終戦前の大高よし男についてはもう資料が見つからないので、亡くなるきっかけとなった事故の記事から名前や年齢を探ろうとしていますが、それも長野県の地元紙を除けば調べ尽くした感があります。
(次の資料を早く探さねば)
そもそもを言えば、この調査は、旧杉田劇場のことを調べている現杉田劇場の職員、Tさんの仕事を一部引き継いでいるようなところもあるわけですが、その基礎資料となっているのが、(何度も引用している)杉田劇場のウェブサイトに載っている片山茂さんの証言(聞き書き)です。
ですが、聞き書きというのは裏付けをきちんと確認しないと誤解が流布する危険を伴いますから、鵜呑みにせずに事実を調べるという作業がなかなかの難題だったりします。
(ちなみに最近のTさんは、もっぱら美空ひばりのデビューと磯子での生活について精緻に調査をされていて、もはや磯子(横浜)における美空ひばりについては情報蒐集と知識の豊富さから、日本でも屈指の存在と言えるほどです)
さて、その片山さんの証言によれば、旧杉田劇場は昭和21年1月1日に開場したことになっていますが、どの新聞を見ても昭和21年1月に杉田劇場がオープンしたという記録がありません。同年3月の弘明寺・銀星座や9月の磯子・アテネ劇場については報道なり広告があるのですが、杉田劇場はない。
本当に元日にオープンしたのだろうか、というのが疑念としてのしかかります。
昭和20年11月30日の神奈川新聞に「磯子に映画劇場」という見出しの記事が掲載され、それが杉田劇場を指しているだろうことは、ずいぶん以前の投稿で書いた通りですから、1月1日開場はそんなに不自然ではありませんが、いずれにしてもそれを裏付ける証拠は、現段階では見つかっていないのです。
一方、前回の投稿で書いたように、1月22日の広告に「片山明彦とかもしか座」の公演、続いて1月26日から2月4日までの「近江二郎大一座」の公演が告知されていますから、元日かどうか不明とはいえ、少なくとも昭和21年1月下旬までのどこかの日付で、杉田劇場が開場したことは間違いなさそうです。
ところで、開場日のほかに、もうひとつの不明なのは「2月に入って」からやってきた大高よし男が、興行をスタートさせる時期が「2月中旬」という点です。
大高一座(暁第一劇団)の名前が新聞広告に初めて出るのは、これまで調べた範囲では昭和21年4月10日が最初で、次が4月13日です(この広告は美空ひばりのデビューの日を裏付ける証拠としても有名です)。
昭和21年4月10日付神奈川新聞より |
昭和21年4月13日付神奈川新聞より |
この広告に掲載されている演目は、現存しているポスターのものとは異なります。
大高一座のポスター(杉田劇場蔵) |
大高一座のポスター(杉田劇場蔵) |
また、4月10日の広告に「三の替り 九日初日」、13日の広告には「四の替り 十三日初日」とあることから、演目は4日ごとに替っていたことがわかります。
そのパターンをふまえて整理すると、大高一座の4月興行は
1日〜4日:4月初日(興行始まり)5日〜8日:「二の替り」9日〜12日:「三の替り」(4月10日の新聞広告)13日〜16日:「四の替り」(4月13日の新聞広告)
となるはずです。
ですから、4月最初の興行と「二の替り」が、現存しているポスターに示されているものではないかと推察されるところです。
(ちなみに杉田劇場に保管されているこのポスターは、本来ならば博物館に収蔵されてもいいくらいの貴重な資料だと思います)
上記のように4月の興行については比較的詳しくわかっているのですが、2月から3月にかけてがよくわかりません。
大高は一体、いつから杉田の舞台に立っていたのか。
少し時間を戻して、昭和21年の2月から3月にかけての記録を検証してみます。
片山さんの証言には
「2月中旬、大高ヨシヲ劇団の公演が始まりました。座長大高ヨンヲの男顔の良さと芸の上手さで、たちまち大人気となり、毎日盛況でした」
