(33) 二見浦子のことなど

これまた以前の投稿で、昭和16年の新聞に「石川静枝改め二見浦子」という記載があったことを紹介しましたが、その折に “昭和14年の段階ですでに「二見浦子」の名前が出ているからどうもおかしい” というような趣旨のことを書きました。

で、その昭和14年の記事を精査していたら、こんなのが出てきたのです。

昭和14年8月28日付横浜貿易新報より

5月にアメリカ巡業から帰国した石川静枝が、横浜(敷島座)〜名古屋と巡演し、8月21日からの大阪浪花座で、籠寅演芸部の代表である保良浅之助の命名により、二見浦子に改名したというニュース。

その翌月、昭和14年9月の浪花座が「籠寅演芸部 女流剣戟競演大会 二見浦子、月形陽子、花柳須磨子、大内洵子合同一座」の興行になるわけですから、ドンピシャ(死語?)で時系列にも合致します。

つまり、後年、昭和17年に京都・三友劇場、伏見澄子一座で大高よし男と共演することになる「二見浦子」は、昭和13年秋から8ヶ月にわたるアメリカ巡業を成功させて帰国し、横浜敷島座の舞台にも立った「石川静枝」で間違いない、と言えそうです。

(戦後は「石川静枝」に戻したのかもしれません。大江美智子の公演などのプログラムに「石川静枝」の名前を見かけます)

ちなみに二見浦子(石川静枝)はこんな人です。

石川静枝(昭和14年1月20日付横浜貿易新報より)

二見浦子の経歴と写真が見つかったことで、また一歩、大高よし男の実像に近づいた気がします。

それにしても、三桝清にしろ二見浦子にしろ、はたまた近江二郎にしろ、いずれもアメリカでの巡業を経験しているわけで、そうした人々と同じ舞台に、しかも同じレベルで立っていた大高です。彼もやはりそれなりの役者だったと考えていいでしょう。

ここまでわかってみると、旧杉田劇場が連日大入になるほどの人気者だったというのも、なるほど頷けるところです。


さて、ついでにわかった日吉良太郎の情報も少しだけ。

彼の経歴はよくわからないところが多く、このブログでも「愛知県半田市出身」と書きましたが、紙上座談会で彼が発言しているのは、自分の生家が岐阜県神戸町(岐阜県安八郡神戸町)の造り酒屋だということです。

昭和14年8月15日付横浜貿易新報より

実際、神戸町には日吉神社というのがありますが、日吉神社からとって「日吉良太郎」を名乗ったというような話をどこかで読んだ覚えがあります(それもちゃんと特定せねば)。

これで、日吉良太郎の経歴もだんだんはっきりしてきました。

調べが進むにつれ、情報が徐々に修正されていくのは、ジグソーパズルのピースが合うような感じで、ちょっと心地いいものです。


→つづく

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