(125) 尾上大助のことと年の瀬のごあいさつ

先日、大高調査の一環で、昭和13年の都新聞をチェックしていたら、こんな記事を見つけました。

1938(昭和13)年11月7日付都新聞より

町田に収蔵されている台本にも名前のあった「尾上大助」についての記事です。

引用すると、この年の5月に横浜歌舞伎座での更生劇が終了した尾上大助は、

"自ら大将になつて横濱笑楽座を開けたところ、今度更生劇の延蔵、新之丞等が俄に横濱日活館出演が極まり、大助の體が必要になつたので、止むなく両方を駈持ちと極め、一日に日活館が三回、笑楽座が二回合計五回の働きに大助ヘトヘト"

なんだとか。

そんなことが本当にあるものかと、横浜貿易新報を確認してみたところ、まずは尾上大助らが笑楽座で興行を始めたという記事が見つかりました。

1938(昭和13)年11月2日付横浜貿易新報より

続いて、日活館(旧喜楽座)でアトラクションとして更生劇による歌舞伎が上演されたという記事もありました。

1938(昭和13)年11月8日付横浜貿易新報より

この記事中にも「大助」の記述がありますから、尾上大助は同時期に笑楽座・日活館のどちらの舞台にも出ていたわけで、どうやら都新聞の記事内容は正確なもののようです。


笑楽座は昭和5年、西前商店街(当時は中区、今は西区)にできた小劇場(定員248)で、現在の位置でいうと、湘南信用金庫藤棚中央支店の裏手あたりにあったそうです(小柴俊雄『横浜演劇百四十年』より)。

西前商店街(正確には西前中央商店街だそう)は、いわゆる「藤棚商店街」の一部らしいので、伊勢佐木町への移動は「藤棚」から市電を乗り継げばそんなに苦ではなかったと思います。とはいえ、移動した上に舞台に立つのですから、なかなかのハードワーク(?)だったことは間違いないでしょう。

笑楽座についての記事は、この劇場の観客は夕方になると晩御飯の支度のために帰ってしまうという「風習」を知らなかった大助らがひどく困惑したという話だし、日活館の記事は更生劇の面々が「大石内蔵助」山科の場を30分という超特急で上演しているのに苦言を呈しているのですから、都新聞の記事同様、どちらも笑い話のような批判(揶揄)のような内容ではあります。


それはそれとして、実は都新聞の記事にはかなり気になることが書かれているのです。

"大助は新國劇の丸茂三郎の實兄"

丸茂三郎という役者は新国劇の二枚目俳優で、残念ながら戦死してしまうのですが、生きていれば戦後の新国劇を支える重要な役者になっただろうと思われる人物です。昭和11年刊の『俳優大鑑』によれば、本名も丸茂三郎で、明治45(1912)年1月29日生まれだそうです。

その兄が尾上大助だというのです。

戦前の映画俳優のことを驚くほど精緻に調べておられる水沢江刺さんのXの投稿で、丸茂三郎の兄は「丸茂一郎」といって、松本時之助の名で映画俳優として活動していたと知りました(→こちら)。

手元にあるキネマ旬報の『日本映画俳優全集』の「松本時之助」の項にも「戦前、新国劇の幹部として活躍した丸茂三郎は実弟である」書かれています。また、上掲の投稿にもありますが、映画俳優ののちは本名の丸茂一郎に戻り、すわらじ劇園(一燈会を母体とした劇団)に参加していたそうです。

さすがにこれを尾上大助と同一人物だと考えることはできません。

となると、丸茂三郎には2人(以上)の兄がいて、ひとりは丸茂一郎、もうひとりが尾上大助ということになりそうです。ありうる可能性は、尾上大助は一郎と三郎の間、一郎の弟で三郎の兄ということです(順当に考えれば本名は「丸茂二郎」なのかしらん)。

前掲の『日本映画俳優全集』によれば、丸茂一郎(松本時之助)の生年は1903(明治36)年6月20日なので、尾上大助が次兄であれば、生年は両者の間、1904(明治37)年から1910(明治43)年の間と考えられます。旧杉田劇場に出ていた頃は30代後半から40代前半という感じになるのでしょうか。


