(32) ゆかりのある人々の記事

今日はこれまで調べきれていなかった昭和14年春から夏にかけての新聞記事を閲覧。

一日ずつ調べないといけないのが難点ですが、その分、面白い記事に出くわす機会も多いのだと、一日数時間の作業で、目の疲れが限界に達しつつある老身を慰めております。

結果としては大高よし男(高杉彌太郎)に出会うことはありませんでした。

残念。

この頃の伊勢佐木町の主な劇場(敷島座と横浜歌舞伎座)では、酒井淳之助一座と日吉良太郎一座が長期の連続興行をしていて、どちらにも大高は参加していないようです。

その代わり、と言ってはなんですが、戦後の杉田劇場や銀星座にゆかりのある人々の記事がいくつか見つかりましたので、余談的にちょっと紹介。


まずは、大高一座に参加していた「藤川麗子」。

この人が日吉一座にいたことは別の資料(『郷土よこはま』No.115)で承知していましたが、新聞記事の中に名前を見つけたのはこれが最初かもしれません。

横浜で実際に起こった「ミラー事件」を題材とした芝居に、藤川麗子が「チャブ屋女」役で出演していると書かれています。

昭和14年8月4日付横浜貿易新報より

ミラー事件は、横浜の居留地で外国人が起こした殺人事件で、犯人であるロバート・ミラーは死刑となりますが、これが日本の法律による在留外国人の死刑第1号なんだそうです。

その事件を題材にしたオリジナル劇を日吉一座が上演したわけです。

日吉良太郎一座は「愛国劇」と銘打って、国策に阿ったような芝居を作っていたようですが、こうした横浜を舞台にした芝居も結構上演していて、横浜の演劇史研究家・小柴俊雄さんも言っていますが、その面は再評価してもいいんじゃないかな、なんて感じます。

そんなこんなの芝居内容は別として、この記事には「生島波江」(「生崎波江」と誤植になっているけど)の名前も見られ、のちの大高一座のメンバーが並んでいるというのが僕にとっては妙に嬉しいところです(日吉一座のメンバーをさらに精査すると、大高一座の別の座員が見つかったりするかもしれませんね)。


さて、もうひとつは、戦後、弘明寺の銀星座に夫婦で登場する小林重四郎と月澄子。このことは以前、杉田劇場のブログを引用する形で紹介しました。

その小林重四郎が浅草金龍館での舞台をすっぽかしてクビになったという記事です。

昭和14年4月16日付横浜貿易新報より

どんな事情があったのかはよくわかりませんが、この頃の役者はよくこんな事件(?)を起こしていて、クビにするだの、それをどこが引き受けるだの、業界から追放するだの、復帰するだの、そんな記事をしばしば見かけます。

クビになったって、戦後も舞台で活躍するのだから、たくましいというか呑気というか。戦争の影が重くのしかかりつつあったのでしょうが、それでもどこかゆるい社会だったのかもしれません。


最後は、杉田劇場や銀星座には直接関係ありませんが、磯子区中原出身の俳優、黒川弥太郎が横浜宝塚劇場(のちの横浜市民ホール、いまの関内ホール)で実演の舞台に立った時の劇評。

昭和14年5月2日付横浜貿易新報より

「ハマの生まれと云っても、磯子區中原の生れだから離れてはゐる」とか「風采は上らないし前男(※たぶん「男前」の誤植)も左程によくはない」とか「どうした風の吹きまわしか、俄然賣出した」とか、ちょいちょい厳しい評を挟みながらの記事ではあるものの、黒川弥太郎が故郷に錦を飾ったということで、ただ持ち上げるだけでなく、地元出身の役者に喝を入れる意味合いもあったのかな、なんて、ちょっと素直じゃない評者の情を感じるところでもあります。

この記事には劇評だけでなく、二階売店で「彌太郎最中」「彌太郎まんぢう」を売っていたことも書いてあります。

昭和14年5月2日付横浜貿易新報より

弥太郎の伯父が販売していたものですが、実はこの「弥太郎最中」、現在でも吉野町(というか中村橋商店街)の、その伯父さんが開いた店(弥太郎最中本舗)で売られているのだから驚きです。

(今度買いに行ってみよう)

ちなみにこの店の元の名前は「金喜堂」。弥太郎の地元、中原に近い杉田駅の踏切の傍にある「カネキヤ」というパン屋さんは元々和菓子屋で、店名の正式な表記は「金喜屋」。これはきっと繋がりがあるに違いない!と妄想をフル回転させた上で聞いてみたら「関係はありません」だそうです。

いやはや、そう簡単に妄想は現実にはなりませんね。

なお、カネキヤさんは昔ながらのパン屋さんで、僕はとても好きなお店です。懐かしいシベリアも甘食もありますよ。ロングセラーのクリームメロンパンは「磯子の逸品」に認定されています。


→つづく


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