活動の痕跡との出会いはいつも突然です。
今回は予定通り、昭和16年9月と10月に、近江二郎一座が浅草松竹座で不二洋子一座に参加した時、高杉彌太郎(大高よし男)が出演していたのかどうかをチェックしました(「都新聞」の復刻縮刷版で確認)。
残念ながら証拠は見つからなかったワケですが、そっちの線は一旦諦めて、昭和16年の残りの新聞記事を追う作業に戻ったとたん、いきなり高杉と遭遇。
まったく想定していませんでしたが、同年9月、松園桃子一座に参加しているという記事があったのです!
近江一座でもなく、伏見一座でもなく、松園一座!
新しい展開です!
松園桃子は女剣劇の座長で、父親は市川桃蔵という東京歌舞伎の役者だそうですから、血筋といいますか、なるべくしてなった舞台人ともいえます。妹の八重子・光子とともに「女剣劇松園三姉妹」として売り出していたようです。桃子は特に美貌で有名だったらしく、麗人女剣士として、一座を率いるほどの人気もあったのでしょう。新聞広告でもしばしば名前を目にします。
そんな松園三姉妹ですが、実はこの年の5月に妹の光子を16歳で亡くすという不幸に見舞われています。
昭和16年5月28日付神奈川新聞より |
それでも姉の桃子は一座を率いて芝居を続けなければいけないのですから(敷島座での興行には八重子も参加)、役者の業というものは厳しくも哀しいものだとあらためて感じさせられます。
さて、この時(9月)の松園桃子一座は、人間ポンプの有光伸男、籠寅漫才などとの共演でしたが、翌月からは盲目の俳優、林長之助の率いる一座と酒井淳之助一座とともに敷島座の舞台に立ち、どうやら年末までその座組の興行が続いたようです(ちなみに人間ポンプ・有光伸男はこの時が横浜初登場だそうです)。
つまり、高杉彌太郎も年末までずっと横浜にいただろうことが高い確度で推測されます(11月末の『伽羅先代萩』の劇評に名前が出ます)。
ということは、なんとこの年は1月〜3月、9月〜12月と、1年の半分以上も横浜の舞台に立っていたことになるのです。さらに翌年の正月は伏見澄子一座とともに川崎、2月がまた横浜ですから、この時期の高杉彌太郎(大高よし男)はかなりな長期間を横浜近辺で過ごしていたことになります。
それだけの期間になると、近江二郎のように自宅が別の地域にあったとしても、横浜市内に別邸を構えていたかもしれません。しかも、この時期に彼は「高杉彌太郎」から「大高よし男」へと改名するのですから、彼にとっては思い出深い地だったろうと思います。横浜と大高の間には浅からぬ縁があったと断言してもいい。戦後、横浜に初めて新設された劇場(旧杉田劇場)に売り込みに行くのも、ごく自然な行動に思えてきます。
これで、やっと、やっと大高と横浜のつながりが見えてきました!
それにしても、伏見澄子一座との関わりだけかと思っていたのが、近江二郎一座、松園桃子一座、海江田譲二や中野かほるなどとも共演していたことがわかって、調査の範囲が広がるとともに、大高の存在感がどんどん大きくなっていきます。いったい、どんな役者だったのか、ますます興味が深まります。
ところで、今回は、昭和16年6月から11月までの敷島座興行について調べてきましたが、その短期間だけでも面白い役者や芸人がたくさん舞台に立っていました。
上に紹介した「林長之助」は盲目の役者で有名でしたし(といって障害を見世物にするような舞台ではなく、ごく普通の役者として舞台に立っていたみたいです)、また8月に出る「津田五郎」という人はもともと「糸井光彌」という名前で、浅草オペラで人気のあった声楽家のようです(こんな歌声です)。
前にも書きましたが、この時期の演者を見るだけでも、人間ポンプから麗人女剣士から盲目の役者から声楽家まで、当時の劇場は、まさにバラエティ空間だったというのがよくわかります。
→つづく
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