さらにこの記事の冒頭には「故幸蔵門下の腕達者尾上大助」ともあります。

幸蔵とは昭和9年に亡くなった二代目尾上幸蔵のことだと思われます。幸蔵の屋号は大橋屋で、本名が大橋幸蔵なのだそうです。

「大橋」という姓と屋号には見覚えがあります。

町田で閲覧した旧杉田劇場のほとんどの台本には尾上大助の名前が書かれていましたが、その横に肩書きのように「大橋家」と印字されているものがあったのです。しかも台本のほぼすべてを脚色しているのは「大橋繁夫」でした(こちら)。

尾上大助が幸蔵門下だとすると、彼の屋号もまた「大橋屋」であったと考えられそうですし、大橋繁夫という人物も、尾上幸蔵と関わりのある誰か、ということになりそうです。

あの調査からずっと謎だった尾上大助と「大橋」の関係を知る手がかりがやっと見つかった気がします。

旧杉田劇場での歌舞伎公演に関しては、尾上大助がかなり大きな役割を担っていたように感じています。尾上幸蔵と大助の関係、また大橋繁夫の正体を探ることで、旧杉田劇場の動向がさらに詳細にわかってくるかもしれません。来年以降の課題ですが、大高調査と並行して、尾上大助の調査も進めて行きたいと思います。


さて、今年の投稿はこれが最後です。

2025年最初の投稿は1月8日の「美空ひばりのデビュー再考・その1」でした。ほぼ2週間に一度の更新ペースなので、28回の投稿はほぼ予定通りということになります。

結局のところ今年も大高の正体に迫ることはできなかったわけで、普通に考えればこの一年は無為な時間とも言えますが、結果的には、旧杉田劇場や周辺の劇場、はたまた戦後芸能界の動向なども知ることができ、さらには戦後の磯子のことがより具体的にわかるようになったのですから、個人的な思いとしては望外の収穫があった一年でした。

現杉田劇場で「いそご文化資源発掘隊」の講座をやらせてもらったのをきっかけに、歌舞伎(小芝居)のことを少し調べ始めたのもまた新たな展開で、大高だけではない杉田劇場の姿が見えてきたのも得たもののひとつです。

さらには、舘野太朗さんの情報から、町田で旧杉田劇場の台本を閲覧できたのも貴重な体験でした。また小針侑起さんから大事な資料をお借りできたことも、調査を前進させる大きな一歩となりました。

ご協力いただきましたみなさま、ありがとうございました。

基礎知識が不足しているせいでしょうが、調べれば調べるほど謎が深まる沼に陥っております(笑)

調査項目は増えるばかりではありますが、当面、

・大高よし男と近江二郎の最初の接点はどこか
・尾上大助と旧杉田劇場はどういう関係なのか
・美空ひばりは本当にアテネ劇場に出演したのか

といったあたりを重点項目にして、この先も飽きずにコツコツ調べていきたいと思います。


今年もこの取り留めのないブログをご愛読いただき、ありがとうございました。

来るべき年がみなさまにとって幸せに満ちたものとなりますよう。



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「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(124) 小針さん所有の資料から(つづき)

前回の続編なので更新スパンを短くしての投稿です。

今回も小針侑起さんにお借りしている資料から、大高よし男に関するものを見ていきたいと思います。


前回最後に紹介した、謎の残る1942(昭和17)年9月興行のパンフに続くのは、同年10月1日からの興行のものです。

このパンフ(筋書)から大高の名前も太字で表記されるようになります。8月31日のものでも伏見澄子、二見浦子、河合菊三郎といった役者はすでに太字になっているので、三友劇場ではこの頃からこうした表記が始まったのかもしれません。

演目は

時代劇『風雲熊本城 西南餘聞 谷村と千葉健三郎』(行友李風作)
時代劇『子負ひ道中』(巽義夫作)
時代劇『暁の鍔鳴り』(末廣薫作)

