(22) 伏見澄子一座の足跡を追って

 大高ヨシヲの前名が「高杉弥太郎」とわかったからには、弥太郎の活動履歴を探さなくちゃいけないわけですが、これがまったく見つかりません。

大高が川崎と横浜の舞台に立つのが昭和17年1月と2月。3月からは京都三友劇場に移ります。その前年、伏見澄子は「鈴新座」の座組で浅草の松竹座の舞台に立っていますが、前にも書いたようにそのパンフレットの中には大高ヨシヲの名前はないし、高杉弥太郎の名前も見当たりません。

ただ、字が潰れていてよく見えないのですが、「■彌太郎」という役者がいるのは確認できます。■は「関」のようにも「藤」のようにも見えますが、はっきりしません。仮に「関彌太郎」だと仮定して、さらに調べると、当時「関哲洲」という役者がいたことがわかって、

関哲洲→関彌太郎→高杉彌太郎→大高よし男

という変遷が想像できなくもありません。ですが、あくまでも想像。確証は何ひとつありません。

想像(妄想?)に拍車をかけるのが、戦時中に発行された『銃後の横浜』という(おそらく)横浜出身の前線の兵士に向けた雑誌(冊子?)。昭和13年刊。

その中の「横濱の演劇ルポタージュ/全盛は女剣劇でアリマス」という記事に、伏見澄子一座のことが書いてあって、俳優一覧に「関哲洲(州)」の名前があるのです。関弥太郎はいませんが、関哲洲はこの本が発行された昭和13年には伏見澄子一座にいたわけです。その役者が昭和16年までの間に「関彌太郎」さらに「高杉弥太郎」と改名した可能性は、妄想と断じるほどの荒唐無稽でもない気はするのですが…

『銃後の横濱』にある伏見澄子一座の俳優一覧には「宮崎憲時」という人もいて、昭和13年春、横浜敷島座に一座が出た際、新聞に何度か掲載されたキャスト表の中にも名前が見られますが、不思議なことに同年3月2日の新聞だけは「宮崎角兵衛」となっているのです(ぼやけていますが、すぐ横に「関哲洲」の名前もあります)。

昭和13年3月2日付横浜貿易新報


「宮崎角兵衛」は昭和16年、浅草松竹座での鈴新座の舞台に出ていた役者ですし、新聞で大高と一緒に名前が出る人でもあります。さらにさらに、宮崎角兵衛と関哲洲の名前は、昭和14年、伏見澄子も参加した「(初代)大江美智子追善興行」にも見られます。

昭和13年から17年の4年間、宮崎角兵衛と関哲洲、関彌太郎そして高杉彌太郎こと大高よし男のいずれの関係もほぼ同じ立ち位置にいたと言えるでしょう。つまり、宮崎憲時=宮崎角兵衛が確かならば、関哲洲=関彌太郎の可能性もなくはないし、関彌太郎が高杉彌太郎に改名し、大高義男になるという変遷にもいくばくかの説得力が出てくるわけです。

追加で調べてみると「関哲洲」の名前は大正15年の雑誌(『劇と映画』)にも記載があります。仮に大正15年で20歳だとすると、昭和17年の段階では37歳。昭和21年の杉田劇場に出た時は41歳。自分自身、以前の投稿で「子息と思われる少年の年恰好からして、亡くなった時の大高の年齢は30代から40代と推定しています」と書いていますので、このあたり、大きな誤差はありません。とすると、

関哲洲→関彌太郎→高杉彌太郎→大高よし男

の流れが俄然現実味を帯びてくるわけで、調査の行き詰まりを打開する大きなポイントに差し掛かっているのかもしれません。


さて、大高探しを伏見澄子の活動履歴から洗い出すために、彼女の一座が横浜に登場した頃の新聞をチェックしてみました。伏見一座にいたという作家の窪田精が書いた自伝的小説『夜明けの時』では、伏見澄子は浅草に進出する前に横浜で「半年ほど」興行したとありました。昭和13年4月を基準とした記述なので、前年の11月頃にはもう横浜にいたのだろうと想定して調べていましたが、昭和13年2月25日付の神奈川新聞の劇評には

"酒井淳之助が去って、十六日からの敷島座は関西から上って来た女剣劇伏見澄子一座におなじみの英榮子、土地ツ子の瀬山緑郎といふ組合せ、その初日を見に行った"

とあることから、実際は2月16日が横浜での興行のスタートで、これまでに調べた範囲では6月までは敷島座にいたようです(7月以降は今後調べます)。同年7月末に浅草公園劇場に出るので、関西で見出された伏見は東上の途、横浜で4ヶ月か5ヶ月の地固めをし、満を持して浅草に進出したのでしょう。

彼女は身長が五尺四寸というのだから約162センチ。当時の女性としてはかなり大きい方だと思います。その座長が敵役の俳優を両手で持ち上げて振り回すのが評判で、「怪力」女剣劇と呼ばれるだけの理由はあったわけです。演技で見せるというより、そうしたアクロバティックな見世物が一座の売りだったのかもしれません。大江美智子や不二洋子がしっかりと芝居を見せていたのに比べて、伏見一座の格がやや下がる感じなのも、そのあたりに理由があるのでしょうか。

(伏見澄子の足跡は、後日整理して一覧にします)

そんなこんなで、伏見澄子の足取りがだいぶわかったところで、まずは字がはっきりしない「関弥太郎」を確認し(本当に「関」なのかどうか)、「関哲洲」との関係を調べ(「関哲洲」が「関弥太郎」になったのかどうか)、「関弥太郎」から「高杉弥太郎」への改名を辿ることができれば、大高の経歴がかなりわかりそうです。

「大高ヨシヲを探せ」は「高杉弥太郎を探せ」となり、いつの間にか「関弥太郎と関哲洲を探せ」になっていました。


→つづく

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