渥美清が旧杉田劇場の舞台に立ったと現杉田劇場のウェブサイトにも掲載されていますが、実は彼の若い頃の経歴はよくわかっていません。所属していたとされる劇団が杉田で公演したことがあるようなので、それをもって「立った」と言うこともできそうですが、僕にはまだ確証がありません(これも継続調査中です)。
その渥美清が浅草の舞台に出演するようになるのは、1951年頃。浅香光代はすでに自分の一座を結成して人気者。てんぷくトリオ結成前の三波伸介や戸塚睦夫がその一座に参加しており、後年、1956年頃、井上ひさしがフランス座の文芸部員となる。
鈴村を通じて、浅草とも細い糸でつながっている旧杉田劇場の歴史は、その前史ということになります。そんな時代の話…
さて、映画劇場をつくると決めた高田菊弥が頼った相手は鈴村義二。片山氏の証言からもそれは間違いありません。映画界・芸能界には疎かったであろう高田にとって、鈴村は心強い存在だったと思います。
しかし鈴村の経歴からすると、彼の主な活躍の場は芝居小屋や演芸場。スクリーンではなかったように思います。映画劇場を開こうという高田の話を聞きながら、鈴村はどう思ったのでしょう。
ここからは完全に僕の想像(妄想?)です。
主に実演者のマネジメントをしてきた鈴村からすれば、映画劇場では自分の人脈を十分に使えない。付き合いのある芸人や役者に仕事を回せない。もっと露骨にいえば、利益は映画会社に持って行かれて、仲間内にも自分にも分け前が降りてこない。映画館では自分の力を十分に発揮できないではないか。
そう思ったとしてもおかしくはありません。
昭和20年11月、戦争を生き延び、杉田の地で再会したこの二人の間にはどんな会話が交わされたのでしょうか…(以下、妄想が肥大化した果ての創作です)
高田「鈴村先生、戦争が終わって、これからは娯楽の時代です」鈴村「そうだね」高田「娯楽の中でも先々を考えれば映画。映画が娯楽の王様になると私は確信しています。だから杉田に映画劇場を作ろうと思っているんです!」鈴村「うむ…」高田「映画こそがこれからの時代…」鈴村「高田さん」高田「はい」鈴村「あなたの考えは悪くないが、映画はまだは早い」高田「そうですか?」鈴村「戦争が終わってまだ半年も経っていないんだ。フィルムだって十分にはないし、GHQの問題だってある。売れる映画がすぐにできるなんて保証はない。実はいま、浅草で一番ウケているのは、喜劇や剣劇や浪曲。実演だよ、実演。今、劇場を始めるなら絶対に実演だ」高田「実演、ですか…」鈴村「いいかい。私は伊達や粋狂で言っているんじゃない。生き馬の目を抜く浅草の興行界を、何十年も渡り歩いてきた男の勘が、そう言わせているんだ」高田「勘…」鈴村「もっとも、それを信じるか信じないかは、高田さん、あなた次第だよ」高田「…わかりました。鈴村先生を信じます。杉田は実演の芝居小屋にします!」鈴村「高田さん! あなたならわかってくれると思ってたよ。私も命懸けでやる! 力を合わせてがんばりましょう!」高田「はい!」
なんていう芝居がかったクサいやりとりがあったかどうかはわかりません。ただ、理由は定かではないものの、鈴村には高田の新劇場を実演専門の芝居小屋にした方がいいと考える何かがあったのだろうとは推察できます。そのあたりは戦前・戦中の鈴村の活動をさらに調べてみることでもっとよく見えてくるような気はします。継続調査です。
鈴村義二 |
(と、ここまで書いて、なんだか鈴村を悪者に描きすぎているような気がしてきたので、ひとつフォローすると、杉田劇場の開場後、滝頭の天才少女、加藤和枝ちゃんが大高ヨシヲ一座の幕間に幕前で歌っている姿を見て、即座にその才能を見抜き、舞台で歌わせるようにと指示したのは鈴村だそうです。つまり、のちの美空ひばりを最初に見出したのは鈴村義二といってもいいのかもしれません。芸を見極める眼力はやはり確かなものだったのでしょうね)
ともあれ、そんなこんながあったりなかったりの末に、新聞記事にあった「杉田映画劇場」は「映画」を外した「杉田劇場」としてオープンすることとなります。
終戦からちょうど4ヶ月半、1946年、昭和21年の元日です。
→つづく(次回は週末)
2 件のコメント:
ワクワクしてきます!
続きを待っています!
ありがとうございます。がんばります!
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