大高は『谷村と千葉健三郎』『暁の鍔鳴り』の2本に出演しています。

実はこの配役の中に気になる名前があります。

高田光太郎

です。彼は大高が出演した2本ともに出演しています。

この名前、実は少し前にも紹介したことがありました(→こちら)。

1941(昭和16)年3月、横浜敷島座の筋書(シキシマ・ニュース)に大高の前名、高杉彌太郎とともにその名が掲載されているのです。

ただ、この時は大高同様(おそらく)近江二郎一座の一員として出演していたはずなので、上掲の伏見澄子一座にこの名前があるのは少し奇妙な気がします(彼以外、重複した名前はなさそうだし)。

もっとも、そもそもを言えばこれが同一人物なのかもはっきりしません。

仮に同一人物だとして、ここに名前があるということは、前回人物像を推察したように「杉田劇場のオーナー・高田菊弥本人」とする説や「その関係者」説は、時期や地理的に少し考えにくくなってきます。安易な短絡は慎むべきですが、高田光太郎は大高よし男と直接つながりのあった役者、ことによると大高の直弟子やごく身近な弟弟子で、大高が近江一座以外に出演する際に帯同するような関係だった可能性もあります。

役柄からして子供ではなく、比較的若いの成人男性のようです。

同一人物かどうかも含め、この人についても、新たな調査対象として出演記録を追いかけるなど、もう少し調べてみなければなりません。そのことで大高の痕跡につながる可能性があるかもしれません。


さて、その次は10月20日からのもの。

ここでも大高の名前は太字で、「高田光太郎」の名前も見られます。

演目は

時代劇『唄ふ若様』(長一郎作)
時代劇『泣き濡れ長脇差』(藍島千里作)
時代劇『源九郎狐』(末廣薫作・演出)

大高は『唄ふ若様』『源九郎狐』の2本に出演。高田光太郎の方は3本すべてに出演しています。


小針さんの資料の中にある大高の名前が掲載されたパンフ(筋書)の最後は、これまでのものから半年ほど経った1943(昭和18)年4月20日からのものです。


同じ三友劇場ニュースですが、形状やサイズが変化していて、以前、僕が個人的に入手したパンフ(筋書)と同じ時期、同じ座組の興行のものと考えられます。

ここでも大高の名前は太字で記載されています。太字は伏見澄子、林長之助、三桝清、片岡松右衛門、筑紫美津子ですから、いずれも座長クラスか、かなり実力のある役者で、大高の役者としての格がかなり上がった印象です(なぜか宮崎角兵衛は太字ではなくなっています)。

この興行は伏見澄子一座と林長之助一座の合同公演です。以前も紹介しましたが、林長之助は盲目の歌舞伎役者なので、演目は

時代劇『情怨おけさ小唄』(坂本晃一作)
歌舞伎『廓文章』
時代劇『嬬戀天龍』(藍島千里作)

と、歌舞伎を挟む3本となっています。大高は『嬬戀天龍』の1本だけに出演しています。

なお、この興行に高田光太郎は参加していません。

半年の間に、高田の身に何かあったのでしょうか。時期的には召集・出征などが考えられますが、理由はどうあれ、この時は大高と別行動ということだったようです。近江二郎一座に参加していたということなのかもしれません。


さて、小針さん所有の大高関係資料はここまでですが、実は中には不二洋子一座に近江二郎一座が加盟参加しているパンフもありました。

これは大高が京都の舞台に出ていたのと同じ時期、1942(昭和17)年10月1日から、大阪弁天座での興行のものです。

ここには近江二郎のほかに、深山百合子、大山二郎といった(おそらく)近江一座の幹部俳優のほかに、のちに大高一座の支配人となる「大江三郎」の名前も見られます。

また、以前「今昔十二ヶ月と近江二郎」のタイトルで投稿した際に、写真と照合した役者の名前(澤井五郎、濱原義明、大島伸也、河村陽子、中村扇子)らの名前も見られます。彼らは不二洋子一座の座員だったのでしょうね。

この興行では、大江三郎の作による『青春の叫び』も上演されています。この作品はこれまでも広告などでたびたび目にしてきました。おそらく近江一座の人気レパートリーだったのでしょう。ただどんな内容なのかはさっぱりわからないままでした。