とあります。
実はこの「中旬」には若干の疑念があるのです。
2月16日の読売新聞・神奈川版に大高一座ではなく「劇団薔薇座」の広告が掲載されています。
昭和21年2月16日付読売新聞・神奈川版より |
「二月十六日より五日間」とありますから、片山さんの証言にある「2月中旬」にあたる16日から20日まで、杉田劇場では「劇団薔薇座」が公演していたことになるわけです。
調べてみると、劇団薔薇座は終戦後に俳優の千秋実が妻の佐々木踏絵とともにつくった劇団だそうです(野沢那智を思い浮かべる人もいるでしょうが、当然違います)。
ですが、Wikipediaによれば彼らが劇団を立ち上げたのは「昭和21年5月」。
杉田劇場に薔薇座が登場した時期より2ヶ月も後のことです。
上記広告には「劇團薔薇座 横濱初出演」という文言もあることから、東京あたりで話題の劇団が横浜にやってきたという印象で、千秋実の薔薇座がピッタリ符合しそうですが、この時期にはまだ劇団自体ができていないことになっていて、時間的なズレが僕のモヤモヤを増幅させます。
う〜ん
ひょっとすると千秋実の劇団の前に、大高一座が「薔薇座」を名乗っていたのでは、という推測もできますが、これはお得意の妄想レベルですから、現段階では話になりません。
幸いなことに、千秋夫妻が当時のことを書いた『わが青春の薔薇座』という著書があるようなので、薔薇座の問題はもう少し調べてみることにします。
一方で、3月21日と3月23日には「坂本武・松本榮三郎」の競演を伝える新聞広告が出ます(松本榮三郎一座に坂本武が加盟した形。松本榮三郎は元映画スターで、横浜・川崎でも頻繁に舞台に立っており、昭和19年7月に大勝座が火災で全焼した時には近江二郎一座と合同公演を行っていました)。
昭和21年3月23日付読売新聞・神奈川版より |
ここには「好評上演中」という文言があることから、最初の広告が出る21日かそれ以前に公演がスタートし、23日かそれ以後まで続いていたと推定できます。
ふたたび片山さんの証言によれば
「団員の休暇もあり、その間に東京より 有名芸人の出演も行い、間をつなぎ興業していました」
とあるので、この時期の杉田劇場では、戦前・戦中の敷島座や大勝座のように、どこかの劇団が1ヶ月単位で休みなく興行していたわけではなさそうです。
証言中にある「有名芸人の出演も行い」というのが「薔薇座」だったり、「松本榮三郎」や「坂本武」なのかもしれませんし、それ以外にも広告にない芸人の出演があったのかもしれません。
たしかに「団員の休暇もあり」という理由もあったでしょうが、広告の内容をみると、大高が登場する前から、プロデューサー鈴村義二によってブッキングされた劇団や芸人の興行が入っていたため、その間隙をぬって大高一座の興行が組まれたというのが真相のような気もします。
終戦前までの新聞記事では、大高(高杉)のことは「人気者」と書かれることが多くあるので、やはり実力を伴った男前の人気俳優だったのでしょう。
広告など打つ必要もないくらいの大入りだったのか、はたまた、広告を打つだけの価値があるか見極めていたのか。
いずれにしても広告や記事の少なさが、大高よし男という人物をことさら謎めいた存在にしています。
目下最大の目標は「男前の」と言われていた大高の写真を見つけ出すことです。
(誰か写真を持っている方がいましたらお知らせください)
→つづく
2 件のコメント:
美空ひばりがどこかの雑誌で語っていました。最初に出たのは杉田映画劇場だと。もしかしたら、杉田に映画劇場ができるという記事を読んだ父か母が、子どもの和枝ちゃんにその話をしたのかもしれません。それで「杉田映画劇場」というのが彼女の脳裏に残っていたのかも。
そうかもしれませんね。当時は映画劇場という認識だったのかもしれません。
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