(41) 「よし子」ではありません

新しい発見ではありませんが、「寶塚文藝圖書館月報」(『明治・大正・昭和前期雑誌記事索引集成 人文科学編 第20巻』収録)の中に、大高の名前を見つけました。

この月報がどういうものなのか、正直、よくわかっていないのですが、ここには昭和10年代の何年か分の『演劇年鑑』が収録されています。

そのうちの昭和17年度版(昭和18年5月の月報に掲載)。9月から10月にかけての「上演演劇索引」の中に大高の名前があったのです。

しかし、そこに書かれていた名前は

「昭和17年度演劇年鑑(『寶塚文藝圖書館月報』収録)」より

大高よし子!

いやいや、よし子じゃないって。

劇場が京都三友劇場なので、念のため『近代歌舞伎年表 京都編』と照合してみました。

『近代歌舞伎年表 京都篇 第10巻』(八木書店刊)より

やはり「大高よし男」の誤植でした。

(ホッ)

いやはや、古い資料は誤植や誤記が多いので注意が必要です(実はこの年鑑には「大高よし子」が2ヶ所もある)。

(しかし、誤植などがあると検索しても見つからないわけですから、想定される誤記もチェックしないといけないのはなかなかのハードルです)

実はそれ以上に重要なのは、同書にあった「大高よしを」の記載です(昭和17年12月興行)。

昭和17年度演劇年鑑(『寶塚文藝圖書館月報』収録)」より

古い記録の中で、「よしを」とひらがなの名前が出てきたのはたぶん初めてじゃないかしらん。

しかも、この記録を『近代歌舞伎年表』と照合してみたところ、なんと年表には大高の名前がないのです。

『近代歌舞伎年表 京都篇 第10巻』(八木書店刊)より

「年表」は11月(30)日が初日ですが、これは12月興行と考えていいでしょう。「月報」収録の「年鑑」で「12月」となっていることと合致しますし、演目も同じですから、同じ公演の記録と考えられます。

しかし、「年表」には大高の名前がない。

これが「年鑑」の誤記なのか不明ですが、もし誤りではないのだとしたら、『近代歌舞伎年表』が典拠とした「京都新聞」以外に、「年鑑」が典拠とした「大高よしを」という記述のある資料が、必ずどこかにあるはずです。

それに行き当たれば、新たな情報が入手できるかもしれません。

(どこにあるのだろう…)


ところで、この興行には「松園桃子一座」の名前があります。

既述の通り、大高よし男は昭和16年の9月から年末まで、横浜敷島座で「松園桃子一座」に参加していることがわかっています。

上記の京都での記録が正しいとしたら、座組からしてここでも「松園桃子一座」に参加していたと考えるのが妥当な気はします。

やはりキーとなるのは…

近江二郎
伏見澄子
松園桃子

この三者になるでしょう(加えて大高の死後、追善興行に出た「中野かほる」も頭の隅に置いておきます)。

大高の名前をターゲットにした資料調査はそろそろ限界に達しています。上記三座の記録を精査することで、新たな大高の軌跡が見つかると期待したいところです。

ちなみにこの時(昭和17年12月)の演目、『第二の暁』は、旧杉田劇場の「暁第一劇団」を思わせる題名で、ちょっと気になります。

うーむ…

調査は続きます。


→つづく


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