(123) 小針侑起さんに旧杉田劇場をご案内


先日、作家で芸能研究家の小針侑起さんが資料調査のために現・杉田劇場に来場されました。毎年、「ひばりの日」を開催している縁もあっての来訪でしたが、地元で杉田劇場の調査などしている人間として、劇場スタッフからの召喚(?)を受け、旧杉田劇場の跡地や商店街のご案内をしました。

ひばりさんの熱烈なファンである小針さんですから、彼女が唄った舞台の跡地に立って、感慨深げに写真を撮っている姿が印象的でした(→こちら)。

旧杉田劇場のあった場所には「磯子区郷土研究ネットワーク」の設置した案内板がありますから、初めていらした方にも比較的わかりやすいところです。

新杉田駅前、杉田劇場の入っている「らびすた新杉田」の前、「聖天橋(しょうてんばし)という交差点から国道16号線を横須賀方面に進んで、JR根岸線と交差する地点、高架の橋脚の下がその場所にあたります。

国道16号線の中央車線はかつて市電の軌道が通っていたところで、旧杉田劇場の写真をよく見るとその線路が写っていますから、これが道路の反対側から写したものだとわかります(というお話もしました)。


参考までに現在の同位置のストリートビューと、旧杉田劇場を合成するとこんな感じになります(縮尺はややいい加減ですが)。

旧杉田劇場の裏手は、日本庭園になっていて、その先はすぐに海でした。三宅三郎の本に観客が幕間にバケツを持って潮干狩りをしていたと書かれているのは以前も紹介したところです。

当時の地図や航空写真などを参考に、現在の写真上に作画するとこんな感じになるでしょうか。幕間に潮干狩り、というのがよくわかるかと思います(劇場は正面を入って、L字に曲がる形で客席と舞台があったそうです)。

地図の右上に記載した「埋立地」は、戦前からのもので(おそらく日本飛行機や石川島航空工業などの軍需工場を建設する一環としての埋め立てだと思う)、根岸湾の埋立が大規模に行われるようになるのは1959(昭和34)年からです。

なのて、旧杉田劇場があった頃、磯子〜屏風浦〜杉田の海岸はまだまだ潮干狩りや海水浴のできる景勝地でした(→こちら:杉田商店街の和菓子店「菓子一」のサイトより)。


さて、以前、小針さんから、大高よし男の写真が載った当時のパンフレット(チラシ?)のデータを送っていただいたことをお知らせいたしました(→こちら)。

なんと、この日に、それらを含む貴重な資料をまとめてお持ちくださったのです! しかも、ありがたいことに、しばらくお貸しいただけるということで、遅々として進まなかった大高調査がまた少しずつ前進を始めているところです(ありがとうございます!)。

お借りしたのは、今でいうスクラップブック、古い言い方だと「切り抜き帳」とか「貼り交ぜ帳」といったものになるのでしょうか。演劇のチラシやパンフを貼って綴じてあるもので、昭和17年前後、主に京都の(一部大阪や名古屋のものも含まれています)大衆演劇のものが丁寧に貼り付けられたB4サイズほどの綴じ物です。

中には大高よし男の名前が記載されているものが6部あって(小針さんがあらかじめ調べて付箋をつけてくださっていました)、『近代歌舞伎年表』(京都篇)と突き合わせたところ、1942(昭和17)年4月、9月〜10月、1943(昭和18)年4月のいずれも京都・三友劇場での伏見澄子一座のものであることがわかりました(1部は以前データで送っていただいたものです)。

『近代歌舞伎年表』には主な配役のみしか掲載されていなので、大高を調べるにあたってはその点がハードルになっていましたが、お借りしたものを見ると配役全部が把握できるので、大高のみならず他の役者たちの名前もわかり、調査を前進させるには貴重な資料となります。

小針さんからは、スキャンしたり、ブログに掲載してもいいとの許可をいただいておりますので、今回から2回に分けて紹介していきたいと思います。


まず一番古いのは1942(昭和17)年3月31日初日とされるもので、演目は

時代劇『剣光祭音頭』(鈴木道太脚色・演出)
時代劇『愛の銃剣』(末廣薫作、日吉千歳演出)
現代劇『恩師の仇』(谷川満構成脚色、鈴木道太演出)
時代劇『新月霞河原 題目供養』(日吉千歳作・演出)

