(122) 大倉千代子が来たり、前進座がまた来たり

相変わらず大高よし男の正体は不明のまま、調査も停滞しているので、今回もまた戦後の杉田劇場、特に1950(昭和25)年の杉田劇場についてのお話です。


何度か書いてきたように、杉田劇場の新聞広告は1949(昭和24)年の10月頃から激減します。輪をかけるように、1950(昭和25)年になるともはや正月やお盆など、ごく限られた時期を除けば広告はほとんど出なくなります。おそらくそれ以外の期間も公演は続いていたと思われるので、広告費を節約していたということなのでしょうか。

さすがに劇場経営も厳しくなっている印象で、いよいよ切羽詰まってきたという空気もほんのりと感じるところです。

そんな数少ない新聞広告は、市川門三郎一座か市川壽美十郎一座の歌舞伎が中心ですが、この年、歌舞伎以外の広告で特に目を引くのは大倉千代子一座の興行です。


大倉千代子は1915(大正4)年生まれの女優で、戦前からの映画スターとして人気を博していました。ゴシップ的なネタですが、69連勝で名高い大横綱・双葉山とのロマンスが噂されたことでも知られています(真相は不明で、どうやらガセネタのようでもありますが、双葉山が別の女性と婚約したために、大倉千代子の「失恋」という扱いになっていて「慰めるためのお茶会が開かれた」というゴシップ記事が掲載されたりします)

1939(昭和14)年2月22日付横浜貿易新報より


彼女は、もともと10歳頃、高橋義信・五月信子夫妻の「近代座」に入ったことからキャリアをスタートさせたそうですが、その後、近代座を退座して映画にも出演するようになり、溝口健二監督の『虞美人草』でヒロイン小夜子を演じるなど数々の作品に出演します。映画の製作が厳しくなった戦争末期からは他の映画スター同様、実演に移行していたようで、『近代歌舞伎年表』を調べると「日活座」や「たもつ座」といった劇団で活動している記録が確認できます。

1943(昭和18)年4月18日〜27日・京都南座
『近代歌舞伎年表』京都篇 別巻より

また(時系列が前後しますが)同じ年の2月には川崎大勝座で月宮乙女と共演する舞台にも出ています。月宮乙女は横浜出身で、大倉千代子とはともに近代座出身という縁もあるそうです。

1943(昭和18)年2月8日付神奈川新聞より

※余談ですが、大倉千代子が京都で舞台に立っていた時期、大高よし男も伏見澄子一座に参加して京都三友劇場に出ていました。もしかしたら大高が大倉千代子の舞台を見に行くようなこともあったのかもしれません(妄想です)。


さて、そんな大倉千代子が杉田劇場に来演したのは、1950(昭和25)年6月21日から27日で、河合菊三郎が特別出演する総勢30数名の大一座での興行でした。

1950(昭和25)年6月21日付神奈川新聞より

※またまた余談ですが、河合菊三郎は伏見澄子一座に参加する形で、大高よし男と同じ舞台に立っています→こちら


実はこの興行の前、三吉劇場(いまの三吉演芸場)が新装オープンした際に、柿落としとして、大倉千代子一座の興行が行われているのです。

1950(昭和25)年6月7日付神奈川新聞より

(新たに開場した劇場ということもあるのでしょうが、これ以降、大衆演劇の広告は杉田劇場や銀星座よりも三吉劇場の方が多くなっていきます)


三吉劇場で大倉千代子一座がいつまで公演をしていたのかははっきりわかりませんが、上掲の広告で予告されている梅澤昇一座の初日が6月16日なので、14日か15日あたりまでは三吉劇場にいたように思います(杉田劇場の興行が7日間であったことを考えると、三吉劇場の方も6日〜12日の7日間だったのかもしれません)。

