さて、今回からは、予告通り「大高ヨシヲをめぐる人々」について再考察してみたいと思います。
以前、大高の痕跡が見つかる前の投稿「大高ヨシヲは剣劇一座の座員?」で、調査範囲を横浜に縁のある剣劇一座にしぼると書きました。大江美智子一座(二代目)、近江二郎一座、梅沢昇一座、日吉良太郎一座の四座です。
このうち、近江二郎一座と日吉良太郎一座については、その後の調査で関係が裏づけられたので、僕の勘もそんなに大きく的を外れていたわけではなかったことになります(自画自賛)。
この二座に加えて、大高が関わっていた「伏見澄子一座」と、杉田劇場との関わりが深かったと思われる弘明寺の実演劇場「銀星座」。その4つについて、これから4回に分けて整理してみたいと思います。
近江二郎一座
近江二郎とは
『演劇年鑑』(昭和18年)の「演劇人総覧(舞台人の部)」にはこう記されています。
近江二郎(笠川次郎)明治25年 広島生まれ無所属大阪市生野区鶴橋南王町*-****
イマドキのご時世を考えて、番地は伏せておきましたが、原本にはバッチリ書かれています。個人情報もへったくれもない時代でしたね。とはいえ、おかげでこの調査では具体的なことがわかるのでとてもありがたいです(もっとも「生野区鶴橋南王町」というのがどこなのか、いくら調べても全然わかりません。わかる人、教えてください)。
近江二郎は本名を笠川次郎といい、若い頃、大阪・北濱の帝国座にあった川上音二郎の俳優養成所に通って芸を磨きました。やがて一座を結成し、剣劇(チャンバラ)や新派の芝居をもって、全国の芝居小屋で興行をしていたのです。
ネットで調べられる範囲だけでも、東京、大阪、京都、横浜、名古屋、青森、静岡…と全国各地での公演記録が出てきますし、驚くことに1930年から半年近く、アメリカのカリフォルニアとハワイでも興行しています。近江二郎一座は全国を股にかけて活躍していた旅回りの劇団です。
横浜や川崎でも頻繁に公演をしていて、戦後、昭和21年3月23日が初日の弘明寺・銀星座開場記念興行の際には新聞広告に「ヨコハマの人気者」とも書かれています。
大野一英『大須物語』(中日新聞本社, 1979.3)には、名古屋の古老の証言として以下のような記述があります。
"宝生座といえば近江二郎もよく来ました。ちょっとニヒルな、いい男。女房の深山百合子は新派の人で、楚々たる女。可憐でしたね。元帝劇女優の水野早苗もこの一座です。演しものは特異というか『グロの弥之助』など。一流の台本は使えなかったにせよ、この一座独自の台本をだれかに書いてもらっておるらしく、小味のあるのをやりましたね。だが、次第に不振となり、関西劇団の中堅どころの特志を仰いで応援出演してもらったりしてしのいでいたが、やがて閉座。『四谷怪談』だけは大入りだったのを覚えています"
(「元帝劇女優の水野早苗」は、のちに「春日早稲」「春日早苗」「春野早苗」と改名しているのではないかと推測しています。ちなみに帝劇女優時代の絵葉書がネットショップに出ていました→こちら)
近江二郎の人となりについては、ハワイ興行の際の新聞記事にもこんな記述があります。
"近江は廣島縣備後の代々醫者である家に生れた人で若い時に親から勘當まで受けて藝術研究に浮身をやつしたといふ話である本島には殊に備後人の有力者が多いから同君の為め歓迎會でも開いてはとの説もあるが彼が十五年ぶりで備後に歸つた時は俳優としての成功者として町内から大歓迎を受けて面くらつたという挿話もある。一座中のスターは磯島美津子深山百合子春日早苗野島咲子志村眞子などである"(Maui Shinbun, 1931.04.17)
実家が医者の家系というのは意外でした。広島出身者が多いハワイではかなり歓迎されていた様子もわかります。役者や演劇人というとお調子者や社会のはみ出し者みたいな印象がありますが、他の記事ではインタビューの際、「兄弟がアメリカにいるので米公演は念願だった。日本での契約を解消してやってきた。ギャラの多寡は関係ない」(意訳)などと答えていることからも、近江二郎という人は意外と誠実で真面目だったんじゃないかと感じます。
一座のメンバーと演目
アメリカ興行の際には、現地の新聞が大々的に広告を出していて、そこには彼らの演目や座員の名前が掲載されています。
渡米した座員は以下の通りです。
野島左喜子小磯美代月村菊子春日早稲(改名した水野早苗か?)松尾葛子松岡初子志村貞子深山百合子井村六之助池田恭戸田史郎米川豊高橋十郎瀧田隆二田代竹治松藤栄治藤川満寿雄近衛修明石照男
近江二郎
(邦字新聞『日米』/昭和5(1930)年10月26日付より)
このアメリカ公演は昭和5〜6年。それから15年あまり、銀星座公演の新聞広告には「深山百合子」「戸田史郎」「中村国太郎」「春野早苗(春日早稲の改名か?)」の名前があります。近江の妻の深山百合子は別としても、長く一座に在籍していた人がいたことからも、人望の厚い座長というのがわかります。
昭和6(1931)年4月20日付 馬哇新聞より |
また、新聞広告に掲載されていた一座の演目は以下のようなものです。
時代劇・美男村正・梅野由兵衛・時世は移る・天瀧の血煙・赤鞘安兵衛・観音長次・渦紋流し(これと同じ?)・白浪三巴・白痴の生涯・小野派一刀流・傳馬問答・刺青奉行・暗殺組・赤穂浪士・小松龍三
