(13) 旧杉田劇場のこと

あけましておめでとうございます。

今年こそ絶対に大高の正体に迫るぞ、というほどの熱さはありませんが、尽きない興味をゆるりとなだめながら、大高ヨシヲの探索を通じて、戦前、戦中、戦後の興行界のことなど、乏しい知識を深めていきたいと思う年頭でございます。

本年もよろしくお願いいたします。

それにしても、かなりマイナーなテーマな上に、自分勝手に書いているブログなので、わかりにくいこと甚だしく、読者のことなどほとんど考えていない自分のためのメモみたいな書き物ですが、あちこち飛躍する大量の情報を前に、自分自身の頭の中もやや混乱気味。これを整理するためにも、これまで出てきた事柄を振り返る必要があると感じ始めているこの頃です。

そんなこんなもあって、更新日をちょっと前倒しし、今回は大高調査の原点「旧杉田劇場」について整理してみたいと思います。


旧杉田劇場とは


基本情報

あえて「旧」と付けているのは、現在、「磯子区民文化センター」として磯子区新杉田にある文化施設の愛称が「杉田劇場」だからです。この愛称はたしか4つくらいの候補の中から公募で選ばれた記憶がありますが、そのうちのひとつであった「杉田劇場」は、もちろん旧杉田劇場の名前にちなんでのものです。

旧杉田劇場は終戦から約4ヶ月後、1946(昭和21)年の1月1日に開場した実演劇場、つまり映画ではなく生身の人間が演じる芝居や演芸を上演する劇場です。

所在地は旧番地「磯子区杉田町2184番」で、横浜市電・杉田線の終点のすぐそば。現在の住所でいうと「磯子区杉田4丁目4番」にあたり、ちょうどJR根岸線が国道16号線と交わる地点です。

JRの橋脚下に跡地を示す説明板があります

幸いなことに当時の写真がいくつか残っていますが、そのうちの劇場正面写真を見ると、入口は国道16号線に面しているのがわかります(よく見ると市電の線路があります)。ですが、奥で建物は左へL字に折れて、そこが劇場空間となっていました。

旧杉田劇場正面

同じ地点の現在の様子(高架の橋脚部分が旧杉田劇場正面)/Googleマップより

劇場内部について

正面入口を入って突き当たりに客席への出入口があり、そこを入ると客席を横切る中通路になっています(入口の敷居は丸太だったそうです)。中通路の右手(後方)は桟敷席、左手が前方の椅子席と舞台です。座席は今のような個別席ではなく、木製5人がけの長椅子でした。キャパ(収容人数)は320ですから、数だけで言えば現在の杉田劇場とほぼ同じです(ただし、もっと狭かったと思います)。

もともと「映画劇場」として計画されていたフシもあるので、客席の後方には映写室もあったんじゃないかと推測しています。

旧杉田劇場客席(杉田劇場ウェブサイトより)

客席から見た舞台の写真を参考に、僕なりに推測したステージのサイズは、間口(幅)がだいたい4間(7メートル強)、奥行が2.5間(4.5メートル)、プロセニアム(額縁)の高さが1.5間(2.7メートルくらい)。かなり狭い印象です。

下手側には斜めに走る花道があって、花道に沿ってその奥は下座(囃子方の席:三味線や太鼓などの音楽を演奏するスペース)です。舞台上手奥には大道具置き場と別棟の楽屋があって、浴室も完備されていました。おそらく宿泊できるスペースもあったと思われます。

旧杉田劇場舞台(杉田劇場ウェブサイトより)

ちなみに現在の杉田劇場のステージは、間口が約6.5間(12メートル)、奥行が約4.5間(8メートル)、プロセニアムアーチの高さが約3.5間(6.5メートル)ですから(劇場資料による)、数字を比較してみても旧杉田劇場の狭さがよくわかります。

日本庭園と海

客席に戻って、中通路をそのまま進むと、屋外へ出る扉があって、狭いながら日本庭園がありました。その向こうは海です。当時の杉田海岸はまだ埋立が進んでおらず、幕間に庭へ出れば湾の向こうに本牧岬が見えたことでしょう。左手には屏風浦から根岸にかけての海岸線や海苔の養殖棚が見えていたはずです。海水浴もできた海で、出番を終えた役者が化粧をしたまま泳いでいた、なんていう逸話も残っています。

そんな風光明媚な劇場ですが、庭には劇場の建物に接した便所もあって、その香しい匂いが劇場内にも漂っていたというのですから、なかなかに時代を感じさせます。しかし、振り返ってみれば、少し前の場末の映画館もそんな感じでしたね。