一座が最初から「横浜巡業」のような形で、三吉劇場の後に杉田劇場での興行を考えていたのかどうかはよくわかりません。なんとなくの印象ですが、三吉劇場が決まったので、ついでに杉田でも、という意図さえうっすら感じるところです。逆に大倉千代子が横浜に来ることを知って、高田菊弥や鈴村義二が三吉劇場へ足を運び、大倉千代子を招聘したなんていうこともあったのかもしれません。

ちなみに、大倉千代子は翌年、1951(昭和26)年1月、新春興行でふたたび三吉劇場に登場します。前年6月の横浜公演がかなり成功したのかな、とも想像されますが、残念ながら1月に杉田劇場へ来た記録はありません(杉田の広告では「大映麗人スタア」、三吉劇場では「元日活女優」と書かれている点が興味深いです)

1951(昭和26)年1月1日付神奈川新聞より

さて、この年の杉田劇場のもうひとつのトピックは、前進座がまたまたやってきたことです。

それまで前進座は

  • 1946(昭和21)年11月5日〜8日
  • 1946(昭和21)年12月1日〜4日
  • 1947(昭和22)年9月13日、14日

の三度、杉田劇場に来ています。

昭和22年9月の興行後は、ぱったりと広告が出なくなってしまったので、杉田劇場への来演は上記の三度きりと思っていましたが、実際は昭和25年にもう一度来演していたことが今回の調査でわかりました(先日の「いそご文化資源発掘隊」でも三度来演、と誤った情報をお伝えしてしまいました。すみません…)。


杉田劇場での前進座の(たぶん)最後の興行は、1950(昭和25)年10月28日(土)〜30日(月)の三日間で、演目は

  • 現代劇「兄弟」
  • 文七元結
  • 奥州白石ばなし
  • かっぽれ

の「豪華四本立」。

1950(昭和25)年10月26日付神奈川新聞より

これまでの広告には出演者名など、比較的詳細な情報が掲載されていましたが、今回の広告はあっさりしたものです。それだけ前進座の認知度が高まったということなのか、広告に力を入れなくなったということなのかはわかりません。

とはいえ、これで四度目の来演というのですから、専属だった大高一座や市川門三郎一座とまではいかないものの、杉田劇場(あるいは杉田の街)と前進座とはかなり相性がよかったのだろうと想像できます。


この調査で、斜陽になりつつあった杉田劇場でも、それなりに話題性のある公演があったのだということがわかりました。

また、三吉劇場→杉田劇場、三吉劇場→銀星座という巡業(?)の流れもあったようなので、三吉劇場の広告を精査することで、この時期の杉田劇場の動向もわかってくるかもしれません。


というわけで、今回はやや短めですが、戦後、昭和25年の杉田劇場の興行についてのお話でした。



前の投稿



「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。

(121) シキシマ・ニュース入手!

ダジャレみたいなタイトルですが、一応、ちゃんとしたお話(のつもり)です。

ただ、ちょっとだけ興奮気味ではあります。


というのも、先日、なんと、大高よし男ゆかりの伊勢佐木町・敷島座のチラシ(パンフ?)を入手したからで、今回はその話。

手に入れたのは、1941(昭和16)年3月、近江二郎一座が参加した興行のチラシ(シキシマ・ニュース)で、まさに大高が前名「高杉彌太郎」で出演していた時のものというのだから、たまりません!

これらの公演の概要はすでに新聞記事でチェック済みですが、チラシを見るのは初めてだし、そもそもを言えば戦前・戦中の伊勢佐木町での芝居興行のチラシやパンフを現物で見るのも(たぶん)初めてです。

戦前・戦中の横浜の劇場資料はあまり多くなくて、例外的に馬車道・横浜宝塚劇場の「ニュース」やオデオン座の「ウィークリー」は、図書館の「デジタルアーカイブ」にかなりな数が掲載されていますが、それ以外、とりわけ関東大震災以降の喜楽座や朝日座のものは、これまでほとんど目にしたことがありませんでした。

