ここしばらく本業というか余業というか、忙しい時期が続いたので、図書館通いも間が空いてしまいましたが、ゴールデンウィークになってようやく再開。
とはいっても、大高よし男が横浜や川崎で活動していた時期とその周辺の調査はほぼ終わっているので、見直し以外に調べようがなくて、ほぼ行き詰まりの状態。
雑誌『演芸画報』も調べ始めましたが、そもそも大衆演劇の記事が少ない上に、東京・大阪・京都の大劇場が中心で、大高どころか大江美智子や不二洋子の記事に出会うのすら、稀なくらいですから、ほとんどが「空振り」となります。
何度目かの「途方に暮れる」時期が再来しました。
もっとも、別件(本業)の調べものもあるので、そんなに時間的余裕はないんですけどね。
そんな折、早じまいの図書館からのハシゴで、毎日のように通う「ブックオフ」の書架に、かねてから探していた田中徳一著『筒井徳二郎 知られざる剣劇役者の記録』を発見し、昂る心を抑えつつ即購入。
500ページ超の大部、6,000円(税抜)の定価本が、20%オフのセール中とはいえ2,500円弱で入手できたのだから、「途方に暮れる」迷走期にもそれなりの意味があったのかもしれません。
(ありがたや)
筒井徳二郎のことは、大高よし男と共演したことのある「三桝清」についての項( (11) 大江三郎と三桝清)でも簡単に触れましたが、1930(昭和5)年1月から1年3ヶ月にわたって欧米を巡業した剣劇役者(座長)で、当時の海外の演劇人(ブレヒトやメイエルホリドやジャック・コポーなど)に影響を与えた人として評価されています。
ですが、その後(特に没後)はすっかり忘れられてしまったのです。
その点、大高と似たところもありますが、筒井徳二郎や大高よし男に限らず、戦前・戦中の新派(現在の劇団新派を除く)や剣劇の役者たちは、その多くが今ではもう忘れられてしまっているのです(熱烈なファンからは反論があるかもしれませんが)。
彼ら・彼女らの経歴を調べるに、「没年不詳」という人が結構いることからも、その忘れられ具合が察せられて、なんとも言えない気分に襲われます。
この本の巻末にある筒井徳二郎の年譜には記載がありませんが、後年、筒井は横浜の舞台にも立っていて、当地の無遠慮な劇評家から手厳しい言われ方をしている記事なども散見されます。
同じく、筒井一座のメンバーとして渡航し、その演技を高く評価されていた三桝清も、大高とすれ違うような時期に横浜の舞台に登場します。
本来ならば、東京や大阪の大劇場だけで興行するような活躍があってしかるべきだったのかもしれませんが、そう簡単ではなかったのでしょう。
なお、筒井は昭和20年8月、広島への原爆投下を知って、知り合いか弟子を探しに、翌日には現地に入ったらしく、そこで被曝したのか、昭和28年に白血病で亡くなったそうです(享年七十二)。
ところで、この大部の本を読み通すにはそれなりの時間がかかるとは思いますが、パラパラとページをめくりつつ、「あとがき」に目をやれば、ただいまの「途方に暮れる」僕の気持ちを代弁するかのような苦闘が列記されていて、思わず共感の涙が溢れてきました。
曰く
「最初は演劇書にあれこれ当たっても、筒井のツの字も出てこなかった」
「新派役者だったらしいことがわかってから、ちらほら影や尻尾が見えてきた」
「しかし筒井の伝記的なことについては、しばらく皆目わからなかった」
「古くからありそうな商店の方に筒井という役者について聞いて回ったが、何ら目ぼしい手掛かりは掴めなかった」
「新聞を調べていて、筒井が欧米巡業後、大阪JOBKのラジオ番組に出演した時のプロフィール記事が見つかったのだ。国会図書館のマイクロフィルム・リーダーを前にして、涙が止まらなかったことを覚えている」
まさに、僕が現在進行形でやっていることを、20〜30年前(初版は2013年)に田中徳一先生はすでに経験していたわけです。
(ちなみに、謝辞の中で言及されている日大教授の高山茂先生は、僕が大学時代に教わったことのある先生で、そのあたりにも奇縁を感じるところです)
僕の調べた範囲で考えてみると、筒井徳二郎という役者が特異なのは、アメリカの東海岸とヨーロッパまで巡業した点だろうと思います。
意外なことに、当時の海外巡業自体はそれほど珍しいものでもなく、筒井がまだヨーロッパにいた昭和5年に、我らが(と言いたくなる)近江二郎がアメリカ巡業に出ているほか(1930年11月〜1931年6月?)、同じ剣劇役者の遠山満や、映画スターの澤田清、さらにはつい最近の投稿で言及した石川静枝(二見浦子)、巴玲子など、アメリカ西海岸とハワイへの長期巡業を行っていた役者(や芸人)は相当数いたようです。
ただ、(繰り返しになりますが)そうした役者たちの巡業先は、日系人の多いハワイや西海岸が中心で、どちらかというと国内巡業の延長線上にあったと考えられる一方、筒井一座の巡業は、その枠を大きくはみ出していて、「日本文化の紹介」というの位置付けになるほどのものだったと言えます。ただの巡業ではなく、文化使節と言ってもいいくらいです。
その点が他の役者と違うところで、筒井徳二郎という人は大袈裟に言えば、世界演劇史の中に登場してもいい日本の大衆演劇の役者、ということになります。
その筒井の舞台は海外では「歌舞伎」として扱われたようですが、むろん、大衆演劇(剣劇)は歌舞伎ではないので、それに伴う批判や軋轢も多くあったようです。
ですが、いずれにしても筒井徳二郎という人が、アメリカやヨーロッパに新しい演劇観をもたらしたのは事実のようで、その功績をもって、しかるべき正当な評価をされてもいいんじゃないかと感じるところです。
そんな人が忘れられてしまうことに、僕も強い憤りと悲しみを感じないわけにはいきませんし、その忘却の趨勢を押しとどめ、押し返すのが地道な研究や調査なのだということを、最近、つとに実感しています。
(筒井徳二郎しかり、近江二郎しかり、日吉良太郎しかり、大高よし男しかり)
そういう人々のことを調べ、次代に伝えていくことは、近年、しばしば議論になる「役に立つ」とか「役に立たない」とかではなく、連綿と続く生命、それも知性を持った人間という生命の「本能」のようなものじゃないかと、この頃の僕は考えているところです。
当たり前のことですが、名のある人だけで歴史ができているわけじゃないのです。
そんなこんなで、今回の投稿は全体が余談みたいな回になりましたが、行き詰まりの産物とご容赦ください。
さて、明日も調べるぞ。
→つづく
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