資料の再検証の過程で、またちょっと気になるものに目が止まりました。
それは、大高や近江二郎の周辺情報の参考資料として収集していた昭和12年の「花月園の歌劇」という新聞記事です。
齋藤美枝著『鶴見花月園秘話』によれば、花月園には1922(大正11)年、少女歌劇が設立されたそうで、翌年の関東大震災で中断を余儀なくされつつも、昭和6年まで活動が続いていたようです。
花月園少女歌劇は「東の宝塚」と呼ばれるほどの人気だったそうですが、上述の通り1931(昭和6)年に一旦解散し、その後、昭和10年頃から新生花月園歌劇部として男性俳優も含めた募集が行われ、新たな活動が始まったとのことです。
記事はその新生花月園歌劇部が昭和12年の元日から公演をスタートさせるというものです。
それによれば花月園歌劇の演目は、喜歌劇『パラピンと唖娘』と『ヴァラエイー』(ヴァラエティーか?)の二部構成で、演目からもちょっと洒落た雰囲気を感じさせます。
喜歌劇のあらすじは
「大酒豪の樵夫パラピンが偽医者となって富豪ガソリン宅に乗込み珍妙不思議な診察の結果、令嬢コリーの唖を治す」
というもので、プッチーニの『ジャンニ・スキッキ』を思わせ、これまた喜歌劇の王道を行くような洒落た内容です。
ですが、ここで気になるのは歌劇団や喜歌劇の内容ではなく、その舞台に出ていた出演者です。
記事にある配役一覧に、なんと「深山百合子」の名前が見られるのです。
昭和12年1月1日付横浜貿易新報より |
既報の通り、深山百合子は近江二郎の妻で一座の看板女優です。この記事にあるのが本人なのか同姓同名の別人なのかは不明です。
ただ、この時期の近江一座は横浜での活動をしていないので、深山百合子が花月園歌劇に出ていたとしてもおかしくはありません。また、深山百合子に並んで名前のある「小松みどり」も同姓同名で横浜出身の女剣劇役者がいることから、この両名は新生歌劇団に、経験のある役者として招聘されたか、自ら応募した可能性も否定できません。
記事の冒頭近くには「研究生十餘名を加えて総勢二十餘名が」とありますから、研究生以外はおそらくプロで、この中に深山百合子や小松みどりが含まれていたのかもしれません。
深山百合子は「關外福井家」の「芸妓(芸者)」でもあったようなので、単に近江一座の看板女優というだけでなく、さまざまな活動をしていたとも考えられます。
昭和16年5月4日付神奈川県新聞より |
ところで、深山が花月園歌劇に出ていたという可能性が否定できない一方で、彼女が昭和12年1月には名古屋宝生座で近江一座の舞台に立っていたという記録もありますから、断定が難しいところです。
『近代歌舞伎年表 名古屋篇』第16巻より |
ただし、この記録では1月6日からとなっているので、もしかしたら上記記事にある花月園歌劇の興行が1月5日までで、その後、深山百合子は6日から名古屋に移ったということも考えられるわけです(「二の替り」の文言が気になるところはありますが)。
いずれにしても、花月園歌劇における「深山百合子」の正体も探ってみる価値はありそうです。
→つづく
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