戦後、昭和21年1月1日にオープンした旧杉田劇場。
その座付劇団の座長として活躍していた大高ヨシヲ(よし男)。
彼が亡くなるのは同年10月で、それまでの間に杉田劇場の舞台に立ったのは、これまでわかっている範囲で以下の通りです。
大高ヨシヲ一座(暁第一劇団)春日井梅鶯(浪曲)劇壇おかめ座三木歌子とその楽団近江二郎一座
紫多志美会(邦楽舞踊)
森野五郎一座神田ろ山(講談)林家正蔵(落語)木村松太郎(浪曲)市川門三郎一座三門博(浪曲)曾我廼家五九郎醍醐楽劇団日劇ダンシングチーム櫻井潔楽団(司会:横尾泥海男)相模太郎(浪曲)藤澤洋志一座杉田青年団中村吉右衛門劇団森永楽劇団
ここに挙げた人や団体の大半が戦前・戦中の横浜で活動した実績があるか、横浜には来ずとも全国的に知名度が高い人たちです。
そんな中、異彩を放っているのが「大高ヨシヲ」なのです。
たしかに大高は剣劇の世界でそれなりの活動をしていましたが、当時の剣劇で有名だった梅沢昇や金井修、あるいは女剣劇の大江美智子や不二洋子と肩を並べるほどの知名度かといえば、失礼ながらおそらくそれほどでもない気はします。
そんな大高がなぜ横浜の杉田劇場にやってきたのか。
戦争が終わって、活動する劇場を探していたのだとしたら、東京にもいくつかの劇場が残っていたし、大阪や京都や名古屋にもあったはずです。もっと地方に行けば空襲の被害がなかった劇場もあったことだろうと思います。
なぜ、そういう劇場を選ばず、杉田劇場に現れたのか。
何をおいても、これが最大の問題です。
当初より推測していたのは、大高は戦前・戦中から横浜に縁があったのだろうということです。そうじゃないと、上にあげた最大の疑問の説明がつかない。
それをたしかめるために、昭和18年6月以降(つまり大高の活動が不明になってから)の新聞をつぶさに見て、活動(興行)の痕跡を探っているところですが、現段階で、昭和18年6月から昭和19年2月いっぱいまでを精査してみた結果、残念ながら新聞紙上に大高の名前はまったく出てきません。銀星座の開場を担った近江二郎や、のちに杉田劇場で連続公演する市川門三郎などは、戦時中、伊勢佐木町の敷島座や南吉田町の金美劇場における興行が盛んに宣伝されているのに、どういうわけか大高の名前だけが見つからないのです。
旧杉田劇場の開場時期まで調べ続けるつもりでいますが、昭和19年からは戦争が激化する上に、昭和20年5月29日の横浜大空襲以降は、ほとんどの劇場が焼失して、横浜の興行界は壊滅状態になったし、新聞の発行さえもままならない状況になりますから、昭和19年春から1年間くらいがギリギリのラインで、ここに大高の活動が記録されていないとしたら、少なくとも横浜や川崎で彼が活動していたことは「ない」と断定していいと思います。
もしそうだとしたら、戦後、大高は縁もゆかりもない横浜に突然現れたことになります。
もちろん、狭い演劇界での話ですから、大高自身、近江二郎や森野五郎などとは多少なりと知り合いだったでしょうし、そもそも籠寅興行部にいたと思われることからして、横浜に劇場ができたという話は、仲間内から聞いていたでしょう。浅草芸能界に顔がきいたという杉田劇場のプロデューサー鈴村義二や、オーナーの高田菊弥とも何らかの関係があったかもしれません。そんなツテから横浜に来たとも考えられますが、あくまでも推測。どうして大高が横浜の杉田に来たのかという疑問に、合理的な説明がつく資料にはまだ出会うことができません。
ふぅ。
話は変わりますが、近刊のちくま文庫に田中小実昌の『ひるは映画館、よるは酒場』があります。この本の「横浜の映画館」という項の末尾に、美空ひばりがデビューした頃、杉田の劇場を「ほんとになかのいい友だち」が手伝っていた、と書いてあるのです。
美空ひばりが出ていた頃というのは、つまり大高ヨシヲが杉田劇場の専属劇団を率いていた時期と一緒です。この「友だち」が誰を指すのかを探す作業も重要なポイントですが、今回はそれより重視したいのが、著者である田中小実昌の復員時期です。
田中小実昌は招集されて中国戦線に送られ、途中、マラリアにかかったりして、復員は昭和21年の7月になったのだそうです(氷川丸に乗って久里浜に復員したとか)。
戦後の横浜演劇界でとても大きな仕事をされた、劇団麦の会初代代表の高津一郎さんも中国にいて、復員したのは昭和21年3月でした。生前、幸運なことに親しくお話をうかがう機会を持つことができましたが、高津さんの所属していた部隊の復員はそれでも「早い」方だったそうです(参考記事:カナロコ→演劇の部隊 (1)・演劇の部隊(2))
一方、美空ひばりの父、増吉も兵隊に取られましたが、横須賀海兵団に配属されていたために、終戦後、すぐに復員できたようです。だから、昭和21年の3月か4月に、杉田劇場で愛娘が唄うバックで演奏したバンド、美空楽団を編成することができるほどの時間的余裕があったわけです。
