新たな資料の発見で、大高探しは伏見澄子一座の活動記録調査に絞られました。
さっそく「伏見」を新聞で洗い直したところ、新たに3つの記事に大高の名前を見つけることができました。
(ま、見落としがあったということでもあるのですが…)
ひとつ目は昭和17年1月12日の記事。
川崎の「大勝座」という劇場の初春興行に伏見澄子一座が出演していて、そこに大高よし男と中村吉十郎が出ているという内容です。
昭和17年1月12日付神奈川新聞より |
14日から三の替狂言というのですから、川崎に来てから3回目の演目変更ということになります。あとで紹介する1月19日の記事には20日から番組替りとありますので、6日ごとに変えていたのでしょう。逆算すると年明け2日くらいからが川崎での興行と推定されます。
大勝座はこの直前に籠寅興行部(演芸部)と提携し、その縁で伏見澄子一座の演劇興行が始まったようです。記事中にも「演劇に恵まれなかった川崎市にこの豪華メンバーは非常に歓迎され」とあります。
後年、蒲田の愛国館という映画館が実演劇場(愛国劇場)に変わった時も、リニューアル後の興行は伏見澄子が担っていますので、「三羽烏」のひとりとして、新しい劇場のスタートダッシュみたいな局面では重宝されたのだろうと思います。
先に紹介したように、1月19日にも大勝座の初春興行の記事が出ます。前回の投稿の通り、2月からは横浜の敷島座に出ますので、1月いっぱいが川崎だったのでしょうね。
僕にとっては「大高よし男」の名前のあることが最重要ですが、この記事そのものは、川崎大勝座に「人間ポンプ」が来ることの方がメインの内容です。
昭和17年1月19日付神奈川新聞より |
人間ポンプという芸は僕らの子どもの頃にもテレビなどで目にする機会があったように思いますが、この記事で紹介されているのは、まさに元祖人間ポンプとでもいうべき「有光伸男」という芸人です(僕は知りませんでしたが、ネットを調べてみたらこんなサイトがありました)。
新聞記事によると、この芸人、金魚を飲んで生きたまま出す、みたいな、僕のイメージする人間ポンプだけではなく、
"水を五六升呑んで、猛火を消す位のことは最早、楽々とやってのける程である"
なんてこともしていたそうです。五六升ですから10リットルくらいになりますか。大量の水を飲んで吐き出し、舞台上の火を消すのが彼の主な芸だったようです(リンクしたサイトに写真があります)。
いやはや、大高の時代にはいろんな人がいたんですね。
話を戻しましょう。
新たに見つけた記事の最後は同年1月26日のもので、これは2月に敷島座に出るという予告です。
昭和17年1月26日付神奈川新聞より |
実はこちらも記事内容のメインはこの興行に特別出演する「バラバラ人間」のことです。人間ポンプといい、バラバラ人間といい、アメリカとの戦争が始まって1ヶ月というのに新春から呑気なものだと思いますが、逆にまだこの時期は世の中はそれほど切迫しておらず、のちに「富士」と改題する雑誌『キング』、「作文館」と改称する『ムーランルージュ新宿座』もそのままだし、野球用語だってアウト、セーフ、ストライク、ボールを使っていました。
余談ですが、昭和16年から昭和20年までの間、時系列に記事を追いかけていると、世の中がだんだんおかしくなるさまがよくわかります。とりわけ昭和18年の後半から昭和19年にかけては、それこそ急坂を転がり落ちるように日常が変わっていきます(日常語から敵対する外国の言葉が排除されるのも昭和18年から)。貯蓄も報国とか、散髪も報国とか、冷静になればまったくもって意味不明なスローガンが頻発したり、三溪園を農場として開放するとか、横浜公園を畑にするとか、いくらなんでも無理があるでしょ、というような話が美談として新聞で報じられたりもするのです。
もっとも、そうした記事をまとめて一気に読むから変化に気づくのであって、毎日少しずつ、徐々に変わる中で日々を過ごしていたら、そのおかしさに気づかない人や、いつの間にか不自然さに慣れてしまう人も多かったのだろうとは思います。ホント、戦争はダメですね。
さて、また話が脱線しましたので、記事に戻りますと、問題の(?)バラバラ人間というのは
"堂々たる男子の関節が自由自在に曲折して、思ふがまゝの姿態を見せるという醫科学上、一大驚異なる人物"
なんだそうです。
この興行にはバラバラ人間と「怪力」の女剣劇・伏見澄子一座(3本上演)と漫才までもが出たそうです。なんという盛りだくさんと思いますが、当時の劇場は、今でいうテレビやラジオやネット動画のように、なんでもありのごた混ぜだったのでしょうね。夜の部がだいたい6時に始まって、終演は10時くらいだったそうですから、集中して一本の芝居を見るというよりは、いろんな芸を楽しむバラエティ空間があの頃の劇場だったのだと思います。
ところで、実を言うとこの記事には、バラバラ人間よりも、興行の仕組みよりも、僕にとって非常に重要なことが書かれているのです。それが
"高杉彌太郎改め大高義男加盟"
当時の新聞記事には誤植や誤報が多いので、鵜呑みにするのは危険ですが、この記事を信じるとすれば、大高ヨシヲはこの時期に芸名を変えていたことなります。以前の芸名は
高杉彌太郎(たかすぎ やたろう)
もしかしたらこれが本名なのかもしれませんが、高杉晋作と岩崎弥太郎を混ぜ合わせたようで、明治維新を彷彿とさせる芸名のようにも思えます。
さらに気になるのは旧杉田劇場のポスターに「高杉マリ子」という名前があること(大高の妻か?)。そして、ひとまずネットでざっと調べた結果、「高杉彌太郎」という名前の役者が引っかからないこと(なぜだ?)。
(なんだろう、このモヤモヤ感…)
うーん、ますます謎が深まります。
いずれにしても、大高はおそらく昭和17年の正月を機に芸名を変えたのだろう思います。
そうなると昭和17年以降が「大高ヨシヲを探せ」、昭和16年以前は「高杉弥太郎を探せ」というミッションになるわけです。
→つづく
2 件のコメント:
見世物小屋の話に惹かれてしまいます。
若い頃は新宿の花園神社や自宅近くの神社でよく見ました。
ろくろ首なんかは観客を笑わせるインチキでしたが、障害者を見世物にしているのは酷かったです。
当時は見世物みたいな芸と同じ場所で芝居もしていたのに驚きました。
いろいろ時代を感じさせます。
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