(5) キーマン 鈴村義二・1

 ここでちょっと大高ヨシヲから離れて、旧杉田劇場のこと。

杉田劇場のオーナーは高田菊弥という人です。戦争中、杉田(金沢区昭和町)の「日本飛行機」(日飛)という会社の下請け工場を経営していました。出身は信州の木曽(南木曽)で、彼がなぜ木曽から横浜に出てきて、そういう仕事をしていたのかは正直よくわからないところですが、今回はそこには触れません。

日飛のウェブサイトによれば「1934(昭和9年) 旧海軍用航空機の生産を目的に(旧)日本飛行機(株)を創業」とあります。初代社長は初代社長は加藤亮一氏(元海軍中将)で、二代目が堀悌吉氏(元海軍中将)ともありますから、重要な工場だったのでしょう。

サイトにはまた「堀社長は、山本五十六連合艦隊司令長官とは海軍兵学校の同期で無二の親友であり、後、山本長官はしばしば当社を来訪された」とありますし、終戦間際にはロケット戦闘機「秋水」の製作も担っていたとも書いてあります。

1931(昭和6)年刊行の『土地宝典』を見ると、杉田・中原はおだやかな海に面した、田畑の広がるのどかな風景だったようで、農業や漁業を生業としていた家が多かったと思われます。そんな杉田の人々にとって、日飛は突如あらわれた巨大工場、という印象だったかもしれません(1936年には隣接地に横浜海軍航空隊もでき、景色が一変したのだと思います)。

おそらく杉田や富岡あたりにはたくさんの下請け工場ができ、社員寮やアパートや関連施設も続々建ったと思います。そこで働く人たちが利用する飲食店や商店なども多くなり、街は日々賑わいを増していったことでしょう。日飛(や石川島)のような工場が、いまの杉田の街の基盤を作ったといっても、あながち間違いではない気がします。

そんな日飛の下請けのひとつが高田菊弥の経営していた工場(「東機工」という会社だそうです)ということになります。

しかし、いかんせん軍需産業ですから1945年8月の敗戦とともに工場は即閉鎖されます。当然ながら下請けの仕事もなくなり、日飛も東機工も社員は路頭に迷うことになります。まずは新しい仕事を探さなくちゃいけない。日飛の社員の中には会社を離れて岡村町に「岡村製作所(現オカムラ)」を創業した人たちもいたそうです。東機工の経営者・高田菊弥も「えらいこっちゃ。なんとかしなくちゃ」…と言ったかどうかはわかりませんが、とにかく必死に生き延びる術を探し、あれこれ考えを巡らせたに違いありません。

で、思いついたのが「劇場」。

この発想の飛躍にはちょっと驚かされますが、高田菊弥という人のことをじっくり考えてみれば、そんなに突飛でもない気がしてきます。実は高田菊弥、かなり先見の明のある人だったんじゃないかと僕は思っています。彼が生まれたのは明治43(1910)年。昭和16(1941)年に東機工を創業した時は30歳か31歳。生まれ育った地元ならまだしも、遠く離れた横浜の地での会社経営です。現在とは価値観が異なるとはいえ、その当時でも30歳の若さで会社を起こすには、それなりのバイタリティと時代の先を読む力が必要だったでしょう。

そんな高田が終戦で考えたのが

「平和な世の中になった今、娯楽が求められているはずだ」

ということ。

業態の変わりっぷりは尋常じゃありませんが、着眼点は悪くないと思いませんか。実際、横浜市内で戦後にできた劇場・映画館の中ではおそらく杉田劇場の開場が一番早く、このスタートダッシュの良さは、高田の先見性と決断力によるものも大きいのではないかと僕は考えています(ひょっとすると高田自身、芸事好きだったのかもしれないですね)。

唖然としながら、ほかに良案のない社員たちも運命を高田に託し、さっそく工場から劇場への改装工事が始まります。たぶん昭和20年の秋の終わり頃です。

ところで、昭和20年11月の神奈川新聞に「磯子に映画劇場」というタイトルの記事があります。

昭和20年11月30日付神奈川新聞より

見出しには「磯子に」とありますが、記事を読めば建設地が杉田であると分かります。また記事の締めには「蓋開は来月十五日の豫定である」(「蓋開」という言葉をここで初めて知った)とも書いてあるので、要約すると「昭和20年12月15日、磯子区杉田に映画劇場が開場する予定」ということです。

(記事中には「今まで車馬の響より外に聞かれなかったこの方面に音楽の音の流れるのも間近い」とも書いてあるので、杉田をどんだけ文化不毛の地扱いしているんだとも思いますけどね)

前にも引用した、現杉田劇場の聞き書きによる片山茂氏の証言には「(杉田劇場は)暮の12月20日頃には大方の工事が終り」とありますから、高田たちの作業工程はこの記事内容に近い感じです。また、戦後の杉田には映画館が2つ(杉田東映と東洋劇場)あったものの、どちらも1950年代のオープンなので、この記事とは明らかに時期がズレます。つまり、ここで報じられている「映画劇場」は、杉田劇場のことで間違いないと言えそうです。

いや待てよ。とすると、高田菊弥は当初、映画館を作ろうとしていたのか?


ここで登場するのが、杉田劇場のキーマン、鈴村義二です。

片山氏の証言にはこうあります。

「(高田は)早速、芸能界の実力者の鈴村義二先生に電話し協力を頼んだ。 当時の鈴村先生は台東区の区会議員で、浅草の芸能界では有名人でした。高田とは戦時中よりの昵懇の間柄で、すぐに承諾してくれ、11月初めに鈴村先生が杉田を来訪されました」

工場経営者と芸能界の実力者がどこでどう結びつくのか不思議なところですが、それは後述するとして、いずれにしても昭和20年11月、「浅草の芸能界では有名」だった鈴村義二という人が高田菊弥のもとを訪れ、おそらくそれ以降、杉田劇場の「ブレーン」ないし「プロデューサー」となるわけです。

しかし、映画劇場になるはずだったものが、なぜ実演の芝居小屋に方向転換したのか。

もちろん、当時の映画館は映画だけでなく幕間に実演をやるようなケースも多く、「映画劇場」だからといって実演とは無縁ということもないのですが、開場後の杉田劇場が一貫して芝居・浪曲・落語など実演ばかりをやっていることからすると、当初から映画ではなく実演専門の劇場だったことは明らかです。

そこにはプロデューサー、鈴村義二が深く関わっていたのではないか。

かなり妄想をふくらませた仮説ですが、僕はそう思っています。

→つづく

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