現代劇・金色夜叉・あの丘越へて・黄金地獄(この映画と同じか?)・乃木将軍・呪われる一家・青春の叫び・狂戀・海賊・一本杉・不如帰・作造の家・月下の人・罪を着て・野球狂時代・兄と妹※このほかに、「教訓的児童劇」というのを無料上演しています(邦字新聞『馬哇新聞』/1931(昭和6)年4月20日付より)
分類の「時代劇」がおそらく剣劇(ちゃんばら)、「現代劇」というのが新派や軽演劇なのだろうと思います。『黄金地獄』『呪われる一家』『野球狂時代』なんて、どんな芝居だったのだろうかと興味をそそられますね。
演目のうち、現代劇の『兄と妹』は銀星座の開場記念興行でも上演されています。15年後も同じものを演じているということは、一座にとってお得意のレパートリーだったのかもしれません。
近江二郎一座の文芸部員
この近江二郎一座の文芸部員(台本を書いたり演出をしたりする人)に大江三郎という人がいます。記録に出てくるのが昭和17年からなので、この頃、一座に入ったと思われます。東京・大阪・京都の公演記録に大江の名前が出てきますので、近江二郎一座の文芸部員として、劇団に帯同して全国を飛び回っていたのでしょう。
大江三郎はのちに杉田劇場の「暁第一劇団(大高ヨシヲ一座)」でも演出をしている上に(出演もしている)、残された写真の裏書には「支配人」とも書かれているので、大高一座にとって重要人物であることは間違いありません。ただし、昭和19年4月の段階では近江二郎一座公演の演出をしている記録がありますから(神奈川新聞記事)、終戦をはさんで大高の一座に移ったのか、もしくは近江二郎一座に籍を置いたまま大高の手助けをしていたのか、そのあたりは不明です。
ひとつ気になるのは、近江二郎と大江三郎の名前です。
近江二郎(おうみじろう)大江三郎(おおえさぶろう)
どう見てもそっくりです。僕自身、一時期は同一人物だと思っていました。
ですが、昭和21年の3月に近江二郎一座は弘明寺の銀星座で開場記念興行をやっていて、大高ヨシヲ一座もまったく同時期に杉田劇場で連日興行を行なっています。近江が自分の劇団の公演をしながら大高の劇団の演出をするというのは、かなり困難だと思われますので、やはり別人と考えるのが妥当です。
近江二郎一座には「大山二郎」なんていう役者もいましたし、近江の内弟子を経て、のちに吉本興業に入り、新喜劇で活躍する平参平の旧芸名が「近松小二郎」で、これも字面がよく似ています。座長の名前の一部をもらって芸名や筆名にするようなことは頻繁にあったのでしょう。
大高葬儀の写真を見る限りでは、大江三郎は30代くらいの若い人のように感じられます。大高が亡くなって、一座が解散した後、大江が何をしていたのか、いまのところ記録が見たらないのでよくわかりません。
引退して別の仕事に就いたのか、名前を変えて活動を続けていたのか。いずれにしても、斜陽になりつつあった実演演劇の世界ですから、戦後、演劇の興行界で生き残っていくのはそう簡単ではなかっただろうと思います。
近江二郎一座と渥美清
渥美清が杉田劇場の舞台に立った、という話があるものの、それを裏付けるものがない、ということは以前にも書きました。
実は、近江二郎の孫にあたるのが、大衆演劇の「近江飛龍劇団」 座長、近江飛龍という人です。その方が
"僕の祖父に当たる初代近江二郎が近江劇団を作ったのが明治時代で、僕の父の兄弟弟子には、渥美清さん、平参平さんなどがいたと聞いています。詳しいことは文献がないのでわからないのですが…"
(KANGEKI /「はじめての大衆演劇」講座レポ~近江飛龍座長トークと実演付き!~より)
と話しているのです。
ということは、渥美は近江二郎一座の座員として杉田劇場に来たのかもしれません。しかし、やはり文献がないと述べていることからも、正確なところは不明なままです。
渥美清という人は、自分のことを語りたがらない人だったそうで、自伝はありますが、浅草のフランス座に入る前の話は(いささか後ろ暗いところもあるのか)、詳しい記述がありません。
下積み時代のエピソードとして、大宮の日活館における『阿部定一代記』が初舞台であること、川崎の劇団で「パンツの匂いを嗅ぐ男」というバラエティーショウに出たことは、渥美ファンならば有名な話でしょうが、少なくともこの2作品については、タイトルからして近江二郎一座の演目ではないように感じます。
当時、渥美清はいくつもの劇団を渡り歩いていたようなので、近江二郎一座もそのひとつだったのかもしれません。そんなに長期の所属ではないと思われる中、たまたま杉田劇場での興行にあたったというのも相当な奇縁ですから、なんとか確証を得たいところですが、なかなか判明しません(ちなみに、戦時中、剣劇の舞台に立っていた役者に「渥美清一郎」という人がいます。この人と混同しているんじゃないかという疑念も浮かびますが、残念ながらこちらも確証はありません)。
余談ですが、渥美清が初舞台を踏んだ劇場、大宮の日活館は、作家の太宰治が通っていた映画館なんだそうです。
さて、以上のような整理ですが、近江二郎のことは、まだまだ調べ尽くせてはいません。ただ、こうして時系列で並べてみると、近江二郎という人の人物像と一座の活動の様子が少しわかってきたように感じています。
いかがでしょう。
次回は近江二郎以上に横浜と縁の深い「日吉良太郎一座」について考えてみます。
→つづく
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