ありがたいことに、このパンフには梗概が掲載されていたので、今回、ようやくそのストーリーを知ることができたのです。

掲載されていた梗概をさらにざっくりまとめると

画才のある苦学生が芸者と恋に落ちるが、旧友によって画家としての未来も恋人も奪われる。年月が経ち、ふとしたことで再会した三人。男たちは激しい闘いになる…

といった形になるでしょうか。いかにも典型的な新派芝居といった内容です。終場、教会の鐘の音が葛藤やわだかまりを一気に解消するくだりは、劇作上、デウス・エクス・マキナの手法ともいえ、とても興味深い芝居です(全編を読んでみたい)。


なお、小針さんの著作『浅草の灯よいつまでも 浅草芸能人物列伝』の「不二洋子」の章に、1941(昭和16)年7月、京都南座での興行のパンフが掲載されています(※176ページ/時期は『松竹七十年史』で確認)

この時は「近江二郎加盟」の形ではなかったので、上述のような近江一座の幹部役者の名前は見られません。大江三郎の名前もありません。これまでの調査でも「大江三郎」の名前は常に近江二郎一座とセットで登場していて、やはり彼は近江一座の文芸部員だったと断定してもよさそうです(名前の近似からしてもそう考えられる)


こうしてみると、戦前から大高とともに名前の出る人のうち、少なくとも大江三郎と高田光太郎は、近江二郎と大高よし男をつなぐ重要な人物だったように思えます。逆に、近江二郎と大高よし男の関係は、人的交流のあるほどかなり密接なものだったとも言えます。

前にも書いていますが、近江二郎が最初に杉田劇場で興行をしたのが1946(昭和21)年1月26日〜2月4日。大高が杉田劇場を訪れた時期は「2月に入り」とされていますから(片山さんの証言による)、近江一座の千秋楽の頃です。

大高が杉田劇場に来たというのは、自身を売り込みに来たというよりは、近江二郎を訪れたと考えた方がいいでしょう。もしくはその段階ですでに戦後の近江一座に大高が参加していたのかもしれません。

いずれにしても、その大高を近江二郎が、高田菊弥や鈴村義二に専属劇団の座長として紹介(推薦)した、というのが自然な流れのように思えるのです。

それが決まったことで、近江二郎は、自分の一座の文芸部員・大江三郎や役者・高田光太郎(孝太郎)を大高の暁第一劇団に参加させたのではないでしょうか。

大高の出生地や居住地などはまだわかりませんが、少なくとも彼が戦後、浅草や京都ではなく、横浜にやって来たのは、近江二郎がいたから、という考えは、かなり確度の高い推論で、大高よし男の師匠は近江二郎である、という自説の信憑性も、かなり高いと自負していいように思います。


これまでの調査では、戦前・戦中、大高よし男が座長として一座を率いていた記録は見つかっていません。もしそうだとすると、大高にとって杉田劇場の暁第一劇団は初めて座長をつとめる劇団ということになるわけです。

戦争が終わり、新しい時代の中で、自分の一座ができたというのは、大高にとってどれほどの喜びだったかと思うと、彼の希望に満ちた姿が目に浮かぶようで、こちらまで心が浮き立ってきます(妄想です)。


そんなわけで、今回は前回に引き続き、小針侑起さんの資料から大高の足跡を辿ってみました。小針さん、あらためて、ありがとうございます(もうしばらく他座の調査も続けさせてください。なるべく早急にお返しいたします)



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(123) 小針侑起さんに旧杉田劇場をご案内

先日、作家で芸能研究家の小針侑起さんが資料調査のために現・杉田劇場に来場されました。毎年、「ひばりの日」を開催している縁もあっての来訪でしたが、地元で杉田劇場の調査などしている人間として、劇場スタッフからの召喚(?)を受け、旧杉田劇場の跡地や商店街のご案内をしました。

