大高よし男の活動履歴をさぐる作業は、その時期の東京・横浜での記録が尽きると一気に停滞します。
京都や大阪での活動については、たびたび引用する『近代歌舞伎年表』で把握できる部分もありますが、もうひとつの大きな興行地である名古屋については、まさにその年表の「名古屋篇」最新巻(第17巻:昭和14年〜昭和22年)がまだ出ていないのもあって、なかなか見えないところです。
そのほかの地方、特に籠寅演芸部の関係する広島の新天劇場や九州の各巡業先、また静岡の劇場などについては、最終的には現地の図書館で調べない限り、詳細はわからないだろうというのが、いまのところの観測です。
伏見澄子や大江美智子、不二洋子のような座長クラスならば、ネット上でもある程度は把握できそうですが、大高のように「加盟(加入)」という形で一座に参加するような役者の名前は、なかなか表に出てこないのが難しいところです。
そんなこんなではありますが、松園桃子一座に参加していた昭和17年の秋から冬にかけての活動が把握できたことで、昭和15年から昭和18年までの大高の動向が(かなり歯抜けはあるものの)大まかにわかってきた感があります。この先は「歯抜け」を埋めていくとともに、その前後、昭和14年以前と昭和19年以降の情報から「高杉彌太郎」もしくは「大高よし男」を探す作業に突入です。
以前にも書きましたが、大高を調べていると当時の演劇界(芸能界)のことがだんだんわかってきて面白いものです。当時の新聞はいまでいう週刊誌のような雰囲気で、社会面に掲載されている事件だって、「桜木町駅の女便所の梁に三吉演芸場に出ている芸人が潜んでノゾキをはたらいた」なんていうのまで出ているのだから、興味は尽きません。
さらに興味深いのは、いまの新聞なら演劇などは「文化欄」に掲載されるところ、当時の「文化」は美術に限って使われている印象で、演劇・映画・音楽(クラシックも含む)は「娯楽」と位置付けられている点です。
それが戦後になると、軒並み「文化」のオンパレードとなり、「娯楽」欄で大きく扱われていた演劇や映画は「芸能」記事として小さい扱いになっていきます。文化と芸能がどうやって分かれていったのかも、詳細に検討すると面白いテーマになるかもしれません。
さて、そんな娯楽記事の中から、いくつか紹介。
横浜歌舞伎座で日吉良太郎一座が長期間の興行を行う前に、同じ劇場で人気を博していたのが「更生劇」という歌舞伎の一座ですが、昭和14年1月の新聞には、彼らの活動が収束しつつあることを伝える記事の中で、その役者たちがいま何をしているかということが記されています。一部を引用すると
"市川榮升は、東京の高田の馬場へ、松榮館といふアパート、及び、旅館を開業して、安穏の日をおくり、市川蔦之助は中區末吉町に、釣具商を開き、森野五郎は一昨年十一月に、(舞薹?)を退いたまゝ、小石川白山で『山(楽?)』といふ待合の主人で、納まつて、芝居を忘れてしまつてゐる。その他、(藝?)名は書けないが、屋薹店の焼とり屋に轉業したり、軍需工業の方へ行つたり(後略)"
昭和14年1月26日付横浜貿易新報より
このうち、森野五郎は戦後、一座を率いて、旧杉田劇場や弘明寺の銀星座、上大岡の大見劇場にもやってくる元映画スターで、横浜の更生劇でも人気の高かった人ですが、こういう記事を読むとそんな時期もあったのかと感慨深いものがあります。
昭和21年5月10日付神奈川新聞より |
昭和21年6月6日付神奈川新聞より |
いつの世でも役者稼業はなかなかつらいものなのかもしれません。
もうひとつは、この年(昭和14年)の1月に神戸松竹劇場の舞台公演中に亡くなった、女剣劇の大スター、初代大江美智子の後継者についての記事です。
後年のいろいろな本によると、初代大江美智子の急逝を受けて、籠寅演芸部の代表であった保良浅之助が、初代に似ているという理由で、まだほとんど新人の「大川美恵子」を、鶴の一声で二代目に据えたとされていますが(Wikipediaには「大江の父、松浪義雄の希望」ともあります)、新聞記事には、山田五十鈴を後釜に据えようとしていたり、市川百々之助を据えたり、と、二転三転している様子が掲載されています。もちろん、ゴシップネタでもあるので、記事を真相と鵜呑みにはできませんが、当時の空気と伝わっている歴史との差異を感じたりすることができるのも面白いところです。昭和14年1月15日付横浜貿易新報より |
昭和14年1月26日付横浜貿易新報より |
そんなわけで、今回はちょっと横道に外れましたが、当時の興行界の空気を感じながら、この先も地道な調査作業を続けていきます。
さて、新しい「大高」が見つかるかどうか。
→つづく
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