(27) 疑問符が一気に消える

その後の継続調査の結果、昭和15年の3月に敷島座に登場した近江二郎一座は、6月いっぱいまで同座で興行していたことがわかりました(正確には6月29日まで)。劇評などの記事内容からして、高杉彌太郎(大高よし男)もずっと敷島座にいたようです。

彼らが去った後の敷島座、7月興行は6月30日初日で、漫才大会と黒田幸子一座(安来節)とメトロ・ショウ、津田五郎とそのグループ、という組み合わせです。

さらにその先は

8月 佐藤天右(ダンス)、黒田幸子(安来節)ほか
9月 伏見澄子一座
10月 伏見澄子一座
11月 澤田清一座
12月 松園桃子一座、和田君示一座

となります。

ここでの最大の注目は、9月と10月に来演する「伏見澄子一座」ですが、それを紹介する新聞記事にある「主なる俳優」一覧の中に、「宮崎角兵衛」はあるものの「高杉彌太郎」の名前はありません。

昭和15年8月30日付横浜貿易新報より

ということは、高杉彌太郎も近江二郎一座に帯同して、6月いっぱいで敷島座を去り、どこか別の地域の舞台に立っていた、と考えるのが妥当です。


4ヶ月にわたる久々の敷島座興行で大きな好評を得たその近江二郎一座は、巡演を経て翌年1月に満を持して敷島座に戻ってきます。そして、その情報を伝える新聞記事が年末、12月29日に出るのです。

実は、その記事中にある「俳優連名」の記載が、ここまでの疑問のかなりな部分を氷解させることになりました。

昭和15年12月29日付神奈川新聞より

ここには、近江一座に帯同していたと考えるのが妥当とした僕の推測のとおり、「高杉彌太郎」の名前があるばかりか、なんと、あの「大江三郎」の名前が書かれているのです!

高杉(大高)と大江三郎は以前から接点があったのです!

ついでに言えばここに「大山二郎」の名前もあることから、「大山二郎」と「大江三郎」が別人であるとわかるし、以前、大高ではないかと推測した「関哲洲」の名前もあるので、「関哲洲」と「大高ヨシヲ」が別人であることも確認できます。

モヤモヤと疑問符だらけの推測を重ねてきたことが、この記事ひとつで一気に氷解! 調査は大きく前進しました!

(ついでの妄想を加えれば「高田光彌」という、旧杉田劇場のオーナー高田菊彌を彷彿とさせる名前もあったりします)


これによって、完全に

近江二郎=大江三郎=大高ヨシヲ

のラインが、旧杉田劇場の開場よりずっと前から存在していたと証明できたわけです。


ところで、昭和16年の近江二郎や伏見澄子の活動状況はこれまでの調査で比較的はっきりしています。

近江二郎:昭和16年9月から不二洋子一座に助演で参加。
伏見澄子:昭和16年7月と8月、鈴進座の座組に参加。

実のところ、上記のいずれの公演にも高杉(大高)が参加していた形跡はありません。「高杉彌太郎」の名前をふまえた上での追加調査が必要ですが、この時期、大高は別の座組に参加していたと考えたほうがいいのかもしれません。

その後、昭和17年になると1月の川崎大勝座興行あたりから、高杉彌太郎は大高よし男と改名し、伏見澄子一座に帯同して横浜・京都と各地を巡演するわけですが、そのあたりの経緯も含めて、どうやら調査が手薄だった昭和16年の前半というのが大高(高杉)の活動を探るキーポイントになりそうです。

ひとまず、いくつかの疑問が一気に解消し、大高ヨシヲや大江三郎の横浜との接点もかなり明確に見えてきました。


→つづく


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