ひばりさんの熱烈なファンである小針さんですから、彼女が唄った舞台の跡地に立って、感慨深げに写真を撮っている姿が印象的でした(→こちら)。

旧杉田劇場のあった場所には「磯子区郷土研究ネットワーク」の設置した案内板がありますから、初めていらした方にも比較的わかりやすいところです。

新杉田駅前、杉田劇場の入っている「らびすた新杉田」の前、聖天橋(しょうてんばし)という交差点から国道16号線を横須賀方面に進んで、JR根岸線と交差する地点、高架の橋脚の下がその場所にあたります。

国道16号線の中央車線はかつて市電の軌道が通っていたところで、旧杉田劇場の写真をよく見るとその線路が写っていますから、これが道路の反対側から写したものだとわかります(というお話もしました)。


参考までに現在の同位置のストリートビューと、旧杉田劇場を合成するとこんな感じになります(縮尺はややいい加減ですが)。

旧杉田劇場の裏手は、日本庭園になっていて、その先はすぐに海でした。三宅三郎の本に観客が幕間にバケツを持って潮干狩りをしていたと書かれているのは以前も紹介したところです。

当時の地図や航空写真などを参考に、現在の写真上に作画するとこんな感じになるでしょうか。幕間に潮干狩り、というのがよくわかるかと思います(劇場は正面を入って、L字に曲がる形で客席と舞台があったそうです)。

地図の右上に記載した「埋立地」は、戦前からのもので(おそらく日本飛行機や石川島航空工業などの軍需工場を建設する一環としての埋め立てだと思う)、根岸湾の埋立が大規模に行われるようになるのは1959(昭和34)年からです。

なのて、旧杉田劇場があった頃、磯子〜屏風浦〜杉田の海岸はまだまだ潮干狩りや海水浴のできる景勝地でした(→こちら:杉田商店街の和菓子店「菓子一」のサイトより)。


さて、以前、小針さんから、大高よし男の写真が載った当時のパンフレット(チラシ?)のデータを送っていただいたことをお知らせいたしました(→こちら)。

なんと、この日、それらを含む貴重な資料をまとめてお持ちくださったのです! しかも、ありがたいことに、しばらくお貸しいただけるということで、遅々として進まなかった大高調査がまた少しずつ前進を始めているところです(ありがとうございます!)。

お借りしたのは、今でいうスクラップブック、古い言い方だと「切り抜き帳」とか「貼り交ぜ帳」といったものになるのでしょうか。演劇のチラシやパンフを貼って綴じてあるもので、昭和17年前後、主に京都の(一部大阪や名古屋のものも含まれています)大衆演劇のものが丁寧に貼り付けられたB4サイズほどの綴じ物です。

中には大高よし男の名前が記載されているものが6部あって(小針さんがあらかじめ調べて付箋をつけてくださっていました)、『近代歌舞伎年表』(京都篇)と突き合わせたところ、1942(昭和17)年4月、9月〜10月、1943(昭和18)年4月のいずれも京都・三友劇場での伏見澄子一座のものであることがわかりました(1部は以前データで送っていただいたものです)。

『近代歌舞伎年表』には主な配役のみしか掲載されていなので、大高を調べるにあたってはその点がハードルになっていましたが、お借りしたものを見ると配役全部が把握できるので、大高のみならず他の役者たちの名前もわかり、調査を前進させるには貴重な資料となります。

小針さんからは、スキャンしたり、ブログに掲載してもいいとの許可をいただいておりますので、今回から2回に分けて紹介していきたいと思います。


まず一番古いのは1942(昭和17)年3月31日初日とされるもので、演目は

時代劇『剣光祭音頭』(鈴木道太脚色・演出)
時代劇『愛の銃剣』(末廣薫作、日吉千歳演出)
現代劇『恩師の仇』(谷川満構成脚色、鈴木道太演出)
時代劇『新月霞河原 題目供養』(日吉千歳作・演出)

