戦後、昭和21年2月中旬、彗星の如く(?)杉田劇場に現れ、大変な人気を博す大高よし男ですが、新聞広告は4月中に少し出るだけで、その後は消えてしまいます。
何度も引用している旧杉田劇場従業員の片山茂さんの記憶では
「劇場も長期に渡る公演になるとお客様に飽きられるとのことで、五月に入り、弘明寺銀星座にて公演中の近江二郎劇団と入れ替わり興業をしました」
とあります。
事実、新聞広告では5月1日から10日間、杉田劇場での近江二郎一座公演が宣伝されています。片山さんの話が正しければこの時期に大高一座(暁第一劇団)は弘明寺の銀星座で公演していたことになります。
昭和21年5月1日付神奈川新聞より |
銀星座の新聞広告によれば、5月12日から近江二郎一座の公演が再び始まっていますから、入れ替わりは10日間だけだったと思われます。
昭和21年5月12日付神奈川新聞より |
この時期、杉田劇場の広告がしばらく出ないので、5月の実際のスケジュールはわかりませんが、上記、片山さんの証言から普通に考えれば大高一座が5月いっぱいまで杉田で公演していたとするのが妥当でしょう。
6月に入ると銀星座からは近江二郎の名前が消えるので、一座は横浜から離れて別の地域での興行に移ったと思われます。また杉田劇場でも6月から8月は主に市川門三郎一座の興行が続くので、暁第一劇団も横浜からは離れているように思えます。
昭和21年6月1日付神奈川新聞より |
実はそのこともまた、大高よし男を考える上での大きな謎なのですが、収集していた『近代歌舞伎年表』を整理する中で、近江二郎一座が昭和21年7月と8月に名古屋で興行していることを再確認しました。
『近代歌舞伎年表 名古屋篇』第17巻より |
『近代歌舞伎年表 名古屋篇』第17巻より |
横浜を離れた近江一座は、戦前からの重要な拠点であった中京地区での興行に向かったのかもしれません(静岡や浜松、岐阜などの可能性もある)。
そうだとすると、大高よし男は杉田劇場を紹介してくれた(かもしれない)近江二郎に恩義を感じ、近江一座の巡業に自分を含めた一座を帯同させ、中京地区で舞台に立っていたのではないかとも推測できるわけです。
9月1日から大高一座(暁第一劇団)は杉田劇場での興行を再開します。
6月から8月まで、近江一座の興行は大高一座との合同公演だったと考えるのは、ちょっと飛躍しすぎでしょうか。
(名古屋の新聞に大高のことが載っているといいのですが…)
この時期、近江一座が名古屋以外のどこの舞台に立っていたのか、その謎を探ることも大高の行動を調べる上で重要なポイントになりそうです。
→つづく
〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合わせフォームからお知らせください。特に大高よし男の写真が見つかると嬉しいです。
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