが、それ以外の記録は見つからないのです。

僕の誤算は、『近代歌舞伎年表』が参照した京都日出新聞の記事に

"若手幹部総出演には『元禄辰巳の夜噺』を出してゐるが、中でも大高よし男、二見浦子は客の目を引いてゐる"

とあったのを、早合点して、この時の大高は新人でこれがほぼ初舞台だったんじゃないか、と勝手な想像(妄想)をしたことです。なので、昭和17年3月以前の記録を調べることなく、痕跡が消えた昭和18年の初夏以降の記録ばかりを調べていたわけです。

(悪しき妄想癖…)

さて、やっと見つけた神奈川新聞の記事にはこうあります。

"敷島座(七日より)伏見澄子一座(中略)『侠艶お吉ざんげ』三場宮崎角兵衛の脇役、大高義男(両?)優の登場はこの劇団なほハマ(の?)フアンをより魅するに充分"

この記事からも大高ヨシヲがまだ「おなじみ」と呼ばれるほどのキャリアではなく、どちらかといえば魅力的な新人で、少なくとも横浜には初登場に近い存在という印象を受けます。そして、京都や浅草の記録を踏まえれば、昭和17年から18年にかけてのこの時期の彼は、伏見澄子一座に帯同していたと考えて間違いなかろうと思います。

そうなると、いつから大高が伏見澄子一座に参加し、どのくらいの期間横浜の舞台に立っていたのかを特定することが次のステップのような気もするので、そのままさかのぼって調査してみましたが、昭和16年の夏くらいまで見ても、横浜で伏見澄子が興行した記録は見つかりませんでした。これまでの反省から安易に断定するのは危険ですが、昭和17年の2月に「登場」と書かれている大高が、半年以上前に横浜の舞台に立っていた可能性は低いような気がします。


ところで、伏見澄子は昭和16年の夏(7月と8月)に、浅草の松竹座で青柳龍太郎、市川百々之助、田中介二といった当時の剣劇界のスターとともに「鈴新座」という一座を組んで興行しています(『松竹七十年史』より)。

幸運なことに「日本の古本屋」のサイトに、この興行のパンフレットが販売されていた痕跡が残っていて(こちら:ただし売り切れ)、画像検索で出てくるデータを参照すると、出演者の名前がぼんやりですがわかります。

残念ながらその中に「大高よし男」または「大高義男」らしき名前は見当たりません。ですが大高とともに新聞記事に出てくる「宮崎角兵衛」の名前はあるので、宮崎は横浜で大高と共演する以前から伏見澄子一座に帯同していたと思われるし、大高はその時にはまだ伏見澄子一座と関わりがなかったか、もしくは鈴新座のパンフには名前が出ないほどの立場(新人など)だったのかもしれないと推測できます。

大高ヨシヲの初舞台をどう特定するかは難しいところですが、伏見澄子一座の舞台で彼の名前が注目されるようになったと仮定すると、昭和16年の後半から昭和17年の正月にかけてが大高の飛躍の時期と考えていいでしょう。


伏見澄子は前にも書いたように、大江美智子、不二洋子とともに戦時中の女剣劇ブームの中で「三羽烏」と呼ばれた存在ですが、大江や不二に比べると若干格下という感が拭えません。

伏見澄子を見出したのは籠寅興行部の代表である保良浅之助で、聞き書き調の伝記にはこう書かれています。

"伏見は、大阪の新世界にあるシネマ・パレスという小さな劇場に出ていたが、非常に大柄な女で、なかなかの力持ちだった。その癖、可愛い顔をしているし、姿容(すがたかたち)も悪くない。私は伏見を、一風変つた女剣劇で、世に送り出すことにした(中略)二人の先輩(註:大江美智子と不二洋子)に対して、伏見の持ち味は、全然、違つていた。私は、それが却って面白いと思い、そのゲテモノ的な要素を活かすことに努めた。だが、大江や不二に較べると、伏見は何と言っても、芝居がドロ臭くて仕方がない(後略)"
(長田午狂『侠花録:勲四等籠寅・保良浅之助伝』)

実際、興行の記録を調べてみても、先輩格である大江美智子と不二洋子が、互いに切磋琢磨するライバルのように浅草の松竹座や大阪の弁天座を入れ替わりで興行していた一方、伏見澄子は京都の三友劇場や蒲田の愛国劇場、川崎の大勝座など、大江や不二があまり出ない、やや格下の劇場を回っている印象です。

そうした小規模な劇場での公演記録(の詳細)が新聞や本にはほとんど載っていないことから、伏見澄子の記録は多くなく、それにともなって、大高の足どりもわかりにくくなっていると言っていいのかもしれません。

とはいえ、大高を探す手がかりは昭和16年秋以降の伏見澄子一座の活動の中にあると思われます。やはり調査の原点は伏見澄子一座なのです。終戦までの一座の記録の中に、再び大高の名前を見つけることができれば、戦後、杉田劇場に至る彼の動向の全貌が見えてくるはずです。

調査は続きます。


→つづく

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