の4本。

このうちの『恩師の仇』は現代劇と書かれていますが、劇中劇として「忠臣蔵松の廊下迄」とあり、現代劇に挟み込む形で忠臣蔵を見せる趣向のようで、面白い構成の作品です。

大高よし男は4本のうち2本に出演しています。

配役をよく見るとおなじみの宮崎角兵衛や二見浦子、雲井星子らの名前が見られますし、前回の投稿で戦後、大倉千代子一座に参加して杉田劇場にも来た河合菊三郎の名前もあります。河合菊三郎が杉田劇場に来演した際、大高よし男を偲んで昔ばなしなどをしていたのかもしれません。

次はそれに続く4月9日からのもので

時代劇『春霞武道往来』(鈴木道太脚色・演出)
時代劇『故郷の夢』(小林勝之作、安田弘演出)
時代劇『祇園しぐれ』(村上元三作、小笠原謙二演出)
時代劇『お駒格子』(大場章三郎作、鈴木道太演出)

の4本。これを見ると伏見澄子一座は現代劇には手をつけず、時代劇専門の一座で活動していたのがわかります。

この中に書かれている「小笠原謙二」という人は演出を担当していることから文芸部員かと思われますが、『春霞武道往来』には役者としても出ています。大高一座の大江三郎も演出と同時に出演もしていますから、同じような立場の人だったように思われます。


次が、以前小針さんからデータで送っていただいた1942(昭和17)年4月18日からのもので、上のふたつに続く日程だと考えられます。3月からスタートした伏見一座の2ヶ月にわたる三友劇場での興行はこれでお名残(終わり)です。演目は

時代劇『冴える三日月』(鈴木道太作・演出)
時代劇『出世の纏』(伊藤晋平作、安田弘演出)
時代劇『十六夜三人旅』(平野万太郎作、小笠原謙二演出)
時代劇『春月妻折笠』(鈴木道太改訂・演出)

 の4本です。

なんといってもこのパンフは、オモテ面に大高よし男の顔写真が印刷されているのが貴重で、実物の状態を見るに、そこに気づいてくださった小針さんには重ね重ねの感謝です。

ところで、以前お知らせした手元にある昭和18年の三友劇場のパンフや、次回紹介する小針さんの資料の中では、他の重要な役者に並んで大高の名前も太字で表記されているのですが、ここまで見てきたものには太字の記名が見られません。

大高がまだ、名前を強調することで宣伝効果になるほどの人気やキャリアではなかったのか、そもそも重要な役者を太字にするという宣伝方法がまだ採用されていなかったのか、詳しいことはよくわかりません。


ところで、『近代歌舞伎年表』によると、1942(昭和17)年8月31日から始まる三友劇場9月興行、伏見澄子一座にも大高よし男が参加していることになっています。

『近代歌舞伎年表』京都編 別巻より

小針さんの資料の中にも同じ公演のパンフ(筋書き)がありましたが、ここには大高の名前が見当たらないのです(河合菊三郎、二見浦子、伏見澄子の名前はあるのに大高だけがない)。


『年表』の典拠の中に "簡易筋書(「三友劇場ニュース第67号」)"の記載があって、上掲の資料がまさにその67号です(なのに名前がない)。

『年表』が参照した筋書きとは版が違うのか、もしくは同じく典拠としている京都新聞の広告に「大高よし男加盟」の文言があったのを転記しているのか、これも詳しいことは分かりません。京都新聞を確認する必要がありそうです(ちなみに第67号の表紙に「大高よし男」の文言はありませんでした)。

大高はこの年の7月26日まで海江田譲二・大内弘・中野かほるの「8協団」に参加して、名古屋歌舞伎座の舞台に立っています(→こちら)。6月下旬に川崎大勝座で試演的な公演をやった後の名古屋興行だったと思われるので、それがさらに京都・大阪以外の都市へ巡業として続いていたのかもしれません。

そのために伏見一座9月興行のお目見得には間に合わなかったということなのか、もしくは間に合わないつもりが間に合って、新聞だけに載ったということなのか、これまた詳しいことはわかりません。ただ『年表』では二の替りの劇評が引用されているので、いずれにしても9月10日くらいには伏見一座に合流していたことは確かなようです。


というわけで、今回は小針さんに旧杉田劇場のご案内をし、お借りした資料から大高の足跡を辿るお話しでした。

次回はこの続きです。


→つづく
(次回は12/19更新予定)

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「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

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