ましてや、より大衆的な敷島座に至っては、横浜演劇史でもあまり顧みられてこなかったようで、敷島館と称した映画館時代の資料はあるようですが、劇場時代のものは新聞記事以外のデータはほぼないのが現状だと思います(おそらくまとまった調査や研究もされていない気がします)。


この頃の敷島座は籠寅演芸部(興行部)の経営で、おそらく昭和14年末か15年の初頭に籠寅と専属契約を結んだ(と思われる)近江二郎は、昭和15年3月、弥生興行の目玉(?)として敷島座に初登場します(酒井淳之助一座との合同公演の形)。

1940(昭和15)年2月29日付横浜貿易新報より

記事では大正15年の喜楽座以来、15年ぶりの来浜のように書かれていますが、実際は昭和5年9月の平沼・由村座での渡米記念興行がありますから、10年ぶりということになります(伊勢佐木町へは15年ぶりということになるのかな)

近江二郎も親族も横浜(井土ヶ谷)に住んでいたはずなのに、どういうわけか仕事上での横浜との縁は長らくなかったということのようです。

この昭和15年の興行にも高杉弥太郎時代の大高よし男が参加していることは以前にも書きました。その後、これまでいろいろ調べた中では、大高が横浜に登場するのもこの時が最初だっただろうと考えています。それ以前の横浜の公演データに彼の名前を見つけることができないのです。


そもそもの大前提として、大高よし男の前名が本当に高杉弥太郎なのかという疑問は残ります。ですが、以前にも書いたように「高杉彌太郎改め大高義男」という文言が新聞に載っているし、その後、少なくとも横浜や川崎では「高杉弥太郎」の名前を見ることがなくなるので、新たな証拠が出てこない限り、ひとまずこれを信じるしかありません。

1942(昭和17)年1月26日付神奈川県新聞より

(だけど、このあたりで行き詰まっていて、一向に前進しない…)


さて、入手したチラシは3種で、いずれも昭和16年3月のものです(この時も大高はまだ前名の高杉弥太郎でした)。


この年(昭和16年)の敷島座は、初春興行としてこの三座(田中介二・和田君示・近江二郎)の合同公演からスタート。そのまま3月いっぱいまで三座の合同公演が続きました。

1941(昭和16)年1月19日付神奈川県新聞より

チラシは3月のものですから、まもなく御名残で敷島座を去る直前ということになります。

紙面には「大政翼賛」だの「演劇報国」だの「防諜標語」だの、時代を感じさせる勇ましい言葉がならんでいます。

(横浜での「演劇報国」は横浜歌舞伎座の「愛国劇」日吉良太郎一座が有名ですが、敷島座でも同じフレーズが掲げられていたことがわかります。籠寅がそうしていたのかしらん)


チラシの時期を詳細に特定すべく、新聞と突き合わせてみたところ、この3種は、

3月12日〜18日
3月19日〜25日

の興行のものであるということがわかりました。

(なお、12日からの興行では途中、漫才のメンバーが変わったようで、上の2つのチラシは中面がまったく同じ内容で、裏表紙の漫才の部分だけ変更されています)


このチラシにはこれまで調べてきた馴染みの名前がいくつか見られます。

田中介二は言うまでもなく新国劇出身の剣劇役者で、川上好子は日吉劇から出た女優。

深山百合子は近江二郎の妻で、衣川素子は二郎のいとこの子(従姪)。この時期は夫妻の養子になっていました(のちに養子縁組は解消)。

大江三郎はこれまで何度も言及していますが、杉田劇場の大高一座にも参加していた(おそらく)近江一座の文芸部員で、大山二郎は一座の幹部だと思われます。

朝日五郎、小東金哉、東堂好郎も、各地の新聞などでしばしば目にする役者ですが、不勉強で詳しい経歴などはよくわかりません。小東金哉は役柄からして女形だったと推測できそうです。