以上の情報から、現在の航空写真の上に当時の杉田劇場を落とし込むとこんな感じかなと思います。


演目について

この劇場には、当時のそれなりに有名な芸人や役者たちが来て、喜劇、剣劇、歌舞伎、漫才、落語、浪曲など、さまざまな演目を上演していました。横浜の中心部は約半年前(1945年5月29日)の大空襲で壊滅状態となり、ほとんどの劇場は焼失・崩壊していましたから、市電の終点という市街のはずれにあった劇場でも、終戦直後の娯楽に飢えていた市民にとってはほとんど唯一無二の憩いの場で、開場当初はかなりの賑わいだったそうです(旧杉田劇場の演目は現杉田劇場のウェブサイトにある「杉田劇場とアテネ劇場そして美空ひばり」のページに詳しく掲載されています)。

劇場の経営陣

劇場のオーナーは高田菊弥という人で、この人は長野県南木曽の出身。東京に出て深川で材木会社を経営していたとの話もあります。その彼が戦争の始まる頃、杉田劇場と同じ場所で、その近くにあった「日本飛行機」という海軍の航空機製造を担う軍需工場の下請けを始めます。ベニヤ板を貼り合わせて飛行機のプロペラを作っていたらしいのですが、具体的なことはよくわかりません。

終戦にともなって、日本飛行機は閉鎖となり、当然、下請け工場も仕事がなくなります。高田は工場に残っていたアルミ(飛行機の胴体を作る材料)で鍋を作って厚木あたりまで売りに行ったりもしていたそうですが、やがてその工場を改装して劇場を作る計画を立てます。

実は高田菊弥という男、芸事が好きで、深川時代は浅草に通って松竹座によく出入りし、役者の後援会長をしていたなんていう話もあります(本田靖春『「戦後」 美空ひばりとその時代』より)。その縁があってか、もしくは戦争中の演芸慰問の縁でか、浅草芸能界でそれなりの顔役だった鈴村義二という人の知遇を得ていて、劇場開設の相談を持ちかけます。

浅草というと、いまでは昔の風情を残す下町みたいな印象ですが、戦前・戦中はそれこそ、今でいう日比谷や新宿や池袋や渋谷といった、時代の先端を行く繁華街・劇場街で、そこで活動していた鈴村を現代風にたとえると「吉本興業やジャニーズ事務所に顔のきく人」くらいになるのかもしれません(ちょっと盛りすぎかな)。

いずれにしても、高田菊弥という実業家が、鈴村義二というプロデューサー(アドバイザー)を得て、磯子の地に杉田劇場という実演劇場を作ったのが「旧杉田劇場」の始まりです。いまから77年前の話です。

そして大高ヨシヲ

開場からひと月後、自ら杉田劇場へ売り込みに来た男がいます。

大高ヨシヲ。

戦前から各地の劇場で剣劇の舞台に立っていた旅回りの役者です。おそらく横浜近在の役者を集めて一座を立ち上げたのでしょう。劇場幹部は協議の末、大高と専属契約を結び、杉田劇場は開場からまもなく、「暁第一劇団(大高ヨシオ一座)」と称する座付劇団の興行をスタートさせることになります。

男振りのよかった座長の大高は、たちまち人気者となり、熱狂的なファンもついて劇場は連日満員の大盛況。大高目当ての客で京浜急行(当時はまだ東京急行電鉄=いわゆる「大東急」)の売り上げが増えたなんていうエピソードも残っているくらいです。

なのに、大高ヨシヲのことは今となっては誰に聞いてもよくわからない。大変な人気だったにも関わらず、年齢も出身地も、どんな役者だったのかも、どんな経歴で、またどんな経緯で座長になったのかも…

そんな彼のこと、旧杉田劇場の忘れられてしまった座付劇団の座長のことを、こうして地道に調べているのがこのブログ、というわけです。

(なんとなく旧杉田劇場のことは整理できたような気がしますが、どうでしょうね)


さて次回は、これまでにわかった「大高をめぐる人々」について整理してみたいと思います。

乞うご期待!


追記:YouTubeを検索していたら1951年(杉田劇場の開場から5年後)のニュース映像が出てきました。「女剣げき(女剣劇)」の流行を伝えるものですが(前半1:12くらいまで)、狭い舞台での立ち回りや満員の客席が映っていて、当時の劇場の様子がよくわかります(おそらく浅草でしょう)。杉田劇場で女剣劇の劇団が興行したことはないと思いますが、大高ヨシヲを含め、男性の剣劇は上演されていました。こんな感じだったのかもしれませんね。

→つづく

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