敷島座の毎月の興行について月末と月初だけを先行して調べてきましたが、ここでひと息、じっくり調べる体制に戻りたいところです(公演案内じゃないところに意外な情報がありますからね)。
とはいえ、先走りにも成果はあるもので、昭和16年に入ると演劇関連記事の内容が(僕にとって)とても充実してくるのです。
先述の通り、昭和16年の1月に近江二郎一座が再びやってきて、高杉彌太郎と大江三郎も参加した興行がスタートします。
近江一座の興行は3月いっぱいまで続き、4月は実演に移っていた日活の映画スター・澤田清が敷島座にも登場します。この興行に助演として参加するのが「三桝清」です。彼は昭和18年の3月に浅草金龍館で大高と共演しますが、大高と入れ替わりで来たこの時が横浜初登場だったようです。
前にも書いたように、昭和5年、筒井徳二郎一座とともに渡米して、アメリカ巡業では相当な好評を博した三桝が、11年後、伊勢佐木町・敷島座の舞台に立っていたのです。大高との関係もさることがながら、あの三桝清が横浜にいたかと思うと、なかなか感慨深いものがあります。
澤田一座は4月いっぱいで横浜を去り、5月からは静岡に新しくできた「常盤劇場」に移っています(火事になった劇場を再建したようです)。
そのあと、5月には河合菊三郎一座がやってきますが、この時に「石川静枝」という剣劇女優が参加します。彼女も昭和14年にアメリカ・ハワイを巡業した人です。筒井徳二郎、近江二郎、石川静枝と、戦前・戦中の劇団は思いのほか、海外公演(とりわけアメリカ巡業)を頻繁にやっていたことに驚かされます。新聞記事を追っていくと、アメリカもハワイも巡業先のひとつくらいに思われていたのかな、なんて錯覚してしまいそうです(ちなみに澤田清もアメリカ巡業をしています)。
さて、その石川静枝ですが、記事によると「石川静枝改め二見浦子」になったというのです。二見浦子といえば、翌昭和17年に京都で、伏見澄子一座の助演として、大高よし男と共演する女優です。その前名が石川静枝だったというのです。
昭和16年4月30日付神奈川新聞より |
ただ、ちょっとおかしいのは、昭和14年の大阪・浪花座の「籠寅演芸部 女流剣戟競演大会」に二見浦子の名前があることです。渡米の際にはたしかに「石川静枝」の名前で巡業していますから、石川静枝と二見浦子を使い分けていたのか、二見浦子を石川静枝に変えて、また二見浦子に戻したということなのか。このあたりは再調査が必要です。
そんなこんなで、昭和16年の年頭から初夏にかけては、後年の大高とつながりを持つことになる人々が、すれ違うように横浜の舞台に立っていたワケです。ベテランから若手まで、実力派が揃ったこの時期の敷島座は、「わかったふう」の僕から見ても、なんだかいつになくすごい興行が続いていた時期に感じられてなりません。
別の話になりますが、その頃の新聞に「横浜在住の役者」を紹介する連載がありました。残念ながら大高の名前は見当たりませんが、その中に「生島波江」の名前があったのです。当時、彼女は横浜に住んでいたのです。
それによると、生島波江は本名を「小島キク」といい、住所は中区立野町**(例によって番地まで書いてあるけど一応伏せておきます)。年齢は22歳だそう。昭和16年で22歳なのだから、日吉劇団の一員として東京の江東劇場に出た昭和13年は19歳、旧杉田劇場の舞台に立った昭和21年には27歳くらい。まだまだ若い役者だったことがわかります。
昭和30年代の住宅地図で住所を探してみましたが、そこにあった名前は「小島」ではありませんでした。具体的には示しませんが、今のJR山手駅の駅前です。結婚して姓が変わったのか、戦後、どこかに転居したのか、事情はよくわかりません。
ですが、少なくとも記事の出たその当時は立野に住んでいたのです。ポスターに列記されている名前だけだった人が、だんだんと息づかいを感じられる存在になってきました。この調査の醍醐味ですね。
そうそう、このブログのタイトルは「大高ヨシヲを探せ」ですが、どうやら大高の名前は「よし男」または「義男」が正しいようで、ブログタイトルは変えないものの、この先の本文中での大高はひとまず「よし男」で統一していこうと思います。
→つづく
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