〔番外〕つれづれ話・その1

伏見澄子のことを書くはずですが、何しろ資料が乏しいのでネタがない。

うーん、困った、と難儀していたそんな折。

窪田精という作家が若い頃、伏見澄子一座に所属していて、その頃のことを『夜明けの時』という自伝的小説に書いていることを知りまして。先日、ヒョイと覗いた藤沢の古本屋の店頭に無造作に並んでいたその本を「これぞ奇跡の邂逅!」と歓喜の中、即座に手に入れて読んでいるところです。

三分の一ほど読み進めたところで、どうやらこの小説には大高の正体に迫れるようなネタはなさそうだとはわかったものの、当時の横浜の劇場やその周辺の様子、興行の仕組みや役者たちの日常のこと(食事や宿はどうしていたのか、など)が詳しく書かれていて、とても参考になります。

そんなこんなで、伏見澄子はちょっと先送りし、今回は、ネタに詰まった投稿のはざま、つれづれ話の駄文をおゆるしください。


以前、杉田劇場のTさんに、大高一座の座員には「高」が付く人が多いのではないか、と言われたことがありました。

大高一座のポスター(杉田劇場ウェブサイトより)

気にしてみると、たしかにその通りで

大高ヨシヲ
高田孝太郎
高島小夜里
小高美智代
高杉マリ子
高宮敏夫

「高」のオンパレードと言ってもいいくらい。

座長の名前から一字を取って芸名にするのはよくあることなので、Tさんには「座長が大高だからそれに因んだんじゃないでしょうか」と答えた記憶があります。

それっきりのいい加減な返答だったわけですが、先日、そのTさんがアップした杉田劇場のブログで、弘明寺の銀星座に「小林重四郎」と「月澄子」が出ていることを知って、ちょっと調べてみたところが、この両者は夫婦で、月澄子の方は戦前・戦中の有名女優、五月信子の姪であることがわかりました(この時、銀星座で上演している「高橋お傳」は五月信子の代表作です)。

なんでそんな人が銀星座に出るのかと思って、さらに調べているうちに、五月信子の最初の夫で、ともに「近代座」という劇団を主宰していたのが高橋義信という人だとわかったわけです。高橋義信…「高」「義」

この二文字でピンと来るのはもちろん「大高ヨシヲ」!。

実は彼の名前、「大高義雄」と表記されることもあるのです。


もしかしたら、高橋義信の弟子だったとか、彼の一座に所属していたとか。だから芸名を

大「高」「義」雄

にしたとか。

うーん、あり得ない話ではないゾ、と妄想がふくらみます。

ちなみに、高橋義信については、武田正憲の『諸国女ばなし』の中で、近江二郎らとともに大阪北濱の帝国座にあった川上俳優養成所で学んだと書いてあります。

高橋義信←→近江二郎←→銀星座! 

さらに、著者である武田正憲自身が俳優で演出家であり、1915年にやはり作家で演出家の川村花菱とともに「新日本劇」を立ち上げますが、そこにはなんと五月信子が参加しています。

武田正憲←→五月信子←→月澄子←→銀星座!

さらにさらに、前回の投稿で振り返った「日吉良太郎一座」のメンバーの中には「武田正憲」の名前があって(同一人物かどうか確認中)、しかも銀星座の専属劇団「自由劇団」には日吉良太郎一座のメンバーがいたわけです。

武田正憲←→日吉一座←→銀星座!

おまけに、なんと、戦後、横浜演劇研究所が発行していた機関紙「よこはま演劇」には、武田正憲と加藤所長の対談が載っていたりもするのです(資料、取り寄せ中)。

あれとこれとが、芋づる式につながっていく!

日吉良太郎−武田正憲−高橋義信−近江二郎−五月信子−月澄子−自由劇団−銀星座

ならば、このつながりの中に大高ヨシヲがいてもおかしくないはずだ!

なのに、大高ヨシヲにだけはたどりつかない!

嗚呼!

でも、これを地道に続けていけば、小さな情報を丹念に調べていけば、きっと大高の正体に行き着くはず。そう信じて、あちこち掘り返しては妄想と興奮に心揺れ動く日々。その後の情報がパッタリとなくなってしまった大高への切実な想い。

(きっと辿り着きますよね!)

ふぅ。 

というわけで、今回はそのつれづれの経過報告でございました。


ちなみに、五月信子は終戦とともに芸能界は引退しましたが、横浜の海岸通一丁目にあった「レストラン・ヨコハマ」を経営したりもしていたのだそうです(小柴俊雄『横浜演劇百四十年 -ヨコハマ芸能外伝-』より)。

大衆演劇のことを調べているはずなんですが、このつながりは一体どこまで広がるんでしょう。

なんだかすごいことになりそう。

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