(71) 近江二郎が横浜に初登場した時期

近江二郎は川上演劇学校と東京俳優学校を卒業した後、新派の舞台に立っていたとされています。

横浜の喜楽座で大正9年8月30日から10日間、谷崎潤一郎原作の『お艶新助』に出ていることは、資料(『明治大正新劇史資料』)からわかっていましたが、近江二郎が横浜に来た時期についてははっきりしませんでした。


昭和15年に敷島座で公演した際の新聞記事によると大正7年から喜楽座に出演したと書かれていましたし、近江資朗さんのご親族から教えていただいたファミリーヒストリー("FIFTH BORN SON")にも、近江二郎が喜楽座の舞台に立った時期として「大正七年頃(一九二〇年頃)」の記載もありましたが、実のところ当時の新聞には喜楽座と近江二郎を結びつける記事がなかったので、長く疑問に思っていたのです。

昭和15年2月29日付横浜貿易新報より

僕の調査の対象は「大高よし男」ですから近江二郎にばかり気を取られているわけにもいかないし、大正時代の演劇状況と大高はまず無縁だろうと後回しにしていたのを、このところの調査の行き詰まりから、近江二郎の横浜登場の時期を少し時間をかけて調べてみたところ、以下の広告に出会ったのです。

大正9年1月30日付横浜貿易新報より

大正9年1月30日から始まる二月興行に「新加入 近江次郎」が出演するという広告です(後述の配役一覧からすると『続金色夜叉』(長田幹彦原作)に出演したものと思われます:しかも間貫一の役で!)。

「新加入」を文字通りに受け取れば、この興行から近江二郎(次郎)が喜楽座の一座に入ったということになります。もっとも、それ以前から端役で参加していたけれど、この時期から一座に正式加入という意味なのかもしれませんから、もう少し精査が必要ですが、記録上、横浜の舞台興行の歴史に近江二郎の名前が登場するのはこれが初めてと考えて間違いないでしょう(上記『明治大正新劇史資料』の記述は近江二郎が喜楽座に来てから半年以上経ったあとの記録だということもわかりました)。


配役一覧には「(荒二郎)」との記載もあります。これは「ハマの団十郎」と呼ばれた市川荒二郎のことで、明治期の「賑座」での「ハンケチ芝居」で絶大な人気を誇り、この「喜楽座」でも活躍した横浜近代演劇の代表的な役者であり、荒二郎を抜きに横浜の演劇史を語ることはできないというほどの人です。

大正9年1月29日付横浜貿易新報より

荒二郎は歌舞伎役者ですから、新派役者の近江二郎と同じ演目に出ることはなかったとは思いますが(当時の喜楽座は歌舞伎と新派の双方を上演していたようです)、喜楽座一座の同時期に市川荒二郎と近江二郎がいたのかと思うと、歴史がグッと身近に迫ってきたようで感慨深いものがあります。

この興行の別記事には近江二郎のことを「新派後藤門下の腕達者」としています。「後藤門下」というのが何をさすのか不勉強でわからないところですが、喜楽座時代の近江二郎を追いかけていくと、判明するのかもしれません。

大正9年1月29日付横浜貿易新報より

いずれにしても、こういう記事に接してみると、近江二郎という人が近代演劇史に登場する人々と一緒に活躍していたことがわかるし、後年、そんな近江と共演している大高も相当恵まれた環境にいたのだろうということもわかります。

広島出身の近江二郎と横浜の縁は、正直、よくわからないところもありました。川上音二郎はじめ、新派の舞台にとても好意的だったという横浜の観客が、やはり近江二郎の人気も支えていたのでしょう。戦後、弘明寺銀星座・柿落とし興行の広告に「ヨコハマの人気者」と書かれているのも納得できます。


→つづく


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