の4本。

このうちの『恩師の仇』は現代劇と書かれていますが、劇中劇として「忠臣蔵松の廊下迄」とあり、現代劇に挟み込む形で忠臣蔵を見せる趣向のようで、面白い構成の作品です。

大高よし男は4本のうち2本に出演しています。

配役をよく見るとおなじみの宮崎角兵衛や二見浦子、雲井星子らの名前が見られますし、前回の投稿で戦後、大倉千代子一座に参加して杉田劇場にも来た河合菊三郎の名前もあります。河合菊三郎が杉田劇場に来演した際、大高よし男を偲んで昔ばなしなどをしていたのかもしれません。

次はそれに続く4月9日からのもので

時代劇『春霞武道往来』(鈴木道太脚色・演出)
時代劇『故郷の夢』(小林勝之作、安田弘演出)
時代劇『祇園しぐれ』(村上元三作、小笠原謙二演出)
時代劇『お駒格子』(大場章三郎作、鈴木道太演出)

の4本。これを見ると伏見澄子一座は現代劇には手をつけず、時代劇専門の一座で活動していたのがわかります。

この中に書かれている「小笠原謙二」という人は演出を担当していることから文芸部員かと思われますが、『春霞武道往来』には役者としても出ています。大高一座の大江三郎も演出と同時に出演もしていますから、同じような立場の人だったように思われます。


次が、以前小針さんからデータで送っていただいた1942(昭和17)年4月18日からのもので、上のふたつに続く日程だと考えられます。3月からスタートした伏見一座の2ヶ月にわたる三友劇場での興行はこれでお名残(終わり)です。演目は

時代劇『冴える三日月』(鈴木道太作・演出)
時代劇『出世の纏』(伊藤晋平作、安田弘演出)
時代劇『十六夜三人旅』(平野万太郎作、小笠原謙二演出)
時代劇『春月妻折笠』(鈴木道太改訂・演出)

 の4本です。

なんといってもこのパンフは、オモテ面に大高よし男の顔写真が印刷されているのが貴重で、実物の状態を見るに、そこに気づいてくださった小針さんには重ね重ねの感謝です。

ところで、以前お知らせした手元にある昭和18年の三友劇場のパンフや、次回紹介する小針さんの資料の中では、他の重要な役者に並んで大高の名前も太字で表記されているのですが、ここまで見てきたものには太字の記名が見られません。

大高がまだ、名前を強調することで宣伝効果になるほどの人気やキャリアではなかったのか、そもそも重要な役者を太字にするという宣伝方法がまだ採用されていなかったのか、詳しいことはよくわかりません。


ところで、『近代歌舞伎年表』によると、1942(昭和17)年8月31日から始まる三友劇場9月興行、伏見澄子一座にも大高よし男が参加していることになっています。

『近代歌舞伎年表』京都編 別巻より

小針さんの資料の中にも同じ公演のパンフ(筋書き)がありましたが、ここには大高の名前が見当たらないのです(河合菊三郎、二見浦子、伏見澄子の名前はあるのに大高だけがない)。


『年表』の典拠の中に "簡易筋書(「三友劇場ニュース第67号」)"の記載があって、上掲の資料がまさにその67号です(なのに名前がない)。

『年表』が参照した筋書きとは版が違うのか、もしくは同じく典拠としている京都新聞の広告に「大高よし男加盟」の文言があったのを転記しているのか、これも詳しいことはわかりません。京都新聞を確認する必要がありそうです(ちなみに第67号の表紙に「大高よし男」の文言はありませんでした)。

大高はこの年の7月26日まで海江田譲二・大内弘・中野かほるの「8協団」に参加して、名古屋歌舞伎座の舞台に立っています(→こちら)。6月下旬に川崎大勝座で試演的な公演をやった後の名古屋興行だったと思われるので、それがさらに京都・大阪以外の都市へ巡業として続いていたのかもしれません。

そのために伏見一座9月興行のお目見得には間に合わなかったということなのか、もしくは間に合わないつもりが間に合って、新聞だけに載ったということなのか、これまた詳しいことはわかりません。ただ『年表』では二の替りの劇評が引用されているので、いずれにしても9月10日くらいには伏見一座に合流していたことは確かなようです。


というわけで、今回は小針さんに旧杉田劇場のご案内をし、お借りした資料から大高の足跡を辿るお話しでした。

次回はこの続きです。


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