(6) キーマン 鈴村義二・2

 鈴村義二の名前、いまは広く世間に知られているとは言い難いものですが、当時の浅草を中心とした興行界(芸能界)では名の知れた人で、それなりの活躍もしていたようです。ただ、詳しいことはよくわかりません。

鈴村は後年、『浅草昔話』という本を出していますが、奥付けにある、自身が書いたと思われるプロフィールにはこうあります。

  • 明治三十一年 下谷西町に生る。
  • 大正十年 東亜青年同盟会組織、会長。
  • 大正十四年 下谷区会議員当選。
  • 大正十五年 振興青年団々長。
  • 昭和元年 日連[ママ]主義天法会々長。
  • 昭和元年より終戦まで浅草木内興行相談役として大衆演劇の育成指導並劇団顧問。
  • 昭和六年 海江田プロ理事長、大阪極東キネマ撮影所相談役。
  • 昭和六年 政治結社革新青年同盟を組織。
  • 戦時中、剣舞踊、民謡を主体に瑞穂絃楽団を組織、軍需省派遣にて全国慰問に従事。
  • 大麻博之殿主の詩吟道場日本放光殿剣吟舞踊並びに舞踊田毎流宗家田毎一平と号す。
(鈴村義二著「浅草昔話」南北社事業部 昭和39年12月30日発行 より)

失礼ながら、なかなかのアヤシさで、いかにも昭和の興行界という感じがします。

ここに書いてある「木内興行」は戦前から浅草で劇場経営や芸人・劇団の、いまでいう「マネジメント」をしていた興行会社(芸能事務所)で、エノケンとも関わりがあったくらいですから、力のある事務所だったのだろうと思います。木内興行の相談役を「終戦まで」としてあるのは、戦後、声のかかった杉田劇場に軸足を移したことを意味しているのかどうか、詳細はよくわかりませんが、いずれにしても、終戦までは鈴村はこの木内興行との関わりの中で、上野・浅草あたりの劇団や芸人たちを仕切っていたのではないかと推察されます(片山氏の証言にある「浅草の芸能界で有名」とはそういうことなのでしょう)。だから、杉田劇場に出演した劇団や芸人は、少なくとも開場当初は鈴村がブッキングしたのだろうと思います(彼らと木内興行との関係も調べてみる必要がありそうですね)。

もうひとつ、鈴村義二と高田菊弥のつながりをうかがわせる重要な手がかりが、このプロフィールの中にあります。

「戦時中、剣舞踊、民謡を主体に瑞穂絃楽団を組織、軍需省派遣にて全国慰問に従事」

戦時中、外地(戦地)への慰問が行われていたのはよく知られていますが、国内、特に炭鉱や軍需工場への慰問もかなり行われていたそうです。ネットで見つけた論文にはこんな記載があります。

“アメリカの石油輸出禁止によって深刻な資源不足に陥っていた日本は、国内の炭坑や鉱山の資源確保に力を入れていた。そこで多くの労働者が登用され、昼夜問わず過酷な労働環境の中で働く“鶴嘴戦士”が誕生した。また工場でも増産が叫ばれ、“生産戦士” らにも過酷な労働条件が課されていた。彼らを激励し、より生産効率を上げることを目的に、大日本産業報国会によって多くの演芸慰問団が組織されたのである。 歌や踊り、漫才や映画上映など、その種類は多岐にわたっていた”
(葛西真由香「昭和戦時下における慰問団の実態についての一考察」/『政治学研究64号』慶應義塾大学法学部政治学科ゼミナール委員会, 2021 p.9-10)

鈴村の組織した演芸慰問団が「軍需省派遣」であるということからも、彼が演芸慰問団を率いて、主に軍関係の生産現場を巡っていたのだろうと推察されます。

実際、鈴村と慰問の関係は、林家正蔵の戦中日記からも窺い知ることができます。

“(昭和20年)三月二十八日(水)
山ふところの梅林を観ながらに走るトラックのうへ。
鈴村義二氏に誘はれて山北の山間へ慰問に行く。久しぶりで田舎へ来てノンビリした(中略)移動連盟の人達と一緒だったがこれ又すはほな連中である(以下略)”
 (八代目林家正蔵『八代目正蔵戦中日記』(瀧口雅仁編/中公文庫)より*下線筆者) 
※傍注には「作家」とありますが、実際は「興行師」「プロデューサー」の方が近いんじゃないかと思います

疎開先でもおかしくないような地にどうして慰問団が行くのだろうと思って調べてみると、戦時中、山北町には「江戸川工業所(現・三菱ガス化学)」という化学薬品メーカーの工場があって(1933(昭和8)年開設)、海軍のロケットエンジンの燃焼実験にも関わっていたそうです(なんと日飛の「秋水」とも関係しているではないか!)。やはり一種の軍需工場ということになるのでしょう。林家正蔵らの目的地は、その工場だったにちがいない。そこに鈴村が(おそらく)随行していたわけです。

とすると、鈴村義二が演芸慰問団を連れて杉田の「日本飛行機」を訪れていたとしてもまったくおかしくありません。高田も従業員とともに公演を見に行ったことでしょう。下請けとはいえ社長ともなれば、日飛の担当者と一緒に、公演後、芸人や鈴村に接待のようなこともしたかもしれない。少なくとも対面での挨拶くらいはあったと思います。それが回を重ねていくうちに、

「鈴村先生!」
「やあ、高田さん」

という関係にもなる(「昵懇の間柄」)。想像に難くないところです。

これを確実なものにするためには、神奈川県内(横浜市内でもいい)の慰問状況を具体的に調べ上げることが必須ですが、戦時中のこうした記録が残っているかどうか。他の人の戦中日記を渉猟することも併せて、継続調査したいと思います。

ともあれ、これで、まったく無縁に思われた高田菊弥と鈴村義二のつながりが、うっすらと見えてきました。

→つづく


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