(66) 市川右之助、ふたたび

本業の本番が無事に終わって、次は以前お知らせした「いそご文化資源発掘隊」の枠内で行われる講座版『大高ヨシヲを探せ!』の準備に取りかかかります(もっとも、このタイトルではゲームか何かと誤解されるとかで、講座名は『旧杉田劇場の看板役者・大高ヨシヲの謎に迫る』に改題するようです)。

準備を兼ねて、これまで収集した資料を再確認しておりましたが、大高よし男や高杉弥太郎に関する新情報は見つかりません。やはり昭和10年頃から昭和14年末までの近江二郎一座の活動を調べないと、大高につながる情報は発見できそうにないのですね。ともあれ、現段階での調査対象ははっきりしています。

ところで、その再確認の中で、昭和14年9月8日付横浜貿易新報にこんな記事を見つけました。

昭和14年9月8日付横浜貿易新報より

これは浅草松竹座での鈴鳳劇(大江美智子一座)の劇評の一部ですが、記事中にこんな記載があるのです。

「右之助と云つたつて大阪の齊入の家とは無関係だそうで、實力で押してゆく氣迫に満ちた青年俳優である」

大江美智子一座に参加していた市川右之助についての評ですが、これが正しければ右之助は「齊入の家」すなわち歌舞伎の名跡とは無関係で、偶然名前が一緒だということになります。

以前の投稿で、この右之助は二代目市川右團次の子で、廃業した二代目市川右之助だという説があることを書きましたが、歌舞伎の家とは縁がなかったとすると、右之助=大高説もしっかり再調査した方がいいのかもしれません。

資料を探す方法のひとつが「ヤフオク」でもあるのですが、市川右之助についても歌舞伎ではない方(この項で紹介している)右之助一座のチラシが、現在、2点ほど出品されています。

そのうちの一点には写真もあるので、右之助=大高の確証が見つかったら、これで大高の顔がわかった、ということにはなりますが、世の中そんなに甘くないのですね。

とはいえ、大高が高杉弥太郎の名前で横浜・敷島座に登場する直前、参加していた近江二郎一座は名古屋で市川右之助一座と合同公演をしているのですから、大高と右之助に何らかの縁があってもおかしくはありません。

調査継続です。


→つづく


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