仮に大高ヨシヲが昭和18年5月末で役者をやめて、軍隊に入っていたとしたら、外地ではなく内地の部隊に配属されていたのではないかと推測できます。上の3人の例から見ても、外地にいたとしたら、昭和21年2月に杉田劇場へ売り込みに来て、座員を集めてすぐに興行開始というのは、時間的に相当難しかったのではないかと思われるからです。
戦地へ行っていた、あるいは国内のどこかの部隊に配属されて働いていた、はたまた軍需工場などで勤務していた、など、当時の時勢から考えられる大高の「転業先」はいくつかありますが、軍関係だとしたら、横浜か横須賀近辺の部隊や施設にいたのかもしれません。それが杉田との「縁」なのかもしれませんが、大高の本名がわからない今は、軍の記録の中から彼の手がかりを探す方法はありません。
一方で、一般の興行ではなく、当時盛んだった「芸能慰問団」の一員として活動していた可能性も否定できません。
大高が所属していたと思われる籠寅興行部にも慰問団があって、各地の軍需工場などに役者や芸人を派遣していました。このブログの最初の頃に旧杉田劇場のプロデューサー鈴村義二が、戦時中、林家正蔵らを率いて山北町へ行った話を引用しましたが、大高ヨシヲがそういう活動をしてたことも考えられます。ただ、籠寅興行部にいたことからすると、専属の慰問団というよりは、各地で興行をしつつ、日程のあったタイミングで慰問を行う、という方が合理的な気はします(不二洋子などもそのような慰問活動をしていたようです)。
だとしたら、やはりどこかの劇場の新聞広告に大高の名前が出ているはずです。
(それがないということは…)
芸能慰問団は大政翼賛会などの肝入りでできたという「日本移動演劇連盟」「日本移動文化協会」といった全国組織が、大手興行会社などを通じて劇団や芸人(または映画など)を派遣する形で運用されていたようですが、やがて、それではまかないきれなくなってきたのか、神奈川県でも昭和18年9月に「神奈川県巡演興行(協?)会」が、昭和19年2月には「神奈川県芸能報国挺身隊」が結成されます。
この「挺身隊」に参加した劇団は、新聞記事によると
横浜新進座国伸劇 島村和朗中村登良三一座花柳好太郎一座紀の国家劇団歌舞伎 坂東調之助一座
であり、役員も列記されています(日吉良太郎の名前もあります)。しかし、「大高ヨシヲ」の名前はどこにも見当たりません。ここにも大高の名前、あるいは劇団の名前がないということは、やはり、終戦までの大高と横浜の縁は「ない」とするのが妥当な結論かもしれません。
(ここでも大高の手がかりが見つからない…)
ところで、挺身隊発足直後、昭和19年2月9日付神奈川新聞には「藝能報國挺身隊旗上」という記事があって、慰問公演の公演内容が以下のように書かれています。
「公演の順序は久しぶりに返り咲の森野五郎氏の司会。壽山司●氏の漫談。平塚の舞踊家、島千夜子一座。中郡大野村の中村登良三、浪花千代子の漫才。移動演劇は横濱新進座牧野晃三。生島波江。春野勇。市川七百蔵の時代劇『おけさ櫻』喜劇『新世帯』」
この記事中に列記されている役者は、当然ながらいずれも横浜や神奈川に縁のある人たちで、その頃の新聞ではお馴染みの名前ばかりです(神奈川県下を巡演する慰問団ですからね)。
最後の字が不明瞭ですが、おそらく「壽山司郎」だと思われます。そして、この人物はなんと旧杉田劇場の大高ヨシヲ一座のポスターの中に出てくるのです。
旧杉田劇場のポスター:「大高ヨシヲ」の左に「壽山司郎」 |
戦後、新聞に出る杉田劇場の広告のうち、大高一座の公演には「じゃがいもコンビ」の名前が見られますが、劇団員であった壽山ともうひとりでやっていた劇団内ユニットのようなものじゃないかと推測しています。大高の没後、弘明寺銀星座の自由劇団の広告に「壽山じゃがいも」の名前が見られるからです。
「じゃがいもコンビ」は単体でも人気があったことから、杉田劇場だけでなく、銀星座にも呼ばれて出演していたのではないでしょうか。慰問公演の舞台に立つくらいですから、以前からそれなりの人気があったはずで、漫談をやったという壽山司郎は、もしかしたら横浜の地の喜劇役者か芸人だったのかもしれません(この広告にある不思議なタイトルの芝居『娘?アイドントノー』も、後年、銀星座の自由劇団が上演しています)。
彼女のことは前にも書きましたが、戦時中の新聞広告や記事に頻繁に名前の出る女優です。「麗人剣士」と書かれていることもありますから、剣劇女優といったところでしょうか。
つまり、壽山司郎も生島波江も、大高一座に参加する前は、戦中の横浜(神奈川)で盛んに活動していた役者・芸人だったと言って間違いなさそうです。
こうして大高についての調べが進むうちに、大高一座の座員の経歴は、横浜(や神奈川)に深い縁があるということが、だんだんとわかってきました(日吉良太郎一座にいた「藤川麗子」もいますし)。そういう面々が集まって開場から間もない旧杉田劇場に、専属の「暁第一劇団」ができたわけです。
しかし
肝心の座長、大高ヨシヲが横浜とどんなつながりを持っているのか、これがまったくの不明なのです。
→つづく
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