(19) 暁第一劇団の人々(1) 生島波江

 旧杉田劇場の専属(座付)、暁第一劇団の座員(と思われる人)は、現存する2枚のポスターから名前を拾うと以下のようになります。

生島波江
大江三郎
大島ちどり
大高ヨシヲ
小高美智代
尾崎幸郎
春日謙二郎(謙太郎)
壽山(寿山)司郎
高島小夜里
高杉マリ子
高田孝太郎
高田小夜里
長谷川国之助
藤川麗子
三木たかし(タカシ)
宮田菊弥
(五十音順)

芸名を変えたりして、重複している人がいるのかもしれませんが、ひとまず羅列したところで総勢16名。

戦前・戦中の著名な劇団は40名とか60名とかいった役者を抱えていたようなので、大高一座は比較的小規模な劇団といってもいいのかもしれません。


に挙げた役者のうち「宮田菊弥」は、字面からして劇場の経営者である「高田菊弥」の芸名じゃないかと、杉田劇場のTさんが推測していますが、高田が芸事好きだったことを思えば、説得力がある推論だと思います。

また、こうして五十音順に並べ替えてみると、「高田」が2人いることにも気づきます。「高」の付く芸名が多いことは前にも指摘しましたが、「大高」の「高」であると同時に、「高田」の「高」の意味もあったのでしょうか。ふたりいる「高田」の「孝太郎」と「小夜里」が高田菊弥・能恵子夫妻の芸名だったりしたら面白いのですが、確証がないのでこれまた推論止まりというのが歯痒いところではあります。

いずれにしても「高」の付く芸名は、劇場経営者なり座長なりの名前から一文字とっているような気はします。


さて、上にあげた名前のうち、戦時中からの演劇活動がわかっているのは、いまのところ

生島波江
大江三郎
大高ヨシヲ(よし男)
壽山司郎
藤川麗子

の5名。判明した範囲での各人の履歴は次の通りです。

  • 生島波江…劇団新進座の座員として、また日吉良太郎一座の座員として名前が挙げられています。
  • 大江三郎…近江二郎一座の文芸部員だったと推測されます。
  • 大高ヨシヲ…伏見澄子一座に助演で出演していた若手剣劇俳優だと思われます。
  • 壽山司郎…神奈川県芸能報国挺身隊で漫談をやった人として名前が出ますが、曾我廼家五郎一座にも所属していたようです。
  • 藤川麗子…日吉良太郎一座の座員として名前が挙げられています。

前回の投稿のように、大高ヨシヲを除けば、いずれも何らかの形で神奈川県(横浜市)の興行界とつながりを持った人たちです。

そんなこんなで、大高ヨシヲの正体がつかめないことから、周辺を調べることが最近の調査の主流になっていますが、今回からは一座の座員のうち、わかっていることを書き連ねてみたいと思います。


まずは、生島波江。

生島波江について語るにも資料が乏しいので、わかっている範囲でしか書けません。生没年も出身地もわかりませんが、戦前、戦中の新聞を細かく調べると、そこここに彼女の名前が出てきます。

前にも書きましたが、『郷土よこはま』No.115に収録されている小柴俊雄氏による「日吉劇」についての記述の中に、日吉良太郎一座・演技班のメンバーとして生島波江の名前が見られます。

また、昭和10年代の新聞には劇団新進座の出演者のひとりとして掲載されてもいます。新進座は南吉田町にあった金美劇場の座付劇団とされていますが、座組がずいぶん変わってすいるように感じられるので、彼女が参加したのはもしかしたら「第二次」新進座なのかもしれません。広告では生島の名前は座長と目される春野勇とともに名前がしばしば挙がりますし、それ以外にも地元横浜の青年座長として紹介されている「花柳好太郎一座」にも客演していることがわかっています。

こうなるとどこが主たる所属なのかわからなくなりますが、日吉良太郎一座のメンバーと、新進座のメンバーには重なるところがある上に、日吉劇が拠点としていた横浜歌舞伎座(末吉町)と、新進座の拠点、金美劇場(南吉田町)はそれほど遠くもないので、両劇場・両劇団内での行き来が頻繁にあったのかもしれません。彼女以外の例でも、どこかの劇団に所属しているはずの俳優が、別の劇団に客演するようなことはよく見られるので、ひとつの劇団に所属したらずっと専属、みたいな、いまの劇団や俳優の価値観とはだいぶ違うのかもしれません。

さらに、戦前、昭和13年の演劇雑誌『演芸画報』にも彼女の名前が出ます。ここには東京の江東劇場の柿落としを担った日吉良太郎一座(二の替り)の劇評が載っていますが、演目のひとつがチャップリンの名作『街の灯』を翻案したレビュー作品だったようで、こんな記述です。

"日吉のルンペンはモジャモジャ頭髪にガニ股歩きが、チャップリン其儘で大受です。女優は喜劇の芸者になる関谷妙子でも悲劇の主役の花柳愛子でも、盲の花売り娘生島波江でも確りしたもの"(『演芸画報』昭和13年2月号/小谷青楓「春の浅草(とその延長)の演藝概観」)

ご承知のように『街の灯』に登場する盲目の花売り娘は、主役といってもいい存在ですから、生島波江にはその役にキャスティングされるだけの実力があったのでしょうね。

一方、前回の投稿で横浜新進座の広告では「麗人剣士」と紹介されていることから、剣劇もできる女優だったのだろうと思います。多彩な芸の持ち主だったことが想像されます。

ただ、新聞広告以外で生島波江の名前が見られる資料はごくわずかです。戦前には自ら一座を組んで地方巡業にも行っていたようですが、東京や大阪、京都などの劇場には記録がないので、小都市の巡業が中心の一座だったのでしょう(地方紙を丹念に調べれば名前が見つかるかもしれません)。

以上の情報から、ざっくりまとめると、生島波江は日吉良太郎一座に所属し、神奈川を拠点に活動していた女優で、戦後、大高ヨシヲ一座に参加した、ということになります。


暁第一劇団には、大高が声をかけたのか、誰か知り合いを通じて参加することになったのか、そのあたりが不明なのですが、いずれにしても横浜近在の役者ということで大高一座の舞台に立つことになったのだろうことは推測されます。

生没年がわからないので、これも推測になりますが、日吉良太郎の妻である花柳愛子が戦後も長く横浜に住んでいたことを思えば、大高一座が解散した後、生島波江も横浜のどこかで暮らしていた可能性は低くありません。それなりに活躍していた女優であったにもかかわらず、証言などの記録が残っていないことから、役者であったことを語ることもなく、ひっそりと日々を送っていたのでしょう。

歴史の彼方に消えていく演劇人の人生を思うと、切ない思いが込み上げてきます。

せめてどこかに写真や手紙でも残っていたらいいのにな。


→つづく

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