そのほかで言えば、近松精次郎と坂本小二郎が少し気になるところです。というのも、近江二郎の内弟子だったという平参平のその頃の芸名が「近松小二郎」だからです。もしかしたら内弟子時代の平参平が名前を変えてこの興行に参加していたのかもしれません。


大高調査の視点でこのチラシを見ると、まず最初に気づくのは、高杉弥太郎の名前が、表紙の座長クラスの下にそこそこ大きな文字で書かれていることです。並びは「大山二郎」「小東金哉」「東堂好郎」ですから、大高よし男はやはり駆け出しの若手やただの所属俳優ではなく、一定のキャリアを積んだ人たちと並ぶくらいの人気や実力があったものと考えられます(でも座長クラスではない)。


大山二郎や小東金哉、東堂好郎といった人たちのことを調べていけば、もしかしたら昭和15年より前の大高の足跡がわかるかもしれません。

ただ、上述の通り残念ながらいまのところ彼らの詳細もよくわかっておらず、このチラシが入手できたとて大きな進展とはならないのが現実です(どなたかわかる人がいたら教えてください)。


さて、チラシからもうひとつ気になるのは、「高田光太郎」という役者です。

このチラシには大江三郎の名前があるので、戦後の大高一座(暁第一劇団)との細いつながりが感じられるところではありますが、大高一座のポスターに書かれたメンバーとここに掲載された役者の名前にピタリと合致するものはありませんでした。


ただ、よく見てみると大高一座のポスターに「高田孝太郎」という名前があるのです。「孝太郎」と「光太郎」ですから、おそらく読み方は同じでしょう。これはもしかしたら同一人物なのかもしれません。おまけに芸名とはいえ姓が「高田」で、杉田劇場のオーナー・高田菊弥と同じ。このあたりにも関連があるのではないかと推測することもできます。

さらにはこの興行のお目見得、昭和16年の新春興行の記事の配役の中には「高田光彌」という名前も見られるのです。


1940(昭和15)年12月29日付神奈川県新聞より

もしかしたら、当初「高田光彌」だった名前を3月までの間に「高田光太郎」に変えたのかもしれません。

そんな視点で見ると

高田菊弥
高田光彌
高田光太郎
高田孝太郎

これらの名前が同一人物か、少なくとの何らかの関係があったと考えてもおかしくないように思えてきます。

本田靖春の『戦後 美空ひばりとその時代』(講談社, 1987)には

「高田(※菊弥)は若いころから芝居好きで、戦前は浅草松竹座に出入りして、役者の後援会長を引き受けたりしていた」(同書 49ページ)

とあります。

近江二郎は敷島座出演の後、不二洋子一座に加盟する形で、浅草松竹座にもしばしば出演していましたから、高田菊弥が近江二郎の後援会長というのもあり得ない話ではありません。もしかしたら、それ以前、昭和15〜16年の段階で高田菊弥が近江一座と何らかの関係を持っていた可能性もあるし、高田菊弥が籠寅との縁をつないだのかもしれない…なんていうのは少し妄想が過ぎるでしょうか。

杉田劇場のプロデューサーである鈴村義二と近江二郎は浅草時代から関係があったと考えられますし(こちら)、高田菊弥が鈴村を杉田に呼んだわけですから、高田=鈴村の関係も浅からぬものがあったはずです。

このあたり、三者の関係について、さらに突っ込んで調べてみれば、戦前の浅草と戦後横浜のつながりや、杉田劇場=近江二郎=大高よし男の関連が見えてくるのかもしれません。


そんなこんなで、入手の興奮もあって、いささか精査が足りていない感も否めませんが、ひとまず今回はここまで。



前の投稿



「大高ヨシヲを探せ!」第一回投稿は
こちら

〔お願い〕大高よし男や近江二郎など、旧杉田劇場で活動していた人々についてご存知のことがありましたら、問合せフォームからお知らせください。特に大高よし男の経歴がわかる資料や新たな写真が見つかると嬉しいです。